第58話 重なる希望
夜と朝の境が、まだ曖昧な時刻。
白銀宮の奥、内向きの区画には普段とは違う緊張感が満ちていた。
燭台の火は落とされず、廊下には明かりが揺れ、侍女や女官たちが足音を殺して行き来する。
産婆が湯の具合を確かめ、女官が布を運び、別の侍女が薬草の匂う器を抱えて早足に通り過ぎていった。
側妃オリーヴィアの出産から、まだ三か月しか経っていない。段取り自体は皆もうわかっていたが、それで気が楽になるというわけでもなかった。
今回は正妃の出産であるため、王城の内外では王子の誕生が待ち望まれていた。
もしもここで万が一でもあれば、ただの不首尾では済まされない。それを知っているからこそ、慣れは手際の良さになっても、決して余裕には繋がらなかった。
コルネリアの私室の前には、二人の護衛の騎士が硬い表情で立っていた。その前の廊下には、国王フリードリヒがいる。
オリーヴィアの時もそうだったが、たとえ王であっても出産中の部屋へ踏み入ることは許されない。
出産は女たちだけの世界である。夫であれ王であれ、ただひたすら外で待つしかなかった。
フリードリヒは、落ち着かない様子で廊下の同じ場所を何度も行き来していた。
足を止めては扉を見て耳を澄ませる。だが、中から聞こえてくるのは、押し殺した声や布の擦れる音だけ。
ときおり産婆の声が漏れ聞こえるが、それだけでなにがどうなっているのかまではわからない。
フリードリヒの顔に言いようのない表情が浮かぶ。その正体は、近くで見てもよくわからなかった。
コルネリアの身を案じているのか。
世継ぎの王子が生まれる可能性に気が急いているのか。
それとも、カッサリアとの縁を握る女に、いま死なれては困ると考えているのか。
たぶん、そのどれもが混じっているのだろう。あるいは、本人にもよくわかっていないのかもしれない。
廊下の端で控える騎士たちもまた、気を張っていた。
それは、王妃の出産の場に立ち会っていたからではなく、恐れ多くも、目の前に国王がいるからだった。
そんな張りつめた空気の中へ、若い文官が駆け込んでくる。
足音を潜める余裕もなかったのだろう。角を曲がるなり膝をつき、息を切らしながら頭を下げた。
「陛下……!」
フリードリヒが振り向く。
「なんだ」
「たったいま、カッサリアより使者が到着いたしました」
その一言で、王の目つきが変わる。
王妃の部屋へ向けられていた意識が、一瞬で引き寄せられた。どれほど出産が気になっていようとも、王としてはそちらを優先せざるを得ない。
「会議室か」
「はっ」
フリードリヒは部屋の扉を一度だけ見た。直後に、ほんのわずかに迷うような間があったが、それも長くは続かなかった。
「動くぞ」
誰に向けたともつかぬ一言を残し、踵を返す。侍従と護衛が慌てて後ろをついていった。
白銀宮の会議室には、すでに宰相ヨッヘムと数人の廷臣たちが集まっていた。
ディーターの姿もある。表情は相変わらず硬く、目の下に疲れの影が残っているが、立ち姿だけは崩れていない。
会議室の中央に、一人の男が立っていた。
痩せて見えるのは、もともとの体つきのせいだけではない。
旅塵にまみれた外套、泥のついた靴、頬に刻まれた浅い擦り傷。
身なりを整える暇もなく、ここまで通されたのだとわかった。従者も護衛もなく、たった一人である。
フリードリヒが席へ着くなり、問いを投げた。
「そなたがカッサリアの使者か」
男が深く頭を垂れる。
「は。カッサリア王国、外務書記官のアルマンと申します」
「一人か」
法務の廷臣が思わず口を挟んだ。
アルマンは顔を上げぬまま答えた。
「城塞内へ入るまでに、オーランジュの包囲を避ける必要がございました。大人数では目立ちます。南東の薄い区画を、夜陰に紛れて抜けて参りましたが……結果として、ここまで来られたのは私一人のみでした」
ヨッヘムが頷く。
いまのザッテルハイムが、連絡一本通すにも命がけの状態にあることを、その男の姿自体が物語っていた。
「国書を」
フリードリヒが手を伸ばす。
アルマンは両手で丁寧に封書を差し出した。封蝋には、確かにカッサリア王家の紋が刻まれている。
会議室の空気が静まり返った。
フリードリヒはそれを受け取り、自ら封を切る。横からヨッヘムが身を寄せ、ディーターも視線だけを落とした。
文面はそう長くなかった。けれど、読み進めるうちに、フリードリヒの表情がはっきりと変わった。
「……おお」
思わず漏れた声は、半ば吐息のようだった。
ヨッヘムが目を細める。
「陛下」
