第54話 切れぬ札
初夏の夜だった。
昼間に熱を吸った石畳は陽が落ちてもなおぬるく、王都ザッテルハイムの城壁は薄闇の中に重く沈んでいた。
門の上には槍を持った見張りの兵が幾人も立ち、街路のあちこちでは、夜だというのに人の行き来が絶えることがない。
敗報は先に届いている。だから城門の内も外も、誰もが落ち着かなかった。
やがて、北の街道から敗残兵の列が現れる。
灯火の列に照らされたその姿は、軍というより長い葬列のようだった。
旗はある。だが汚れ、破れ、力なく垂れている。
馬は痩せ、兵たちの足取りは重い。鎧には泥と血がこびりつき、槍を手にしていても、もう戦える姿には見えなかった。
会戦へ出た時に比べれば、目に見えて数が減っていた。戦死者だけではない。散り、逃げ、列を離れ、自領へ戻った者たちも多い。
王都まで戻ってきた兵は、ディーター直属の部隊を除けば、当初の三分の一ほどにまで目減りしていた。
夜の帰還であることだけが、彼らにはかえって救いだった。
これが真昼なら、王都中の目に晒されていただろう。罵声はなくとも、失望と恐怖の視線は浴びせられたに違いない。
だが今は、門の近くに詰めかける者たちも少なく、迎える空気も冷えきっている。敗軍に向ける歓声など、最初からありはしなかった。
ディーターは馬上から城門を見上げた。
王都はまだある。
城壁も、塔も、門も、崩れてはいない。
しかし、ここへ戻ってきた兵たちの空気は、もう会戦前のものではなかった。
皆が黙り込み、目を伏せ、なにかを避けるように前だけを見ている。
単に負けたからではない。負け方が悪すぎたのだ。
勇者が敵にいた。
その伝聞が、兵の心を折った。
ディーターは唇を引き結んだ。
いま必要なのは悔恨ではなく、王都防衛だ。残兵の整理、配置の見直し、補給の確認。やることはいくらでもある。しかしその前に、王宮へ行かねばならなかった。
門をくぐると、部下が馬を寄せた。
「閣下、まずはお着替えを――」
「後だ」
ディーターが短く言う。
「王宮へ向かう」
「しかし、お疲れが――」
「後だと言った」
それ以上は誰もなにも言わなかった。言える顔ではなかった。
泥と血のついた外套のまま、ディーターは王城へ向かう。
白銀宮の会議室には、すでに王と廷臣たちが集まっていた。
国王フリードリヒ・アルブレヒト・フォン・ジルニッツは、卓の奥に座っている。顔色は悪く、目の下には濃い影が落ちていた。
宰相ヨッヘム・ハイデンベルグは、その隣で書付の束に目を落としているが、指先がわずかに強張っている。
軍務や法務に関わる者たちも、それぞれに沈んだ顔で席についていた。
そして、その一角にコルネリアがいた。
濃色の衣をまとい、椅子へ深く腰掛けている。妊娠八か月の腹は、もはや隠しようがないほどふくらんでいた。
その顔には、ほかの誰にもある焦りが見えない。ただ静かに、会議室へ入ってきたディーターを見返していた。例によって背後には騎士長ルッツが控えている。
敗軍の将であるディーターが泥まみれのまま入ってきた時、何人かが顔をしかめた。けれど誰も咎めない。咎められる空気ではなかった。
ディーターが礼をとる。
「陛下」
フリードリヒが、縋るような声で言った。
「戻ったか。どうなった。兵は。敵はどこまで――」
「順に申し上げます」
ディーターが遮る。
疲れていた。声も乾いていた。だが、その声音は揺らいでいなかった。
「貴族連合軍は会戦に敗れました。残兵は現在、王都へ収容中です。戦死、行方不明、途中離脱を含め、兵数は大きく減じました」
重い沈黙が落ちる。
「ただし」
ディーターは続けた。
「武力のみにおいて決定的な差があったわけではありません。寄せ集めの兵ではありましたが、布陣そのものはまだ持っていた。崩れたのは、別の理由です」
