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第59話 名もなき感情

 夢の中のコルネリアは、まだ子どもだった。


 白い指先に、定規が鋭く打ち下ろされる。

 乾いた音。痛くても泣いてはならない。泣くのは時間の無駄だと家庭教師は言った。


 窓の外では、同じ年頃の子どもたちの笑い声が聞こえる。土を蹴り、木陰へ逃げ込み、誰かが転び、また誰かが笑う。


 コルネリアはそれを見てはいけなかった。



「前を」


 冷たい声が飛ぶ。

 背を伸ばし、顎を引き、視線を戻す。


 建国の父ルードルフの血筋に連なり、第二の王室とも呼ばれるベッケンバウアー公爵家。その長女として生まれた彼女に与えられたものは、愛らしい幼年ではなく、王妃になるための厳しい教育だった。


 朝は古語の朗読から始まる。

 午前は歴史と法と系譜。

 午後は舞踏と音楽と礼法。

 夜は異国語。


 足先の豆が潰れて皮が剥けても、舞踏の稽古は終わらない。

 背に木の棒を差し込まれ、真っ直ぐに歩くことだけを何刻も求められる。

 発音が鈍ればやり直し。異国の言葉だけで数か月を過ごさせられ、夢の中でさえ母語が遠のいたこともあった。


 楽しいからではない。

 好きだからでもない。


 そうしなければならないからだ。


 自分こそが、王太子の妃となるべき女なのだと。

 次の国母となるべき人間なのだと。


 誰よりも先に、それを自分に言い聞かせねばならない。

 そうして掴み取った婚約だった。


 王太子フリードリヒとの婚約。家が望み、周囲が称え、教師たちがようやく満足そうに頷いた、長い努力の果ての戦果。


 勝ったのだと思った。

 すべては報われたのだと思った。



 だが、夢はそこで終わらない。


 婚姻。即位。王妃。


 ついにその座へ辿り着いたはずなのに、肝心の国王が寄り付かない。夜は別々に過ごし、朝も短い言葉だけが交わされる。

 王妃となってから五年。世継ぎはできず、宮廷の視線は少しずつ湿ったものへ変わっていった。


 そして、側妃オリーヴィアの懐妊。


 それを聞いたときの、喉の奥が焼けるような感覚は今でも忘れられない。


 先を越された。


 王妃でありながら、子も成せぬ女。

 国母となるべく生きてきたのに、ただ王の隣にいるだけの飾り。


 誰も口には出さない。

 出さぬからこそ、それは余計に骨へ染みていく。


 ならば、なおのこと――


 夢の中の『彼女』が、そう呟く。


 奪わねばならぬ。

 この座には自分が相応しいのだと、もう一度、誰の目にもわかる形で示さねばならぬ。




 そこで夢が途切れた。


 目を開けた時、最初に感じたのは重さだった。

 身体が鉛のように沈み込み、胸の奥まで疲れているような感覚がある。腹のあたりには鈍い空虚と、遅れてきた痛み。

 喉は乾き、唇はひび割れていた。


 天蓋の布が、かすかに揺れている。

 見慣れた自室だった。香の匂いも、絹の肌触りもいつも通り。けれどそこには、夢の余韻と現実のだるさが混ざっていた。


 やがて記憶が追いつく。


 ――産んだのだ。


 痛みの波。押し殺した声。周囲の慌ただしい気配。

 途中からはもう断片的にしか覚えていない。疲労が限界を越え、意識が落ちたのだろう。


 それでも、ひとつだけはっきりしていた。


 男児。


 王子。


 その事実が意識の底で形を持った瞬間、コルネリアの口元に笑みが浮かんだ。


 ついに得たのだ。


 王子を。

 世継ぎを。


 国母の座に相応しいと、誰にも否定できぬ証を。



 かすかな笑みを見て取った侍女が、すぐに身を寄せた。


「王妃殿下」


 声は安堵に震えていた。


「お目覚めでございますか」


「……何刻」


 掠れた声しか出なかった。


「夜明けを少し過ぎた頃にございます」


 侍女はそう答えると、扉の外へ合図を送った。


 ほどなくして、別の侍女が入ってくる。その腕には、小さな赤子が抱かれていた。さらにその後ろからフリードリヒが姿を現す。


 顔には疲れが残っていた。

 それでも、その目には隠しようのない(たかぶ)りがあった。


「目を覚ましたか」


 最初に出たのは、労りではなく確認するような言葉だった。

 しかしすぐに周囲の目を思い出し、フリードリヒは言葉を継いだ。


「……まずは、無事でなによりだ」


 半拍遅れたその声音には、情がまったくないわけでもなかったが、自然に溢れたものでもなかった。

 夫として、王として、ここでそう言うべきだと意図した言葉だった。


 コルネリアは静かに受け取る。