フリードリヒは、紙を持ったまま周囲を見渡した。
「カッサリア王は、我が国の窮状を理解し、すでに軍の編成と遠征の準備を進めているとある」
その一言で会議室の空気が動き、法務の廷臣が身を乗り出した。
「では――」
「出立にはなお少し時を要するが、それまでなんとしても持ちこたえてほしい、と」
フリードリヒの声には、失われていた熱が戻っていた。
書状を持つ手に力が入る。そして告げる。
「援軍は来る」
会議室の空気が明らかに変化した。誰も声を上げて喜んだりはしないが、先ほどまで胸の奥へ沈んでいた重苦しさが、少しだけ去った。
ヨッヘムがゆっくりと言う。
「……これで、籠城に意味が出ますな」
その言葉は、会議室内の者たちの胸中を代弁していた。
援軍の当てがない籠城は、ただの延命でしかない。
しかし、外から助けが来るのであれば話は変わる。城壁の内で耐える日々は、そのまま勝ち筋へ繋がるからだ。
大蔵の廷臣が小さく息を吐いた。
「持ちこたえさえすれば、よいのか」
そこでディーターが初めて口を開いた。
「持ちこたえるだけで終わりではありません」
低い声だった。
しかしその声音には、わずかに明るさが戻っていた。
「カッサリアがオーランジュの背面へ出れば、敵は包囲を維持したままそれを受けることになる。そこが崩れれば、我らも城内から打って出られる」
フリードリヒが大きく頷く。
「そうだ。挟撃できる」
その状況を想像したのだろう。彼の顔には明るさが差した。
ほんの少し前まで、この城塞は延命のための器でしかなかった。
だが、今は違う。
そこに持ちこたえる意味が生まれたのだ。
ヨッヘムがアルマンへ向き直る。
「出兵までは、どの程度か」
「明確な日数は知らされておりません。ただ、軍の編成と遠征準備を急がせている、とだけ」
使者の返答はあくまで慎重だったが、それでもいまは十分だった。
王城の者たちに必要だったのは、確約の細部ではなく、「来る」という一語だったからだ。
ディーターがすでに意識を切り替えた。
「この報せは軍本部へ回します」
フリードリヒへ一礼する。
「城壁上の布陣、備蓄の配分、交代の間隔。すべて持久前提で組み直します」
ヨッヘムも頷く。
「城内の動揺を抑えるにも使えましょうな」
民と兵の不安は深い。勇者の噂も消えない。
しかし、援軍が来るという報せは、それらを押し返すだけの力を持つ。
会議室の空気は、久しぶりに生きたものになっていた。
その時だった。
扉の外で、再び足音が止まる。
今度はもっと急いていた。
「失礼いたします!」
飛び込んできたのは女官だった。頬を紅潮させ、息を弾ませている。先ほどの文官と同じく、許しを待たずに膝をついた。
「王妃殿下が――」
そこで大きく息を吸い込む。
「ただいま、ご出産なさいました」
その場の誰もが身を乗り出した。
女官が顔を上げると、その瞳は興奮に濡れていた。
「お子は、王子にてございます!」
言葉の意味が会議室全体へ行き渡るまで、ほんのわずかな間があった。
しかし次の瞬間、空気が弾けた。
「王子……!」
大蔵の廷臣が声を上げる。
法務の男が思わず顔をほころばせる。
フリードリヒは目を見開いたまま立ち上がり、椅子が大きく音を立てて倒れた。
「男児か」
「はい。母子ともにご無事にございます!」
それを聞いたフリードリヒの顔から、ここしばらく張りついていた翳が剥がれ落ちた。
援軍の報に、王家の嫡流となる男子の誕生が重なった。
その知らせは、対オーランジュに希望を差し、国の未来まで繋がったように思えた。
いつも苦み走った表情のヨッヘムでさえ、わずかに口元を緩めた。
「これは……まことに吉報ですな」
ディーターは大きく顔を崩しはしなかったが、それでも目の奥の硬さは少し和らいでいた。現場へ戻る足取りもいくらかは軽くなるだろう。
会議室内の者たちは、ここしばらく忘れていた明るさをようやく思い出していた。
声の調子が変わる。立ち上がる者もいる。誰かが「祝いを」と言い、別の者が「城内にも知らせねば」と応じる。
包囲され、噂に揺れ、不信が沁み込んでいた王城の中で、その朝だけは確かに別の空気が生まれていた。
援軍が来る。
王子が生まれた。
いまはただ、持ちこたえればいい。
そう信じられるだけの材料が、同じ朝に一度に揃った。
窓の外には、ようやく朝日が昇り始めていた。
差し込む光はまだやわらかく、長い夜を押し返すほど強くはないが、それでも、その朝の王城にとっては十分すぎるほど眩しいものだった。




