第53話 面倒な進軍
戦のあとの夜は、勝った側にも落ち着きがなかった。
野営地の外れ、戦奴隷たちが押し込められている区画では、焚火のまわりに男たちがしゃがみ込み、ようやく配られた薄い煮込みを黙々とすすっていた。
昼のあいだは血と泥にまみれ、日が落ちれば死体運びと負傷兵の手伝いに駆り出される。勝ったところで、急に楽になるわけでもなかった。
ただ、それでも空気は少しだけ違っていた。
いつもなら疲労と苛立ちばかりが漂う場所が、今夜は妙にざわついている。誰も大声では言わないが、あちこちで同じ話が囁かれていた。
勇者だ。
ジルニッツの勇者が、味方として戦場にいたらしい――そんな話が、兵たちの間を興奮まじりに巡っていた。
焚火の前で木椀を傾けていたエティが、耐えきれなくなったように顔を上げた。
「で、結局どうなんだよ」
向かいに座るバートが、煮込みを飲み干して鼻を鳴らす。
「どうもこうもねぇ。敵が勝手に崩れたんだから、なにかいたんだろうよ」
「なにかって、なんだよ」
「勇者様とかいうなにかだ」
「胡散臭ぇなぁ」
エティは顔をしかめた。
そのくせ、声には少しだけ浮ついたものがある。それは、怖いもの見たさなのかもしれなかった。
「戦場から戻ってきた連中が、みんな似たようなこと言ってたぞ。『顔の半分が焼けた化け物みたいな奴がいて、そいつを見た途端にジルニッツの兵が腰抜かした』ってな」
「顔の半分が焼けた化け物……って、おい」
「だよなぁ」
バートが言ったところで、焚火の向こうに人影が落ちた。
男たちがいっせいに顔を上げる。
エルネストだった。
泥と煤の染みついた外套を羽織り、いつものように無表情のまま立っている。
戦のあとだというのに、あまり疲れているように見えない。ただ、頬のあたりに乾いた血の跡がまだ残っていた。
エティは一瞬だけ黙り、それから急に嫌な笑みを浮かべた。
「おい」
エルネストは答えない。
それを見たエティが目を細めた。
「……やっぱりお前かよ、勇者様」
焚火のまわりにいた何人かが、思わず吹き出してしまう。
笑っていいのか悪いのか、自分でもよくわかっていないような笑いだった。
バートが肩を揺らして笑う。
「先に言っとけよ。こっちは半分、与太話だと思ってたぞ」
エティが続ける。
「敵が腰抜かしたのって、お前のせいなんだろ。まぁ、気持ちはわからんでもねぇけどよ」
エルネストは焚火のそばまで来ると、空いた木箱に腰を下ろした。
「あぁ」
短く、それだけ言う。
肯定とも否定ともつかない返事だった。
エティが突っ込む。
「否定しねぇのかよ」
バートが笑いながら肘で彼を小突いた。
「否定もなにも、どう考えたって、こいつしかいねぇだろ。化け物なんてよ」
「そうだなぁ」
「だろう?」
バートは改めてエルネストの顔を見た。
勇者だろうが戦奴隷だろうが、いま目の前にいるのは、前からよく知っている無口な男だ。その見方は、案外すぐには変わらない。
「まぁ、なんにせよ助かったぜ」
木椀を傾けながら言う。
「こっちはいつ前に押し出されるかって話だったからな。敵が勝手に崩れてくれりゃ、そのぶん死なずに済む」
「現実的だな、お前は。もっと他にねぇのかよ」
「今さら理想で飯が食えるか」
そう言ってバートは肩をすくめた。
エティも木椀の中身をすすりながら、ちらりとエルネストを見る。
「で、勇者様。明日から急に白パンと肉ばっかりになったりするのか?」
返事はない。
「しねぇか。だよな。そういう顔してる」
「そもそも、そんな顔ってなんだよ」
バートが笑う。
焚火のまわりに、ようやく少しだけいつもの調子が戻った。
しかし、それも長くは続かなかった。
遠くで角笛が短く鳴り、別の方角からは怒鳴り声が飛ぶ。
勝った軍の夜は忙しい。死者は片づけねばならず、傷病兵は分けねばならず、軍は次の戦のために急ぎ立て直されていく。
エルネストは立ち上がった。
エティが顔を上げる。
「もう行くのか」
「あぁ」
それだけ言って踵を返す。
背中を見送りながら、エティがぼそりと言った。
「……ほんとに勇者だったとしても、あんま変わんねぇな」
バートは焚火へ薪をひとつ投げ込んだ。
「変わったところで困るだろ」
ぱちり、と火が爆ぜる。
「俺たちにとっちゃ、前からああいうやつだった。それで十分だ」
エティは少しだけ考えるような顔をしたあと、木椀の中身を飲み干した。
「まぁ、それもそうか」
焚火の火が、去っていくエルネストの背を短く照らし、それからすぐに闇へ呑まれた。