フリードリヒが顔を上げる。
「別の理由?」
「敵側に、勇者エルヴァン・レヒナーと思しき者が現れました」
会議室の空気が一気に凍った。
フリードリヒの口が半ば開いたまま固まる。廷臣たちの間に、ざわめきとも息を呑む音ともつかぬものが走った。ヨッヘムだけが目を閉じ、短く息を吐いた。
「その名が戦場に広がった直後に、兵の心が折れました。隊列は崩れ、指揮は乱れ、会戦はそこで実質的に終わったのです」
ディーターはそこで一拍置く。
「私は問いたい」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。だが、それだけに重かった。
「王宮は、何をもって勇者エルヴァン・レヒナーを死んだと断定したのです」
誰もすぐには答えられない。
「王宮からの布告では、勇者は乱心の末に死亡した、とされていた」
ディーターの視線が王と廷臣たちを順に射抜く。
「では、その根拠は何だったのです。死体を見た者はいたのか。誰が確認し、誰の責任で公表したのか」
フリードリヒの喉が鳴る。
「そ、それは……あの時は……」
言葉が続かない。
ヨッヘムが口を開きかけたが、すぐには出てこなかった。宰相として取り繕う言葉はいくらでも考えられた。けれど、ディーターの問いはあまりにまっすぐだった。
「私は、戦場で兵を失いました」
ディーターは言う。
「敵に勇者がいた。それだけで、兵は内側から崩れた。ならば、その前提となる“勇者の死”を王宮がどう確認したのか、私は知る必要があります」
法務の廷臣が、たまりかねたように言った。
「まさか、王宮が虚偽の布告を出したと申すのか」
「私は確認を求めているだけです」
即座に返す。
「死体を見た者がいないのであれば、なぜ死んだと断定できたのか」
そこまで言って、ディーターの視線がゆっくりと動いた。
コルネリアへ向かう。
会議室にいる誰もが同じことを考えていた。勇者の最後に最も近い場所にいたのは誰か。誰があの夜の事情を知っているのか。
コルネリアは、わずかに口元を上げた。
「戦場の伝聞ひとつで、ずいぶんと取り乱すものよのう」
ディーターは答えない。
その沈黙を受けても、コルネリアは少しも慌てなかった。片手が衣の上から腹へ落ちる。指先はゆっくりとふくらみを撫でたが、それも思案というより癖のようだった。
「勇者の名が出た。それで兵が崩れた。なるほど、それは厄介じゃろう」
柔らかな声音だった。
だが中身は冷たい。
「じゃが、いまこの場でその話を掘り返したところで、失った兵が戻るわけでも、王都の城壁が厚くなるわけでもあるまい」
「話を逸らさないでいただきたい」
ディーターが言う。
「逸らしてなどおらぬ」
コルネリアはかすかに眉を上げた。
「優先を申しておるだけじゃ。戦場の噂に振り回されるのと、王都を守る策を急ぐのと、どちらが先かは明らかであろう」
コルネリアが夫――国王フリードリヒへ視線を投げる。
「正式な援軍要請は、すでに陛下の名で隣国カッサリアへ出しておる」
フリードリヒがはっとする。
それは前日に済ませたばかりのことだ。しかし、コルネリアはその先を言っていた。
「返答の内容は、こちらの立ち回り次第じゃろうな」
静かな一言だった。
しかし、意味は重かった。
会議室の空気がまた変わる。
勇者の話より、今度は別の現実が場を支配した。
ヨッヘムが慎重に訊ねる。
「……それは、どういう意味でしょう」
「伯母上はカッサリアの王妃じゃ」
コルネリアは淡々と答える。
「じゃが、国書ひとつで兵が動くほど、王家同士の縁は単純ではない。こちらが取り乱し、王宮の足並みも揃わず、王妃を公然と責め立てているような空気が伝われば、先方がどう思うか――考えるまでもあるまい」
