第57話 王都ザッテルハイム
真夏の盛りだった。
空は高く晴れているが、風は重く、明るい陽が容赦なく地の熱を煽っていた。
街道には白い埃が立ち、草の香りと汗の匂いが、ぬるい空気の中で混じり合う。
南へ向かうその街道の先に、ようやくそれは現れた。
ジルニッツ王国の王都、ザッテルハイム。
白い石造りの塔と屋根が陽を受けて鈍く光り、遠目には洗練された優雅な都市に見える。
しかし、それは同時に、厚い城壁と高い塔に守られた巨大な城塞都市でもあった。
その姿を、ハインツ率いるオーランジュ軍は小高い丘の上から見下ろしていた。
貴族連合軍との会戦から、気づけば二か月が経っていた。
戦場の後始末と軍の再編、負傷兵の整理と補給の立て直しに一か月。そこから南下を再開して王都へ至るまでに、さらに一か月。
沿道の小領主たちは、橋を落とし、街道を壊し、夜陰に紛れて小規模な妨害を繰り返した。どれも決定打にはならなかったものの、進軍の速度を削るには十分だった。
加えて、この暑さである。
祖国オーランジュよりはるか南の地。容赦なく照りつける陽も厄介だったが、さらに兵たちを苦しめたのは湿気だった。
鎧の下では肌に布が張りつき、首筋から背へ汗が流れ落ちる。槍を持つ手は蒸れ、荷駄を引く馬の息も重い。
まだ戦ってすらいないのに、歩くだけで体力が削られていく。
丘の下では荷車が列をなし、歩兵たちが腰を下ろし、工兵たちが資材と道具を下ろしている。戦奴隷の一群もまた、ようやく短い休止を許されていた。
バートは草の上へどっかり座り込むと、汗に濡れた首を乱暴に拭った。
「……やっと着いたかよ」
口から出たのは、文句とも安堵ともつかぬ声だった。
隣で同じように座り込んでいたエティが、干からびた顔で空を見上げる。
「もうこれ以上歩くのは勘弁だぞ、おれは」
「まだ着いただけだ。なにも始まってねぇ」
「うるせぇ。黙ってろ」
バートが鼻を鳴らすが、その声にいつもの棘は薄い。目の前に目的地が見えただけで、長い行軍がようやく終わった気がしたからだ。
少し離れたところに立つエルネストは、いつものようになにも言おうとしない。暑さにも疲労にも顔色一つ変えずに、ただ王都を見つめている。
その横顔は、強い陽に照らされてもなお暗かった。
エティがその背に、ぼそりと言う。
「……なぁ、勇者様よ。ここ、お前の故郷なんだろ」
エルネストは答えない。
かまわずバートが続けた。
「どうだ、懐かしいか」
しばし間があく。
丘の上を渡る風はぬるく、遠くの城壁は白く光っている。
エルネストは王都から目を離さずに小さく息を吐いた。
「あぁ」
それだけだった。
懐かしいのか、ただ返しただけなのか、それすらわからない。
エティが口をへの字に曲げた。
「わかりづれぇ返事だな」
「前からだ」
バートが言う。
「今さら変わるかよ」
エティは肩をすくめた。
「まぁ、そうか」
それきり、二人とも黙った。
丘のさらに上では、ハインツが馬上からザッテルハイムを見下ろしていた。隣には副官マティアスが立つ。
しばらく城塞の様子を見ていたハインツが言った。
「籠もる気らしいな」
マティアスが頷く。
普段なら北門の周囲には荷馬車や商人、人足の流れは絶えないのだろう。しかし今日は違う。主だった門はどれも固く閉ざされ、城壁の上には物見と兵が張りついていた。
どうやら、門外へ打って出てくる気は微塵もないらしい。
「延命か、援軍待ちか」
マティアスが低く言う。
「どちらでしょうな」
「両方だろう」
ハインツの返答は簡潔だった。
「援軍の当てがない籠城など、勝つための策ではない。だが、あちらもそれくらいは承知しているはずだ」
マティアスは城壁の線を目で追った。
ザッテルハイムは大きい。城塞としての外周も長いため、今の兵力でこれを全周包囲するのは難しい。
「こちらもすぐには動けません」
「ああ」
ハインツは頷いた。
「兵が足りん。完全包囲は無理だな」
そう言って、城塞の北側から西へ伸びる街道筋を指でなぞる。
「主力は固める。北門と西門、街道、橋、渡河点を押さえろ。余計に線を伸ばすな」
「本国からの増援を待つ、と」
「それまで睨む」
短い言葉だった。
「敵がただ延命したいだけなら、城内の食料は勝手に減る。援軍を待っているなら、こちらも待つだけだ」
マティアスは小さく息を吐いた。
「どちらにせよ、すぐ攻める気配は見せぬ方がよろしいですな」
「焦って損耗を増やす理由はない」
王都は目の前にある。だが、着いたことと落とせることは別の話だ。
ハインツはしばらく黙って城塞都市を見ていた。
「布陣に入れ」
やがて言う。
「王都の前に着いたからといって、戦が終わるわけではない」
丘の下で角笛が鳴る。兵たちが嫌そうな顔で立ち上がり、荷車がまたぎしぎしと軋み始めた。バートが立ち上がりながら背骨を鳴らす。
「結局まだ歩かされるじゃねぇか」
「だから言ったろ」
エティが唾を吐くように言い返す。けれどその目は、遠くの白い城壁から離れなかった。
オーランジュ軍は、ようやく王都の前へ辿り着いた。
しかし、その到着は終わりではなく、長い睨み合いの始まりに過ぎなかった。
◆◆◆◆
城内の空気は、城壁の外よりさらに重かった。
ザッテルハイムの市街では、城門が閉ざされて以来、表通りの人通りが目に見えて減っていた。市場では食料を買い溜める者が増え、水場の近くでは小声の噂話が絶えない。
