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第52話 藁を掴む

 その報せは、白銀宮の空気を一変させた。


 朝から城内には落ち着かないざわめきがあったが、早馬が正門をくぐり、泥まみれの伝令がそのまま奥へ通されたあたりから、もはや誰の目にも隠しきれなくなっていた。

 侍女は足音を殺し、下働きの者たちは廊下の隅へ寄る。衛兵たちの顔にも、どこか張りつめたものがあった。


 白銀宮の会議室で、国王フリードリヒが落ち着かぬ様子で卓を指で叩いていた。


「まだ来ぬのか」


 短く言う。

 それは、誰に向けたものでもない苛立ちだった。


 正面には宰相ヨッヘム・ハイデンベルグ。ほかにも法務、大蔵、軍務を司る廷臣たちが揃っている。

 敗報が来るとわかっていて、皆それを待っていた。だからこそ、扉の向こうから急いた足音が近づいた時、部屋の空気がひと息に凍った。


 扉が開く。


 入ってきたのは伝令だった。顔色は悪く、衣の裾には乾いた泥がこびりついている。床へ膝をつく動きもどこか乱れていた。


「申し上げます」


 かすれた声。


「貴族連合軍は、会戦に敗れました。ディーター閣下は残兵をまとめて後退中。王都方面へ退いております」


 それだけで十分だった。


 誰かが息を呑む。別の誰かが、小さく呪詛のようなものを漏らした。

 フリードリヒの顔から血の気が引いた。


「ま、負けた……? ディーターが出ておっても、なおか」


 伝令は顔を上げない。


「は。詳しい損耗はなお集計中ですが、兵の離散も大きく……沿道の諸侯兵の中には、そのまま列を離れた者も少なくないとのことです」


「離散……?」


 ヨッヘムが眉をひそめる。


「敗走ではなく、離散か」


「は……はい。会戦の終盤、戦線が急速に崩れた、と」


 フリードリヒが身を乗り出した。


「なぜだ。なにがあった。ディーターはなにをしていたのだ」


 苛立ちと不安に急かされるように、問いが矢継ぎ早に飛ぶ。

 だが伝令に答えられることは多くない。彼自身、混乱の中でまとめられた断片を運んできたに過ぎなかった。


「戦線の一角を敵が破り、その後……その」


 伝令の喉が詰まる。


「申せ」


 低く促したのはヨッヘムだった。

 伝令は一度だけ唾を飲み込むと、意を決したように続けた。


「戦場で、勇者エルヴァンの名が出た、と」


 その瞬間、会議室から音が消えた。

 たった一言で、先ほどまでの狼狽とは別種の沈黙が落ちる。

 それは混乱ではない。もっと直接的な凍りつきだった。



「……なん……だと?」


 最初に口を開いたのはフリードリヒだった。しかしその声には、王としての威厳より先に、理解の追いつかない困惑があった。

 伝令はなお床を見たまま答える。


「敵側に、勇者エルヴァン・レヒナーらしき者がいた、と敗残兵らが口々に申しております。その名が広がったことで兵が動揺し、戦線の崩れが一気に広がった、と……」


「馬鹿な」


 法務大臣が思わず吐き捨てる。


「勇者は死んだはずだ」


「そうだ」


 別の廷臣も顔を強張らせる。


「王宮からも、そのように――」


 そこまで言って、言葉が切れた。


 誰もが気づいたからだ。

 部屋の中にいる者の視線が、ほぼ同時に一方向へ流れたことに。

 

 卓のやや離れた席に、コルネリアが表情も変えずに座っていた。

 濃色の衣の上からでも、七か月目の腹のふくらみははっきりとわかる。

 その前で両手を重ねたまま、彼女はただ静かに伝令を見ていた。背後に騎士長ルッツを控えさせて。


 フリードリヒが、乾いた唇を舐めた。


「王妃よ……これは、どういうことだ」


 その声には、責める強さも、王としての重みも足りなかった。ただ縋るように答えを求めているだけ。


 コルネリアはすぐには口を開かず、やがて、冷めた紅茶でも見るような目で伝令を一瞥し、静かに言った。


「ただの噂話に、ずいぶんと振り回されておりまするのう」


 その言い方に、会議室の空気がわずかに逆立つ。


「噂、では済まぬかもしれませんぞ」


 軍務の一人が言った。


「会戦を壊したほどの話です。もし本当に勇者が敵にいたのであれば――」


「であれば、なんじゃ?」


 コルネリアが遮る。

 声は高くないが冷たかった。


「この場で騒げば、戦に勝てるのか。王都の城壁が厚くなるのか。兵の腹が満たされるのか」


 男は言葉を失う。

 コルネリアは、ほんのわずかに椅子へ深く身を預けた。指先が無意識に腹の上へ落ちる。表情には揺らぎがなかった。


「もしその報が事実だとしても、いまここで論ずるべきは別にあろう」

 

