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第51話 変わらぬ手

 戦いが終わったあとも、指揮所の空気は少しも軽くならなかった。


 野戦天幕の外では負傷兵が運ばれ、書記官が損耗を書き留め、伝令が泥を跳ね上げて走り回る。

 勝った軍の陣であるはずなのに、聞こえてくるのは歓声ではなく、報告と命令ばかりだった。


 卓の前に立つハインツは、布越しに見える戦場の方角を一瞥し、それからゆっくりと目を戻した。


「……結果だけ見れば、上々か」


 独り言のような声だった。

 脇に控えていたマティアスが、わずかに眉を動かす。


「あれが血路を作り、そこへ精鋭を差し込んで戦線を割る。もともとは、その形を狙っておられたのでしょう」


「ああ」


 ハインツは短く頷いた。


「崩すところまでは、こちらの手でやるつもりだった」


 卓上の地図へ視線を落とす。指先が、ジルニッツ軍から見て右寄りの一角をなぞった。


「あれが開けた穴へ後続を流し込み、左右を断つ。そこまでいけば、あとは時間の問題だった」


「ですが、実際には」


「敵が勝手に崩れたな」


 ハインツの口元が、かすかに歪む。

 笑みと言うには乾いていた。


 エルネストの正体が戦場で露見し、勇者の名が敵兵の間を伝わった。その瞬間、ジルニッツ軍は戦術ではなく内側から壊れた。

 結果として会戦が早く終わったのは、オーランジュにとって幸運だ。しかし、狙っていた勝ち方とは違う。


「運が良かった、とは言える。だが、あまり気分の良い終わり方でもない」


 ハインツはそう言って、薄く息を吐いた。


 マティアスは黙っていた。主の言う通りだったからだ。

 勝ちは勝ちだ。しかし、敵が剣に負けて崩れたのではなく、勇者の名に呑まれて潰れた。そんな勝利は、筋が通っていてもどこか妙だった。


「前線では、もう噂になっています」


 ややあって、マティアスが言う。


「例の戦奴隷が、ジルニッツの元勇者エルヴァン・レヒナーではないかと」


「放っておけ」


 即答だった。


「否定も肯定もするな。勝手に言わせておけばいい」


「軍として口をつぐむ、と」


「こちらから認めてやる義理はない」


 ハインツの声は平坦だった。


「何者であろうと、いまのあれは我が軍の戦奴隷だ。それ以上の意味を、わざわざこちらから与える必要はない」


 マティアスは小さく頷いた。


 たしかに、その通りだった。

 もしオーランジュ軍が公然と「あれは元勇者エルヴァンだ」と認めれば、それだけで余計な政治の火種になる。

 兵は色めき立ち、上層部は口を挟み、利用したがる者も出るだろう。戦場では便利でも、軍としては扱いづらくなる。


「それに」


 ハインツが続ける。


「本人も、そんなものは望んでおらん」


 元勇者として遇せよ。

 名誉ある身分を与えよ。

 その手の話に、あの男が一片でも興味を示すとは思えなかった。



 沈黙が落ちる。


 外では、壊れた荷車の軋む音がした。誰かが怒鳴り、別の声がそれに返す。

 会戦は終わっても、軍は止まらない。勝ったあとに片づけるべきものはいくらでもある。


「本国へ使いを出せ」


 ハインツが言った。


「増援を求める。歩兵、工兵、荷車。できれば馬もだ」


 マティアスが視線を上げる。


「本国が、そこまで兵を割くでしょうか」


「割く」


 ハインツは迷わなかった。


「ここを逃せば、また同じ二百年を繰り返すだけだ。国境で砦を奪い合い、川を渡る渡らぬで血を流し、なにひとつ決着のつかぬまま次の代へ渡す。そんなものを、いまさら望むほど愚かではあるまい」


 指先が地図のさらに南を叩く。

 その先にはジルニッツの王都があった。


「このままいけば、因縁に決着をつけられる。中央の連中が慎重だろうと臆病だろうと、この機は見逃せん」


 マティアスは地図へ目を落とした。


「とはいえ、王都まですぐに辿り着けるわけではありませんな」


「ああ」


 ハインツも頷く。


「敗けた小領主どもが、そのまま素直に道を明け渡すとも思えん。自領へ逃げ帰ったなら、今度はその土地で意地を見せる。橋は落とすだろうし、街道も塞ぐ。簡単に済む相手ではない」