敗残兵たちが持ち帰ったのは、敗戦の報だけではなかった。
勇者エルヴァンが敵にいた。
その名が戦場で広がり、兵が崩れた。
では、王宮がかつて告げた「勇者の死」とはなんだったのか。
そんな断片が、兵の口から民へ、民の口からまた別の者へと広がっていく。
まだ誰もはっきりと口にしないが、城壁の上に立つ兵の目にも、食料を抱えて帰る民の顔にも、説明のつかない不安が張りついていた。
中には、王宮そのものへ疑いの視線を向け始めた者たちさえいる。
白銀宮の会議室では、不安を押し込めるようにして会議が続いていた。
卓の奥には国王フリードリヒ。顔色は悪い。宰相ヨッヘムがその隣に座り、廷臣たちが周囲を固める。
そして、軍を預かるディーターも当然のようにその中心にいた。
だが、いつもならこうした席に必ず姿を見せるコルネリアがいない。
臨月を迎え、出産予定日もすでに過ぎていた彼女は、ここ数日、歩くのさえ辛そうだった。
人に弱みを見せることをなにより嫌う女である。
人前ではなお気丈に振る舞っていたが、それでも限界が近いことは明らかだった。
そのため、今回ばかりは大事を取って欠席していた。
扉の外から物見の報告が入る。
「オーランジュ軍は、北門正面および西方街道筋に陣を敷いております。主力は固まったままで、城を囲むように広がる様子は見られません」
「完全包囲ではないのだな」
ヨッヘムが確認する。
「はい。包囲の線はなお薄く、物見の報では渡河点と主要街道を押さえる動きが目立つ、と」
ディーターが地図へ目を落とした。
「増援待ちだな」
誰にともなく言った言葉は、会議室の全員に向けたものでもあった。
法務の廷臣が眉をひそめる。
「そう断じられますか」
「うむ」
ディーターは即答した。
「兵が足りておらぬ。完全包囲ができぬ以上、今のあの布陣では城を落としきれん。なのに退かず、門と街道だけを押さえて睨んでいる。攻城の備えもまだ整っていない。ならば兵が増えるのを待っていると見るほかない」
会議室に沈黙が落ちた。
皆わかっている。わかってはいたが、軍を預かる者の口から明言されると重みが違う。
フリードリヒが唇を湿らせた。
「で、では……こちらは、城に籠もっていればよいのか」
ディーターは王を見ずに言う。
「籠もるしかありません」
乾いた声。
「しかし、籠城は勝つための戦ではありません。援軍の当てがなければ、ただの延命でしかない」
その一言が、会議室の空気をまた一段重くした。
ザッテルハイムは城塞都市である。城壁は高く、門は頑丈で、倉も井戸も備えている。守るだけならすぐには落ちまい。
だが外から局面を変える手がなければ、その強さは永遠ではない。食料は減り、水も薪も目減りし、兵も民も少しずつ疲れていく。
城塞は時間を買うための器でしかない。その先になにもなければ、ただ中にいる者から先に擦り切れていくだけだ。
ディーターは続ける。
「時間が経つほど、こちらは不利になります。兵糧は減り、兵の士気は落ち、民も荒れる。いまの王都は、城壁の外だけでなく内側もまた守らねばならぬのです」
ヨッヘムが低く息を吐いた。
「すでに、そうなりかけています」
その一言で、視線がわずかに交わされた。
誰も口にしたくはないが、会議室にいる全員が知っていた。
敗残兵の口から出た勇者の噂は、王都の兵と民の中へ着実に広がっている。市場でも、水場でも、兵舎でも、ひそひそと同じ話が繰り返されていた。
勇者は死んだのではなかったのか。
王宮はなにを隠しているのか。
自分たちは本当に正しいのか。
それはまだ反乱と呼べるほどのものではなかったが、籠城という息苦しい時間の中で育てば、どんな火種にもなりうる疑念だった。
フリードリヒが顔をしかめる。
「民心まで気にしておる余裕があるのか……?」
ディーターはようやく王を見た。
「余裕がなくとも、気にせねばなりません」
その声に、反論の余地はなかった。
「城壁の上に立つ兵も、城内で待つ民も、同じ王都の中の者たちです。どちらか片方だけが崩れて済む話ではありません」
会議室の空気は、もはや敗報を受けた時よりも淀んでいた。絶望が薄まったわけではない。ただ、形を持ち始めただけだ。
その沈黙の中で、大蔵の廷臣が絞るように言う。
「では……頼みは、カッサリアのみですか」
誰も即答しない。
答えは、皆わかっていたからだ。
隣国カッサリアから援軍が来る。
それだけが、籠城を延命ではなく勝ち筋へ変える唯一の道だった。
ヨッヘムが口を開きかけた、その時だった。
会議室の扉の外で、あわただしい足音が止まる。
「失礼いたします」
女官の声だった。抑えていても、緊張と動揺が滲んでいる。
許しを待たず、半ば駆け込むようにして入ってきた女官は床へ膝をついた。
「王妃殿下が……」
そこで一度、息を整える。
「ただいま、産気づかれました」
会議室がまた別の沈黙に包まれた。
フリードリヒが目を見開く。
ヨッヘムの眉が動く。
ディーターはなにも言わない。
城外には敵。
城内には不安。
その中で、唯一の勝ち筋を握っているかもしれぬ女が、いままさに産床へ入った。
本当に援軍は来るのか。
その問いだけが誰の口からも出ぬままに、会議室の空気をゆっくりと冷やしていった。