それは説明の形をした脅しだった。
ここで自分を追い詰めれば、援軍の可能性に傷がつく。そう言っているのだ。
フリードリヒの顔から、怒りとも狼狽ともつかぬ色が引いていく。代わりに浮かんだのは、あまりに見苦しい安堵と迷いだった。
「そ、そうだな……いまは、内輪で争っておる時ではない」
ヨッヘムは目を伏せた。
ディーターは一言も返さない。
理屈は見えている。
だが、それだけで押し切れぬ現実もまた、そこにあった。
「王都防衛の準備を急ぐべきですな」
宰相が言うと、話はそこへ流れた。
兵糧、城壁、収容すべき敗残兵、使者の行程。勇者の件は、完全に消えたわけではない。しかし、いまこの場の表向きの議題ではなくなった。
ディーターはそれ以上、なにも言わなかった。
言っても無駄だとわかったからではない。ただ、ここで続ければ、勇者の件よりも先に、王都防衛そのものが揺らぎかねないと理解したからだった。
◆◆◆◆
翌日の夜。
ディーターは再び白銀宮の奥を歩いていた。
昼間は兵の再配置、城壁の確認、物資の洗い出し、散っていた残兵の収容と、王都防衛のための仕事に追われた。だが、どれだけ手を動かしても、胸の奥に沈んだ棘は抜けなかった。
この件を放置して先へ進めば、同じことがまた起きる。
そう思っていた。
コルネリアの私室の前で、衛兵が止まる。
「王妃殿下がお待ちです」
その言葉だけで、ディーターの眉間に皺が寄る。
自分が来ることまで読まれていたのかもしれない。
そう思った。
扉が開く。
部屋の中は暖かかった。香が焚かれ、厚い絨毯が敷かれ、戦場の臭いなど最初からこの世に存在しないかのようだった。
コルネリアは窓辺近くの椅子に腰掛けている。腹の大きさは昼よりさらに目についた。衣の上からでも、そのふくらみははっきりと形を持っている。
見れば、ルッツは部屋の奥に控えていた。
「よく来たのう、ディーター卿」
コルネリアが言う。
「昼では言い足りなんだか」
「足りぬから来たのです」
ディーターは礼を省いた。
「昼の場では他の耳があった。だが今は違う」
コルネリアは微笑みもせずに見返す。
「では、なにを聞きたい?」
「すべてです」
短く答える。
「戦場に現れた暗殺者らしき者の件。現場に残された、王妃殿下の私印付きの羊皮紙。勇者の最後に立ち会ったのが、あなたであること。そしてなにより――死体を見た者がいないにもかかわらず、王宮が勇者の死を断定していたこと」
ひとつひとつ、石を積むように並べた。
「これだけ揃っていて、あなたがなにも知らぬで済むと思いますか」
コルネリアは黙って聞いていた。
その顔には、露骨な焦りはない。
「戦場にいたあの男が、エルヴァン・レヒナー本人であると、あなたは前から知っていたのではないか」
ディーターの声がさらに低くなる。
「もし知っていて黙っていたのであれば、重大な非違です。兵を危地へ送り込み、王都防衛にまで損害を持ち込んだ。その責は軽くない」
静かな室内に、言葉だけが硬く落ちる。
ややあって、コルネリアが小さく息を吐いた。
「ずいぶんとよく調べたものじゃな」
「答えていただきたい」
「知らぬ」
あっさりしたものだった。
「存ぜぬ。憶測を繋ぎ合わせて、ようそこまで物を言えるものよ」
「憶測ではありません」
「証が足りぬ」
コルネリアは切って捨てた。
「暗殺者らしき者、と其方が思うた。私印付きの羊皮紙があった。それでわらわの指図になるのか。戦場の混乱で、なんとでもなる話じゃ」
「では、死体の件は」
「見つからなんだものを、見つからなんだと言うたまでよ」
「それで死を布告した」
「王宮はそう判断した」
「誰が」
ディーターが一歩出る。
「誰が、です」
コルネリアの目が細くなった。
