第55話 祝いの品
初夏の昼下がり。
水晶宮の庭先には、白く強い陽が落ちていた。
風はあるが、涼しいというほどではない。石畳の照り返しがじわりと足元から熱を押し上げ、じっとしているだけでも少しずつ体力が削られるような日だった。
そんな刻限に、王妃コルネリアは水晶宮へ姿を現した。
今回はあくまで私的な見舞いである。白銀宮からこちらへ動くにあたり、先触れが大仰に走ったわけでもなければ、王妃行幸めいた大げさな儀仗が組まれたわけでもない。
けれど、王妃が動けば人は付く。
先頭の侍女、共の女官、護衛の騎士、荷を持つ従者。数えてみれば二十人近い一団になっていた。
気軽な見舞いというには、あまりに仰々しい。
その一行を認めた水晶宮の侍女たちは、露骨にうろたえた。
「お、王妃殿下……?」
「い、今すぐお取り次ぎを――」
いくら取り繕ったところで、慌てた気配は隠せない。
水晶宮に仕える者たちは、優しく朗らかな主――オリーヴィアに慣れ切っていた。厳格な礼法は心得ていても、正妃コルネリアを迎える緊張はまた別である。
しかも今回は事前の知らせがなかった。
そのため、慌てたメイドが廊下を走り、別の侍女が青ざめた顔で頭を下げる。
コルネリアはそれを咎めもせず、静かに口を開いた。
「急に参ってすまぬな」
穏やかな声だった。
「ようやく落ち着いた頃合いと聞いての。祝いの品も持ってきたゆえ、顔を見ておこうと思うたまでじゃ」
そう言って視線をわずかに動かすと、脇に控えた侍女が一歩前へ進み出た。
両腕には、淡い象牙色の布に包まれた箱が抱えられている。それほど大きくはないが、木地の良い箱であることは布越しにもわかった。
「ほんの慎ましいものじゃ」
コルネリアは言う。
その一言で、水晶宮の侍女たちはますます緊張してしまう。王妃の言う慎ましいものが、本当に慎ましいはずがないからだ。
案内に立った侍女が、恐る恐る口を開いた。
「オリーヴィア様は、まだ本調子ではなく……本来であれば客間でお迎えすべきところを――」
「構わぬ」
コルネリアは柔らかく遮った。
「産後の身であろう。無理をさせる方が酷というもの。寝室でもどこでも其方たちの都合のよいように」
言葉は優しい。
けれど、それでも拒める空気ではなかった。
侍女は深く頭を下げ、そのまま一行を奥へ案内するしかなかった。
オリーヴィアの寝室は、明るい部屋だった。
大きな窓には薄い紗の幕が掛けられ、そこを通して初夏の白い光が淡く差し込んでいる。香は強すぎず、どこか甘い花の匂いがした。
部屋の隅には白木の揺り籠が置かれ、その傍らには湯を張った盥と清潔な布が整えられている。
寝台の上で、オリーヴィアは上体を起こしていた。
難産だったと聞いている。顔色はまだ良いとは言えず、頬は少し痩せ、指先も細かった。
出産から一月が経ったとはいえ、ようやく人前に身を起こせる程度まで戻った、というところなのだろう。
それでも彼女は、正妃を迎える側としての礼を失わぬよう懸命に微笑んだ。
「王妃殿下……わざわざ、ありがとうございます」
「よい。楽にせよ」
コルネリアは答え、部屋へ足を踏み入れた。
そしてその視線は、すぐに寝台の横へ落ちた。
小さな赤子が眠っている。
生後一か月。
頬は柔らかくふくらみ、握られた手は驚くほど小さい。寝息はかすかで、目を閉じたままなにも知らぬ顔で眠っていた。
コルネリアの口元に、やわらかな笑みが浮かんだ。
王国に新たな子が生まれた。それを祝う顔に見える。
だが、その内側にあるものは別だった。
姫だ。
第一子は男子ではなかった。
それだけで、自分の地位は揺るがない。自分の腹から男子が生まれれば、それで盤面は定まる。
そうした安堵と満足を、コルネリアは上品な微笑で綺麗に包み込んでみせた。
「よう眠っておるの」
「はい。つい先ほどまで泣いておりましたのに……」
オリーヴィアが力なく笑った。
その笑みには疲れが滲んでいたが、赤子へ落ちる視線だけはやわらかかった。
コルネリアが寝台まで進んでいく。大きくなった腹を庇うように侍女がさりげなく一歩寄ったが、コルネリアは気にせず、持ってきた箱を開かせた。
中に入っていたのは、銀の細工で作られた小さな揺り鈴だった。