 それでも止まる理由にはならなかった。

 ただ、遅れるだけだ。


「王都まで一月は見るべきでしょうか」


「そのくらいだろうな」


 ハインツは答える。


「こちらも損耗は浅くない。城を包囲するには兵数が足りん。この戦で勝ったところで、まだ終わりではないのだ」


 勝ってなお、先は長い。

 城塞都市を落とすには、野戦とは別の辛抱が要る。兵も、糧秣も、後背の安全もだ。


 マティアスが少し間を置いて言う。


「……あれの待遇は、このままですか」


 言外の意味は明らかだった。

 元勇者と噂される男を、今後も戦奴隷のまま使うのか。


 ハインツは笑いもせずに返した。


「このままでいい」


「よろしいので」


「問題ない。こちらから格を上げれば、軍が暗にそれを認めたことになる」


 その声音には、むしろ面倒を嫌う色があった。


「名を戻したいのなら、とっくに本人がそう言っている。そうしない以上、余計な飾りは要らん。戦奴隷のまま使える限り使う。それで十分だ」


 冷たい言い方だった。

 だが、いまさらハインツに人情を期待する者もいない。


 マティアスはそれ以上言わなかった。


 天幕の外で風が鳴る。

 勝ってもなお、先には城があり、時間があり、補給があり、次の戦がある。その現実だけが、乾いた形で卓の上に残っていた。




 後方の炊事場では、大鍋の底をさらっていた。


 会戦には勝った。その報せ自体はもう届いている。

 けれど、補給隊や炊事奴隷たちの顔は、思ったほど明るくない。前線から戻ってきた兵たちの口ぶりが、どこかおかしかったからだ。

 勝ったはずなのに、皆が妙にざわついている。


 アンナは、桶へ湯を移し替えながら、何度も入口の方へ目を向けていた。


 今回の戦に出る前、エルネストとは会えなかった。

 気をつけてください、と言えばなにかが変わったわけではない。言わねばならぬ義理があったわけでもない。

 それでも、なんとなく言いそびれたまま送り出してしまった感覚だけが残っていた。


 手を動かしていないと落ち着かない。

 湯を汲み、布を絞り、次に使う木椀を並べる。

 そうしていても、胸の奥のざわつきは消えなかった。


 その時、炊事場の端に人影が差した。

 アンナはすぐに顔を上げる。


 エルネストだった。


 泥と返り血と、どこか焦げたような黒い汚れが、外套にも肩にもこびりついている。髪は乱れ、頬にも乾いた血が筋になって残っていた。

 いつも酷い姿で戻ってくる男だが、今日は輪をかけて酷かった。


 それでも、まずアンナの前へ来た。


 約束をしたわけではない。

 呼びに来たわけでもない。


 ただ、気づけばそこにいた。

 アンナは一歩だけ近づく。


「怪我は?」


「ない」


 短い返答だった。


 アンナはそれ以上なにも聞かない。


「そうですか」


 それだけ。


 よかった、とは言わない。

 心配していた、とも言わない。

 それを口にするのは、この二人にはどこか違う気がした。



 炊事場の奥では、補給兵たちが勝手に噂話をしていた。


「聞いたか? ジルニッツの奴ら、勇者の名が出た途端に崩れたらしいぞ」


「勇者って、あの死んだっていう?」


「さあな。それがうちの戦奴隷だったとか、もうなにが本当かわからん」


「戦場から戻った奴が言ってた。顔の半分が焼けた、とんでもなく強い奴がいたって」


 ひそひそとした声。

 興奮と半信半疑が入り混じった響き。


 ここにいる者たちは、目の前に立つ泥まみれの男がその噂の当人だとは思っていない。だからこそ遠慮がなく、好き勝手に言い合い、話を膨らませ、また別の者へ伝える。


 アンナは黙ったまま、その声を聞いていた。


 噂の真偽そのものには驚かないが、今日の戦でなにか決定的なことが起きたことはわかった。

 しかもその中心に、この男がいたのだと。


 それでも、口にはしない。


「外套を」


 アンナが言う。


 エルネストは抵抗もせず、肩からそれを脱いだ。

 湿った布地は重く、血と泥を吸って冷たかった。アンナは両手で受け取って腕に抱える。


「洗います」


 エルネストはなにも言わない。

 アンナは近くの桶を足で寄せた。


「湯を入れてあります。先に血を落としてください」


 それだけを告げる。


 敵軍を崩壊させた張本人であることも。

 勇者エルヴァンと噂されていることも。

 今日の会戦でなにが起きたのかも。


 なにひとつ言わない。


 ただ、戻ってきた男にいつも通り湯を用意し、汚れた外套を受け取って洗う。アンナにできるのはそれだけで、そしてたぶん、それでよかった。


 エルネストは桶の前にしゃがみ込み、無言で手を水へ沈めた。黒ずんだ汚れが溶け、湯が赤く濁っていく。



 炊事場の隅では、まだ噂話が続いていた。


「でも本当に勇者なら、なんでそいつがうちにいるんだ?」


「そんなの俺が知るかよ」


「勇者を敵に回すだなんて、ジルニッツの連中、いったいなにをやらかしたんだろうな」


 笑う者はいなかった。

 皆、面白半分に話しているようでいて、その実、どこか落ち着かなかった。


 アンナは返事もせず、外套を桶へ浸した。

 泥が水に溶け、血が広がり、布地の重みがじわじわと手に移る。


 ふと視線を感じる。顔を上げると、近くの補給兵がエルネストの方を見ていた。

 噂の中心にいる者とまでは思っていないようだが、いま戻ってきたこの無口な戦奴隷を、いつもとは少し違う目で見ていた。


 アンナは無言のまま、また視線を落とす。


 外套を揉み洗いしながら、布に染みついた血を落としていく。

 目の前の男が何者であれ、なにを壊して帰ってきたのであれ、いまここにあるのは泥と血と、洗わねばならぬ布だけだった。


 炊事場のざわめきはなお続いていた。

 その中で、アンナの手だけが変わらず動いていた。

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