それでも声は変わらない。
「そこまで知って何になる」
「王都がどうしてこの有様になったかを、知ることになります」
ディーターは言う。
「兵が戦場で折れたのは、敵に勇者の名があったからだ。そしてその前提を作ったのは、王宮の発表です」
そこで初めて、コルネリアの口元に冷たい笑みが浮いた。
「それで」
低い声。
「其方は、負けた理由をわらわに押しつけに来たのか」
ディーターの眉が動く。
「……なんですと」
「会戦に勝っておれば、こんな話にはならなんだ」
コルネリアは椅子にもたれたまま言う。
「其方たち軍部がしっかりしておれば、わらわが隣国へまで手を回す必要もなかった。いま王都を救う望みがまだ残っておるのは、誰のおかげじゃと思うておる?」
ディーターは黙った。
図星ではない。
だが、完全に切り捨てられる話でもなかった。
「尻拭いをしておるのは、むしろこちらよ」
コルネリアの指先が腹を撫でる。
「それを、なんじゃ。戦に負けた将が泥のついたまま乗り込んできて、王妃を糾弾するか」
「私は糾弾に来たのではない。事実を――」
「事実?」
コルネリアが笑う。
いやらしいものではない。
もっと冷たい、刃のような笑みだった。
「では事実を申そう。正式な援軍要請は、もう出ておる。あとはそれがどのように返るかじゃ。わらわの伯母上が、どれだけこちらへ心を寄せてくださるか。それは、其方が思うほど紙一枚の話ではない」
ディーターの表情が硬くなる。
「なにが言いたい」
「簡単なこと」
コルネリアは言った。
「いまここで、わらわに恥をかかせるな」
沈黙。
「王宮が内輪で王妃を責め立て、援軍要請の要となる者を潰そうとしている――そんな話が先方に伝われば、どう受け取られるかのう」
ディーターは動かない。
「其方がこの先も疑いたければ、勝手に疑えばよい。じゃが、いまそれを表へ出し、わらわの顔に泥を塗れば援軍の可能性まで傷つく。王都を守る兵が減る。それでも続けるか?」
部屋の空気が、そこで変わった。
論ではない。
脅しだ。
だが、現実に裏打ちされた脅しだった。
ディーターが歯を食いしばる。
この女を疑う理由はある。
追い詰めるべきだという確信もある。
だが同時に、王都防衛には隣国の援軍が欲しい。必要だ。城壁の上に立つ兵の数ひとつで、持つ日数が変わる。
軍を預かる者として、その現実を無視できなかった。
コルネリアはさらに言う。
「其方が戦に勝っておれば、わらわは伯母上へ書など送らずに済んだのじゃ」
その声はあくまで穏やかだった。
「それを、こちらがようやく繋いだ細い糸を、自ら断ち切るつもりか」
ディーターは長く息を吐いた。
敗けた。
それだけではない。
ここでもまた、押し返しきれなかった。
「……いまは、です」
絞り出すように言う。
「いまは、これ以上は言いません」
「賢明じゃな」
コルネリアはあっさり言った。
その一言が、逆に胸を焼いた。
「だが忘れぬことです」
ディーターは扉へ向き直りながら言う。
「私の中で、この件は終わっていない」
コルネリアは答えない。
ただ見送るだけだった。
ディーターはそれ以上なにも言わず、部屋を出た。
扉が閉まる。
室内に静けさが戻った。
ルッツも動かない。香の煙だけがゆるく揺れている。
コルネリアはしばらくそのまま座っていたが、やがて口元に、ごく薄い笑みを浮かべた。
それは勝ち誇った笑みというより、まだ盤上の優位が自分にあることを確かめるようなものだった。
指先がゆっくりと腹へ落ち、その丸みをひと撫でする。
ディーターは退いた。
軍部の最高責任者であろうと、結局はいまこの場で自分を切れなかった。
まだ札は生きている。
その自信だけが、静かな夜の中でコルネリアの目を妖しく光らせていた。




