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第56話 託されたもの

 南へ向かう軍勢は、遠目にはひとつの濁った流れのように見えた。


 陽はまだ高い。街道には細かな土埃が絶えず立ち、荷車の軋みと馬のいななきがとぎれとぎれに風へ流れていく。

 先頭に工兵、続いて歩兵、荷駄隊、そしてその間を縫うようにして戦奴隷たちの列があった。


 その街道の脇に、ひとりの初老の男が立っていた。


 衣は擦り切れ、靴も泥で汚れている。旅人とも逃散民ともつかぬみすぼらしい身なりだが、背筋の伸び方や伏せた目の奥に残る色だけは、ただの流れ者のものではない。


 男は軍勢を眺めていたのではなく、なにかを探していた。


 馬上の士官ではない。荷車でもない。歩兵でもない。もっと後ろ、もっと低いところを、執念深く目で追っていた。


 やがて、戦奴隷たちの列が近づく。


 鉄鎖の鳴る音。汗と泥の臭い。血に汚れた外套。戦を潜り抜けた者たち特有の鈍い顔つき。

 その中の一人に、男の目が止まった。


 顔の右半分は焼け爛れ、外套には乾いた血と泥が染みついている。人目を引く風体ではない。いや、むしろ目を逸らしたくなるような酷い有様だが、それでも見間違いようがなかった。