会戦の傷は深く、軍はすぐには動けなかった。
負傷兵の整理、死体の埋葬、鹵獲品の確認、部隊の再編。さらに本国への増援要請と、南下に向けた補給の立て直し。
勝ったとはいえ、オーランジュ軍も無傷ではない。会戦の終結から進軍再開まで、丸々一月を費やした。
ようやく軍が再び動き出したのは、初夏の気配が濃くなった頃だった。
王都へ向かう街道は一本ではない。だが、軍勢がまとまって進める道は限られている。
その日の先頭にいたのは、工兵と先遣の歩兵隊だった。
前日までに哨戒は出してある。大軍で道を塞ぐような敵は、もはやいない。貴族連合軍は会戦で散り、残兵は王都方面へ下がった。
ならば、ここから先は早い――そう思いたかった。
しかし、現実はそう上手く運ばない。
先遣隊が足を止めたのは、街道を横切る中規模の川に差しかかった時だった。
橋が落とされていた。
頑丈な石造りではないものの、軍勢を通すには十分に幅のある木製の橋だった。そこが根元から焼かれ、半ば崩れた残骸だけを川面へ突き出している。
先頭の兵が舌打ちした。
「面倒なことを」
対岸の少し離れた土手の上に、弓を持った十数人ばかりの兵が見える。
紋章からして、どこかの小領主の私兵だろう。こちらの軍勢を見ても、討って出てくる気配はなく、ただ、橋だけ落として高みへ引いて様子を窺っている。
マティアスが馬を進めてきて、崩れた橋を見下ろした。
「やはりか」
隣にいた部下が言う。
「修復しますか」
「いや、時間がかかりすぎる。浅瀬を探して迂回だ」
短いやり取りだった。
こういうことが起きると、最初から予想していたのだろう。
少し遅れて到着したハインツも、橋の残骸を一瞥しただけで顔色ひとつ変えなかった。
「抵抗するほどの気概はない。だが素通りもさせたくない、というところか」
対岸の兵たちはこちらを見ている。けれど、矢を放つでも、鬨の声を上げるでもない。
自領を守る意志はある。しかし、この軍勢へ本気でぶつかる気はないらしい。
「小賢しい」
誰かが吐き捨てるように言った。
だが、そういう小賢しさが一番面倒でもある。
大軍を止めることはできない。それでも橋を一本落とすだけで、半日、一日と足は鈍る。
実際、その日だけで進軍予定は大きく狂った。浅瀬を探し、荷車を通せる場所を確かめ、工兵が泥へ板を渡す。
川そのものは越えられても、今度は隊列を立て直すのに時間がかかる。
兵の口から不満が漏れる。
暑さは増し、歩幅は乱れ、後続の荷駄隊まで足を止められる。戦場ほどではないにせよ、これもまた軍を蝕む疲労だった。
その後も、道は素直に続かなかった。
ある小領主は街道の街路樹を切り倒し、荷駄車が通れないよう邪魔をした。
別の領主は街道脇の林から小規模な夜襲を仕掛けてきたが、数矢を放ち、哨戒兵を一人二人傷つけると、それ以上深入りせず闇へ消えた。
またある者は、最初から抵抗を諦め、館に籠って沈黙した。
一枚岩ではない。
それが今のジルニッツだった。
王都のために命を捨てる気概を見せる者もいれば、家を守るために最低限の遅滞だけをして身を引く者もいる。
表向きは忠義を掲げながら、その実やっていることは時間稼ぎと自己保全の折衷に過ぎない。
だが、それでも足は削られた。
決定的な抵抗ではない。それでも一つ一つが面倒で、無視するには小さすぎる。
軍は橋を迂回し、道を拓き、荒らされた街道を踏み越えながら南下を続けるしかなかった。
ある夕刻、野営地の端でマティアスが地図を広げたまま言った。
「本気で止める気はないのでしょうな」
ハインツは焚火の向こうで頷いた。
「止められるとも思っておらんだろう。あれは時間を買っているだけだ」
「その間に、王都は城壁を固め、兵を集める」
「あるいは援軍でも待つか」
ハインツはそう言って、地図のさらに南を指で叩く。
「いずれにせよ、急いでいるのは向こうだけではない」
王都はまだ遠い。
しかし、遠いからといって、歩を止める理由にもならなかった。
焚火の火が揺れる。
その向こうで、工兵たちが明日のために縄と板をまとめている。兵は疲れ、荷馬は痩せ、街道の先ではまた別の誰かが橋を落とすかもしれない。
それでも軍は進む。
会戦で道は開けた。だが、その道はまっすぐ王都へ続いているわけではない。
遠く南の都はまだ見えず、その間には川があり、壊された橋があり、敗者たちの小さな意地が点々と残っている。
オーランジュ軍の南下は、そうしたものを一つずつ踏み越えるところから、ようやく本当に始まったのだった。