 傷つきもしない。

 喜びもしない。


 この男がそういう人間であることなど、とうに知っていた。



「はい」


 コルネリアは答える。


 声を整えようとして軽く咳き込む。侍女がすぐに水差しを寄せてきたが、コルネリアはそれを軽く手で制した。


「……子を」


 その一言で十分だった。


 侍女が恭しく歩み寄り、腕の中の赤子を差し出す。

 慎重に、壊れ物よりも注意深くその小さな体を受け取った時、コルネリアは初めて自分の子を間近で見た。


 薄茶色の柔らかい髪。

 目はまだ開いておらず、頬は丸く、皮膚は頼りなく薄い。


 温かい。


 その体温が、驚くほどはっきりと腕に伝わった。


 薄茶色の髪は、フリードリヒと同じだ。

 だが同時に、あの男――エルヴァンにも似ている。


 けれど、いまはそれ以上考えなかった。いや、考える必要がないと思った。

 どちらの血であろうと――王子であることに変わりはない。王宮も、王国も、どうせそこしか見ないのだ。


 それだけで十分なはずだった。


 だが、そう言い切れぬなにかが、胸の底に生まれているのに気づく。


 そっと、頭へ触れる。

 産毛のような髪は驚くほど軽かった。


 頬へ触れてみる。

 やわらかい。熱を持った薄い皮膚の下で、確かに命が息づいている。


 不意に、奇妙な戸惑いが広がった。


 子など、道具に過ぎぬ。

 自分を勝利へ導く札であり、地位を盤石にするための証でしかない。


 その考えは今も変わっていなかった。いや、変わるはずもなかった。

 なのに、腕の中の小さな重みは、理屈だけでは捉えきれないなにかをじわりと押しつけてくる。


 この感情に名は要らない。


 むしろ要ってはならぬ気がした。


 コルネリアが顔を上げる。そこに見えるのは、いつもの彼女のままだった。取り乱さず、涙ぐみもせず、王妃として子を抱いていた。


 その彼女へ、フリードリヒが歩み寄る。


「カッサリアから使者が来た」


 その言葉で、コルネリアの意識はすぐに現実へ引き戻された。


「……そう」


「前向きな返答だった。軍の編成と遠征準備を進めている、と」


 フリードリヒの口調には、喜びと安堵が露骨に混じっていた。


「時はかかるが、来るそうだ。持ちこたえてほしいと」


 コルネリアは赤子を抱いたまま目を細めた。


 王子を産んだ。

 カッサリアは動く。

 ディーターの追求は退けた。

 娘を産んだオリーヴィアは、もはや脅威ではない。


 盤は揃ったと、そう思えた。



 産後の身体はまだ重い。腹の痛みも消えてはいないし、思うように動けぬ苛立ちもある。しかし、その程度の不快など、いまの彼女には些末なことだった。


 もう負ける理由がない。


 ようやく、自分の人生は自分を裏切らずに済んだのだとさえ思えた。


 フリードリヒが、腕の中の赤子を覗き込む。


「よくやった」


 その言葉が、妻への労いなのか、王子を産んだことへの満足なのかはわからない。

 たぶん両方なのだろう。

 コルネリアは問いただそうとはしなかった。問うまでもない。いま必要なのは、彼の真情ではなく、この場で彼がなにを口にしたかだけだ。


「当然のことをしたまでにございまする」


 そう返した声は、少しも揺れなかった。

 

 その直後、腕の中の子が小さく身じろぎし、ほんの小さな声が漏れる。


 コルネリアは反射のように、抱き方を少し変えた。頬へかかる布の端を整え、赤子の体温が逃げないよう寄せる。


 自分でも意識しない動きだった。

 そのことに、わずかに腹が立つ。


 道具であればよい。

 札であれば足りる。

 それ以上のなにかを、この子に向ける必要はない。


 そう思いながらも、指先はもう一度、赤子の髪を撫でていた。


 フリードリヒが侍女たちへ何事かを命じ始める。祝いの用意、重臣たちへの知らせ、王子誕生の公表。部屋の中は静かに慌ただしくなり始めた。


 コルネリアはその気配の中で、赤子を見下ろした。


 小さな顔。

 閉じたままの瞳。

 温かい重み。


 すべてが勝利の証にほかならない。


 そう思うと同時に、その勝利が思った以上に生々しい重みを持っていることが、少しだけ気に食わなかった。


 それでも、口元には笑みが浮かぶ。


 柔らかいものではない。

 慈母のそれでもない。


 王子を得た女。

 王妃として、ついに欲しかった札を手に入れた女の笑みだった。


 そしてその奥には、自分でも扱いきれぬ熱がまだほんのわずかに残っていた。

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