「あぁ……」


 男の口から、かすれた声が漏れる。

 それは、半信半疑で追いかけてきた噂が、ついに現実へ変わった時のものだった。


「本当に……生きて……」


 次の瞬間、男は街道へ飛び出していた。


「エルヴァン様!」


 兵が即座に反応する。


「止まれ!」


「どこの者だ!」


 怒声が飛び、槍の柄が叩き込まれる。

 男は地面へ転がった。しかし起き上がろうとする。それどころか、泥に手をつき、這うようにしてなお前へ出ようとした。


「エルヴァン様! どうか……どうか一目……!」


 兵のひとりが剣を抜いた。


「うっとうしい」


 戦時の行軍に飛び込む不審者である。言い分を聞く筋合いはなく、ただ斬って捨てるだけの話だ。

 しかし、その剣が振り下ろされる寸前に、横から伸びた手が兵の腕を掴んだ。


 エルネストだった。


 無言のまま、兵の手首を捻る。剣が指の間から滑り落ち、硬い音を立てて地面へ転がった。


 周囲がざわつく。


 行軍中の隊列から、自分から出てくることなどない男である。まして、他人を庇うような真似など。


 地面に押さえつけられた男が、息を乱しながら顔を上げる。視線の先には、焼けた顔の男が立っていた。


「……エルヴァン様」


 その呼び方に、周囲の兵が眉をひそめる。

 勇者の噂は軍中にも広がっていたが、誰も公には口にしない。

 いや、口にしにくかった。目の前の戦奴隷がその当人だと、軍が認めたわけではないからだ。


 兵が落ちた剣を拾いながら言う。


「何者だ、貴様」


 男は肩で息をしながら答えた。


「どうなっても構いません……どうかこの方に会わせてほしい」


「会ってどうする」


「聞かねばならぬことがあります」


 兵は露骨に嫌そうな顔をした。


「その後に斬られても構わぬ、とでも言う気か」


「はい」


 即答だった。

 その返答に、場が一瞬静まり返る。


 兵たちが顔を見合わせた。

 気が触れているのか、それとも本気なのか。どちらにせよ勝手に処理してよい話ではなくなった。エルネストが手を出した以上、なおさら。



 報告はすぐに上がり、ハインツは馬上でその話を聞いた。


「自ら止めたか」


「はい」


 報告に来た兵が一礼する。


「その男は、勇者に会えるならその後に殺してくれても構わない、と申しております」


「大した執念だな」


 ハインツの声には、呆れとも感心ともつかぬ色が混じっていた。

 傍らのマティアスが言う。


「いかがなさいますか。行軍の邪魔をした以上、普通ならその場で――」


「会わせろ」


 ハインツはあっさり言った。

 兵が顔を上げる。


「よろしいのですか?」


「よくはない。だが、あれが自ら手を出して止めた以上、見ておく価値はある」


 馬上から前方を見る。行軍は続いている。だが、たかが一人を片づけるために、珍しい反応を見逃す方が惜しかった。


「監視はつけろ。距離も取らせるな」


「はっ」


「どうせ逃げられぬ。斬るならその後でいい」


 兵は一礼して去っていく。

 マティアスが横目で主を見た。


「勇者絡み、ですか」


「そういうことだ」


 ハインツは鼻で笑った。


「いまや、あれにまとわりつくものは、なんでも見ておくに越したことはない」




 街道から少し外れた林の縁で、短い接見の場が設けられた。


 完全に二人きりではない。周囲には兵が立ち、少し離れた場所にはマティアスもいる。けれど、会話ができる程度には人が引かれていた。


 初老の男は膝をつき、荒い息を整えていた。

 転ばされた拍子に頬へ泥がつき、袖口は破れている。それでも顔には、奇妙な落ち着きがあった。


 エルネストが数歩離れたところへ立つ。

 表情は変わらず、なにを思っているのかも読み取れない。ただ、その目だけが相手を見ていた。

 男は深く頭を下げた。


「……ハイノ・クラナッハと申します」


 声は震えていた。

 恐怖ではない。長く胸の底へ押し込めていたものを、ようやく吐き出す時の震えだった。


「ブロスト伯爵家にて、代々家令を務めておりました。エルヴァン様の奥方様――ジークリットお嬢様が幼い頃から、お側に仕えていた者です」


 ジークリットの名が出た瞬間、風が止まったように感じた。


「覚えておられないかもしれませんが、ご婚儀の折に一度だけお会いしております」


 エルネストはなにも言わない。

 しかし、瞳の底に沈んだものがごくわずかに揺れた気がした。


 ハイノは続ける。


「乱心の報が出たあと、ブロスト家は連座を受けました。伯爵様も奥方様も、お嬢様のご兄弟も……皆」


 そこで一度、喉が詰まる。


「私は本来、あの方々とともに死ぬつもりでした。そうあるべきでした。ですが……逃がされました」


 自嘲するように、口元が歪む。


「老いぼれ一人、死に損なったまま、こうして生き延びてしまったのです」


 周囲の兵は黙って聞いていた。

 ジルニッツの内輪話だ。だが、エルネストが動かない以上、誰も口を挟もうとしない。


「オーランジュ軍の中に、勇者エルヴァンがいると噂を聞きました」


 ハイノは顔を上げた。


「半ばは噂話にすぎぬと思いました。しかし、もし本当なら……それでもし、あなた様が生きておられるとしたら……どうしても、お会いせねばならぬと思ったのです」


 風が葉を揺らす。

 どこか遠くで、行軍の隊列が動く鈍い音がした。


「お嬢様は、どうして死なねばならなかったのです?」


 エルネストは答えない。


「乱心などと、私は信じておりません。では、なにがあったのか。誰も教えてはくれなかった」


 ハイノは一歩だけ膝を進める。


「あなた様は、なにを見たのです。なにがあったのです」


 沈黙だけが落ちる。


 エルネストの顔からはなにも読めない。怒りも悲しみもなく、ただ空っぽのような暗さだけがある。生きている者の目ではないと、ハイノは思った。


 その瞳がすべてを語っていた。


 乱心ではない。

 気の迷いでもない。

 言葉にできぬほどのなにかがあり、この男はいまなおそこから抜け出せずにいる。


 ハイノは深く息を吸った。


「……そうですか」


 ハイノの問いは形を変えた。


 もはや真相を聞き出せるとは思わなかった。

 この男は喋らないのではなく、もう喋れる場所に立っていないのだとわかったからだ。


 ならば、願うべきことは一つしかない。


 ハイノは地面へ額がつくほど深く頭を下げた。


「お願いします」


 声は驚くほど静かだった。


「お嬢様の……ブロスト家の無念を……どうか」


 兵の一人が小さく息を呑む。


 エルネストはしばらく動かなかった。

 やがて、ごくわずかに頷き、低く言った。


「仇は討つ」


 たったそれだけだった。

 だが、ハイノにはそれで十分だった。



 肩から力が抜ける。張り詰めていたものが、ようやく途切れたようだった。顔を上げた時、その目にはもう焦りも執着もなかった。


「……ありがとうございます」


 その一言に、兵たちが互いの顔を見た。

 これから死ぬ男の顔ではない。むしろ長く背負っていた荷を、ようやく下ろした者のそれだった。


 マティアスが小さく合図を送る。


 兵がハイノの両腕を取った。

 ハイノは抵抗しない。立たされても足は震えず、視線はただ一度だけエルネストへ向いた。


 言葉もなく、深く一礼する。

 エルネストもまた、なにも言わなかった。


 ハイノはそのまま連れて行かれ、林の奥へ続く小道の向こうで、短く乾いた金属音が一度だけ鳴った。


 それで終わりだった。


 エルネストは振り返らない。

 何事もなかったように歩き出し、再び街道へ戻る。隊列はすでに動き始めていた。兵も荷車も、馬も工兵も、止まってはくれない。


 街道の先には、なお南へ続く道がある。

 壊れた橋があり、閉ざされた城門があり、王都がある。


 過去が追いついてきても、行軍は止まらなかった。


 エルネストは黙ったまま列へ戻る。

 その背中を、誰も呼び止めなかった。

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