過度な宝飾はない。しかし、触れればすぐに質の良さがわかる品だ。持ち手には王家の紋を控えめにあしらい、鈴の周囲には邪を払う古い意匠が細く彫り込まれている。
「魔除けのまじないを兼ねたものじゃ。赤子の枕元にでも置いてやるとよい」
「このような……」
オリーヴィアが目を見開く。
「もったいないことです」
「祝いの品に、もったいないも何もあるまい」
コルネリアが穏やかに言う。
その声音だけを聞けば、気遣いのできる優しい正妃そのものだった。
当たり障りのない言葉がしばらく交わされる。
体調はどうか。眠れているか。乳母の手は足りているか。そうしたやり取りの一つ一つに、オリーヴィアは律儀に答えた。
けれど、話しているうちに、その表情の奥に別の影が見えてくる。
オリーヴィアが、おずおずと口を開いた。
「……殿下」
「なんじゃ」
「戦のことを、少し……耳にいたしました」
その言葉で、部屋の空気がわずかに張った。
水晶宮の侍女たちが顔を伏せる。
敗戦の報が、彼女の耳へ入らぬよう意図的に配慮されていたのは明らかだった。
しかし人の口に戸は立てられない。オリーヴィアがなにも気づかずにいるには、王宮の空気はあまりに重すぎた。
オリーヴィアが、不安そうにコルネリアを見上げる。
「貴族連合軍が……敗れたと。本当なのですか」
「本当じゃ」
コルネリアはあっさり答えた。
オリーヴィアの顔が強張る。
「そ、そんな……では王都は」
「案ずることはない」
きっぱりと言い切った。
「すでにこちらで手は打っておる。隣国カッサリアには正式な援軍要請を出してあるゆえな。伯母上も前向きじゃ。うまく運べば、オーランジュなど挟み撃ちにして散らせよう」
聞いたオリーヴィアの目に、わかりやすく希望が差した。
「本当に……?」
「わらわが、根も葉もない慰めを口にするとでも思うか」
コルネリアは、少しだけ苦笑めいたものを浮かべた。
「今は余計なことを考えず、体を癒やせ。王都を守るために、動くべき者はほかにおる」
その一言には、やわらかい響きがあった。
だが、そこに含まれている意味は決してやさしくない。
この国家存亡の折に、お前は役に立たぬ女児を産み、いまだ寝台から動けずにいる。
対して自分は腹に子を宿したまま、王都を救うために奔走している。
そう言っているに等しかった。
けれどオリーヴィアは、その棘に気づかない。あるいは、気づけるほど心の余裕が残っていなかった。
彼女の目に浮かんだのは、ただ救われたような感謝だけだった。
「ありがとうございます……」
声が震える。
「私、なにもできなくて……せめて陛下や皆さまのご無事を祈ることしか……」
「それで十分じゃ」
コルネリアは静かに言う。
「姫君を無事に産んだ。それだけでも、そなたは務めを果たした」
優しい言葉だった。
けれど、その中にある優しさは、傷口へ薄絹をかけるようなものでしかない。
オリーヴィアはとうとう涙をこぼした。
「王妃殿下は、いつも私などにもお心を配ってくださいます」
頬を濡らしながら礼を言う姿は、痛ましいほど素直だった。
それをコルネリアは、わずかに目を細めて見下ろした。
勝っている、と感じた。
戦でも、王宮でも、そして女としての序列でも。
少なくとも、今この瞬間はそう思えた。
寝台の横で、赤子が小さく手を動かした。
コルネリアはその手へ視線を落とす。
「ほう」
そっと指先を伸ばし、小さな指に触れる。
柔らかく、かすかに温かかった。
「赤子というものも、存外、かわいらしいものじゃのお」
独り言のように言う。
オリーヴィアが涙に濡れた顔のまま、嬉しそうに微笑んだ。
「はい……本当に」
コルネリアはその指にほんの一瞬だけ触れたまま、やがて静かに手を引いた。
その手は、そのまま無意識のように自分の腹へ落ちる。
妊娠八か月目のふくらみは、いまや誰の目にも明らかだった。
衣の上からそっと撫でる指先は、目の前の姫君ではなく、その先にいるまだ見ぬ我が子を確かめているようにも見える。
もしここから男子が生まれれば。
その時こそ、すべては定まる。
そんな思いを胸の底へ沈めたまま、コルネリアは寝台の上の母娘へ、あくまで上品な笑みを向けていた。