 その落ち着きが、かえって不気味だった。

 

 会戦に敗れた。

 王都の外壁が次の戦場になる。

 しかも敵に勇者がいるかもしれない。


 王都は城塞都市である。守るだけなら、すぐには落ちないだろう。

 だが、外から局面を変える手がなければ、籠城は勝つための策ではない。ただ負ける日を遅らせるだけのものでしかなかった。


 それを、この場の誰もがわかっている。だからこそ、会議室を満たしているのは単なる狼狽ではなく、底の見えない絶望に近いものだった。


 にもかかわらず、その報せを前にして、なぜこの女だけがこれほど静かでいられるのか。


 誰もがそう思った。

 けれど同時に、その静けさがなにか別の算段に支えられているのではないか、という感触もあった。


 ヨッヘムが慎重に口を開く。


「では、王妃殿下にはなにかお考えがおありか」


 コルネリアは彼の方を見る。

 口元には笑みともなんともつかぬものが浮かんでいた。


「ようやく、まともな問いをしたな」


 フリードリヒがはっと顔を上げる。


「あるのか?」


 声音が一段、必死になる。

 コルネリアは少し間を置いた。その間が、部屋中の視線を自分へ縫いつけるのを知っているかのように。


「伯母上には、すでに内々に書を送っておる」


 誰かが息を呑んだ。


「伯母上……隣国カッサリアの王妃殿下に、ですか」


 ヨッヘムが確かめるように言う。


「そうじゃ」


 コルネリアはあっさりと頷く。


「此度の戦の流れと、王都が危地にあることは、私的な書簡で先んじて伝えてある。正式な国書さえ届けば、前向きに取り計らう用意があると、色よい返答もすでに得ておる」


 会議室の空気が変わった。

 先ほどまでの焦りと混乱が消えたわけではないが、それでも確かに別のものが差し込まれた。

 それは希望と呼ぶには小さいものの、絶望一色ではなくなる程度の光ではあった。


「援軍が……来るのか」


 フリードリヒが呟く。


「正式な要請があれば」


 コルネリアは言う。


「ゆえに陛下には、直ちに国書をお出しいただきたく存じまする。王家同士の縁もあるゆえ、正しく願えば軽んじられはせぬかと」


 誰もすぐには反論しなかった。

 ヨッヘムが目を伏せ、短く考え込む。それから静かに顔を上げた。


「……正式な要請を急ぐべきでしょうな」


 法務、大蔵の廷臣たちも、互いの顔を見合わせながら頷き始める。

 もちろん全面的な安堵ではない。だが、少なくとも「手がない」という空気だけはひとまず退いた。


 フリードリヒは、すがるように言った。


「そうだ、そうしよう。すぐに書をしたためる。使者も選ばねばならんな」


 その声にはようやく、自分が王であることを思い出したような響きがあった。



 コルネリアは無言のまま、その様子を見ていた。

 勇者の件は、なお宙に浮いたままではあるが、その前に掴める(わら)が差し出された。だから皆そちらへ手を伸ばしただけのことだった。


 会議はそのまま、使者の選定や文面の調整へと流れていく。

 敗報で崩れかけていた王宮の空気は、どうにか形を取り戻しつつあった。しかし、それはあくまで表向きの話にすぎない。



 コルネリアは静かに息を吐くと、わずかに視線を横へ流した。

 脇に控えるルッツが、その視線を受けてほんの一瞬だけ目を伏せる。


 敵側に勇者がいた。


 それはつまり、始末が失敗したということに他ならず、もはや言い逃れようのない事実だった。


 コルネリアはなにも言わない。

 ただ、その一瞬の視線だけが、どんな叱責よりも冷たかった。

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