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第50話 敗軍のかたち

 会戦は終わり、戦場には勝者の歓声よりも先に、後始末の声が広がっていく。


 泥に沈んだ死体を起こす者。まだ息のある負傷兵を運ぶ者。折れた槍や砕けた盾を除ける者。歩ける者と歩けぬ者を仕分ける者。

 踏み荒らされた地面は黒く湿り、流れた血が鈍く染み込んでいた。


 オーランジュ軍は戦場を押さえ、ジルニッツ軍は南へ退き、もはや大軍同士がぶつかり合う音はない。

 勝敗はとうに決した。にもかかわらず、勝った側の歓声は思ったほど大きくない。

 確かに勝ちは拾った。だが、その終わり方がどこか歪だった。


 敵は剣に敗れたのではなく、とある一つの名に自ら崩れた。その異様さを、敵も味方もまだ呑み込みきれずにいる。



 リリィは崩れた戦場の一角に立っていた。

 立っていた、といっても、立ち尽くしていたわけではない。

 負傷した魔法騎士が運び込まれれば声をかけ、応急処置を求めれば短く指示を返す。剣もまだ手放していない。

 しかし、意識のどこかがうまく戻っていなかった。


 視線を落とす。


 剣には血がこびりついている。

 手袋の上にも、乾きかけた血が筋になって残っていた。それが誰のものなのかはわからない。敵か、味方か、それとも――考えかけてやめる。


 脳裏に浮かぶのは、一人の顔だった。


 焼け爛れた右半分の顔。その奥に残っていた輪郭と目は、間違いようがなかったが、結局、最後までなにも答えなかった。


 どうしてこうなったのか。

 なぜ敵にいるのか。

 自分がどんな思いで剣を取ったのか。


 なにひとつ答えず、ただ前へ進もうとしていた。


 近くでは、魔法騎士隊の者たちが負傷者をまとめていた。何人かは血を流し、何人かは自力で立てず、地面に膝をついている。

 皆、隊長の負傷と会戦の敗北を理解して口数が少なかった。


 リリィは短く息を吐き、次いで指示を出した。


「その者を先に下げろ。止血を急げ」


 言葉は出る。

 体も動く。

 けれど、どこか遠い。


 あの男はもういない。

 追うことも、確かめることもできなくなった。


 ただ、会戦が終わったあとも、その事実だけが重く胸に残っていた。



 「副隊長」


 声をかけられ、リリィが顔を上げる。

 オスカーだった。兜は脱いで脇に抱えている。額に浅い傷があり、血が乾きかけていた。


「後方の収容は回っていますので、こちらは自分が見ます」


 リリィはなにも言えなかった。

 オスカーはそんな彼女を見て、少しだけ言い淀んでから続ける。


「……あまり、気に病まないでください」


 慰めるには、あまりに不器用な言い方。


「隊長でも止められなかった。副隊長一人の責ではありません」


 リリィは目を伏せる。


「そういう話では……」


 そこまで言って、言葉が止まる。

 そうではないと、自分でもわかっていた。けれど、ではなんなのかを、うまく口にできない。

 オスカーはそれ以上踏み込もうとしなかった。


「いまは、立っていてください」


 短くそれだけ言う。

 リリィはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「……すまない」


 オスカーもまた頷き、それ以上なにも言わずに持ち場へ戻っていった。




 少し離れた場所で、ヘルムートが処置を受けていた。

 脇腹を深く斬られている。命に関わる傷ではないにせよ、けっして浅くはなかった。


 鎧は脱がされ、包帯が巻かれ、その上からさらに血が滲む。

 それでも本人は寝台に寝かされるのを嫌い、木箱に腰を下ろしたまま報告を受けていた。


「……隊の損耗は」


「戦死二、重傷三、軽傷七です」


 その返答に、ヘルムートは小さく頷く。


「わかった。負傷者から先に下げろ。馬を使えぬ者は担架だ。置いていくな」


「はっ」


 報告に来た隊員が走る。

 ヘルムートはその背を見送り、それからわずかに顔をしかめた。

 傷が容赦なく痛むのだろう。だが弱音らしいものは吐かなかった。


 リリィが近づくと、ヘルムートはちらりと目を向けた。


「隊の再集結は」


「終わりました。負傷者の後送も始めています」


「そうか」


 短く言って、前を向く。


 しばし沈黙が落ちた。

 その沈黙の中に、二人とも同じものを抱えているのがわかる。けれど、どちらもそれを口にはしない。


 やがてヘルムートが低く言う。


「戦は終わった」


 事実を確認するような声だった。


「しかし、これで終わりではない」


 リリィは答えず、ただ小さく頷くだけだった。


 言葉の意味はわかっていた。

 王都へ退く兵。広がった勇者の名。崩れた軍の空気。

 次はもっと厄介になる。


 それを考えれば、戦場での邂逅にいつまでも囚われているわけにはいかなかった。




 ディーターは、退いてくる兵の流れを見ていた。


 会戦の終結から、そう時間は経っていない。

 それでも敗残兵の顔つきは、すでに戦いの最中とは違っていた。


 疲労、安堵、恐怖、そして消えきらぬ混乱。

 なにより厄介なのは、その目にまだ同じ問いが残っていることだった。


 なぜ勇者が敵にいたのか。


 その問いは、戦場を離れてもなお消えず、そのまま王都へ持ち込まれることになる。




「閣下」


 副官が近づいてくる。


「敗走兵の集結を進めておりますが、沿道の諸侯兵にかなりの離脱が見られます。列を外れて、そのまま自領へ戻った者も少なくないかと」


 ディーターは視線を逸らさず言う。


「追うな」


 即答だった。

 副官が一瞬だけ目を瞬かせる。


「……よろしいのですか」


「よくはない」


 ディーターは淡々と言う。


「だが、逃げた者を追っている余裕などない。王都へ連れ帰ったところで統制も取れぬし、むだに糧食を食い潰すだけだ」


 副官は口を閉ざした。


 意味はわかる。しかし、それでもなお、黙って見逃すにはあまりに大きな数だった。

 ディーターはその気配を感じ取ったのか、続けて言った。


「帰るなら帰るでよい。自領が惜しいなら、その途中で敵の足を止めるくらいはするだろう」


 遅滞戦力。

 それだけで十分だった。


 あえて呼び戻さない。

 あえて追わない。

 その冷たさを、いまの王国は必要としていた。


 副官が一礼する。


「承知しました」


 伝令がまた走っていく。

 ディーターはその背を見送りもせず、なお敗残兵の流れを見つめていた。




 集まる兵が減っていく。王都へ入る前に、さらにいくらかは散るだろう。

 だが、それでも城塞都市へ籠もる以上は、抱え込める人数には限りがある。

 食糧も、水も、秩序も無限ではない。今必要なのは数ではなく、まだ命令の届く兵だった。


 さらに厄介なのは、兵たちの口からすでに「勇者」の名が漏れ始めていることだった。

 列の後ろから、小さな声が聞こえる。


「……本当に、あれは勇者様だったのか」


「見た者がそう言っている」


「じゃあ、俺たちはなんのために……」


 そこから先は、うまく聞き取れなかった。

 しかし、聞き取る必要もなかった。兵の口からこぼれ出したその名が、すでに戦場を越えて広がり始めていることが十分にわかったからだ。


 もはや隠せる段階ではない。

 ディーターは乾いた目で、なお敗残兵の流れを見つめていた。


 ローゼン川でランドルフを討った異様な戦奴隷。

 魔法騎士隊から上がっていた報告。

 王妃についての内偵。

 そして今日、会戦そのものを壊した勇者の名。


 ばらばらに見えていたものが、いまようやく一本の線としてつながった。


 だが、いまこの場で追えるのはそこまでだった。

 先にやるべきことは別にある。王都へ戻り、残兵をまとめ、防衛線を引き直すこと。感情を挟む暇などない。

 そう頭では割り切っていても、胸の底に沈んだ苦味まではどうにもならなかった。


「……最悪の負け方だな」


 誰にともなく漏らした声は低かった。


 剣に敗れたのではない。兵の気持ちが折れたのだ。しかも、その原因が国そのものの根に関わっている。

 この傷は今日の会戦だけで終わらない。王都へ戻れば、もっと別の形で噴き出す。


 ディーターには、そうなることがほとんど確信のように思えた。



 その時、別方向から新たな報告が入る。


「オーランジュ軍は深追いしてきません。戦場の確保を優先している模様です」


「当然だ」


 ディーターは即座に答えた。


「向こうも三日戦っている。勝ちは拾った。ならば、今日はそれで足りる」


 副官は頷いたが、その顔に安堵はない。

 王都まで退ける兵がどれだけ残るのか。王都で次になにが起きるのか。誰にもまだ見えていなかった。


 ただ一つ確かなのは、貴族連合軍との戦いがここで終わったということだけだった。

 ジルニッツ軍は王都方面へ退き、オーランジュ軍は戦場を押さえる。そうして、国境から続いてきた一連の戦は、ついに王都防衛戦へと形を変えようとしていた。


 ディーターは南を見た。


 その先に王都がある。守るべき城があり、王がいて、王妃がいて、まだ崩れきっていない王国の中心がある。

 だが、そこへ戻るのは兵だけではない。勇者の名もまた、敗残兵の口と共に帰っていく。


 そして、それこそがこの敗北で最も厄介な戦利品だった。

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