第49話 斜め上の結末
なおも噛み合う、リリィとエルネストの剣。
鍔が軋み、互いの腕力が火花のようにぶつかり合った。
その周りでは魔法騎士隊が包囲を狭め、あとわずかで足を止められる気配があった。
その、ぎりぎりの均衡を壊したのは、ひどく間の抜けた声だった。
「おい、あれエルヴァンじゃないか?」
まるで雑踏の中に、知り合いを見つけたかのような呑気な言葉。
怒号と悲鳴と鉄の音に満ちた戦場の中で、それだけが異様なほどはっきりと聞こえた。
深慮のある言葉ではない。疑念に震える声でもない。ただ、見たものをそのまま口にしただけの調子。
フリッツ・ウェラー公爵は、泥にまみれた戦場の片隅から、鍔迫り合う二人を指さしていた。
「ほら、あの顔だ。前とは少し変わってるが、エルヴァンだろう」
横の側近へ確認するような口ぶり。
それがどれほどのものを壊すのか、考えた様子はまるでない。
知った顔の名を口にした。
ただ、それだけだった。
以前にフリッツは、自身の娘を勇者エルヴァンへ嫁がせようとしたことがある。
国の英雄を婿に迎えられれば、家の格が上がると踏んだ末のことだった。無理に屋敷へ招き、娘との席を設け、接待の鹿狩りにまで引っ張り出す始末。
その思惑は結局外れたが、おかげで顔だけは嫌というほど覚えていた。
だから顔の半分が焼け爛れ、血と泥にまみれていても、それが誰であるかはすぐにわかった。
だが、わかったからといって、安易に口にしてよいものではない。
場の重みも、その一言がなにを招くかも、この男はまるで考えていなかった。
リリィの口から、思わず怒声が飛ぶ。
「あの馬鹿が!」
叫んだ瞬間、胸の奥でなにかが折れる音がした。
しかし、もう遅かった。
周囲の兵たちが立ち止まる。
「いま誰と言った?」と、誰かが問う。
顔を上げ、何人もの視線が鍔迫り合いの中心にいる男へ吸い寄せられた。
焼けた顔。
それでも残る輪郭。
無駄のない太刀筋。
魔法騎士隊の集中砲火を受けても、なお立っている異様さ。
それらが一度に結びつく。
「エルヴァン……?」
「勇者様だと?」
「そんな馬鹿な」
ざわめきは、火が枯草へ移るより早く広がった。
リリィが剣に力を込める。この瞬間だけでも押さえ込めば、まだ間に合うかもしれない。
けれど、その一瞬に揺らいだのは彼女だけではなく、周囲の兵たちもまた、ひと呼吸ぶんだけ戦場から意識が逸れた。
エルネストの剣がわずかに角度を変え、リリィの剣を跳ね上げる。
次の瞬間には、二人の間へ味方と敵が雪崩れ込んできた。
「列を保て! 前を向け!」
ヘルムートの怒声が飛ぶ。
負傷し、地に膝をついたまま必死に叫んだ。
だが届かない。
「なぜ勇者様が敵にいる!?」
「死んだはずじゃなかったのか!」
「俺たちは、一体誰と戦っているんだ!?」
「邪竜殺しに勝てるわけがないだろ!」
「俺たちが正しいんじゃないのか!?」
叫びが叫びを呼び、疑問が疑問を呼ぶ。
それは恐怖だけではなかった。
ジルニッツにとって勇者エルヴァンは、ただの強い剣士ではない。
守護者であり、盾であり、誰もが「自分たちは正しい側にいる」と信じるための象徴だった。
理由はわからない。
だが、その男が敵にいる。
その事実だけで十分だった。
戦場で人を支えるのは、気力や体力だけではない。自分は正しい側にいるという確信が、剣よりも盾よりも心身を奮い立たせる。
それが崩れた瞬間、人は戦う理由を失ってしまうのだ。
槍列が揺らぐ。
盾が下がる。
押し返していた兵が半歩退く。
その半歩が、雪崩の最初のひびになった。
崩れたのは、ほんの一瞬だった。
その一瞬が、三日間の均衡をすべて飲み込んでいく。
オーランジュはその揺らぎを見逃さなかった。
エルネストが開けた穴へ、後続の精鋭たちが食い込んでいく。
躊躇なく押し、乱れた槍の隙間へ身体をねじ込み、盾列を横から割る。
もはや戦線は力で押し切られたのではなく、心が折れたところへ付け込まれていった。
敵と味方が入り乱れる混沌とした戦場。リリィが前へ出ようとしたが、押し込む流れと退く流れがぶつかり合って幾度も体を弾かれた。
視界の中で鎧と泥と血が渦を巻く。
「どけ! 邪魔だ!」
大声で叫ぶ。
けれど誰も聞かない。聞ける状態ではなかった。
顔色を失った兵が目の前を横切り、別の兵は後ろを振り返ったまま槍を持つ手を震わせる。
踏みとどまろうとする者もいたが、どこか一角だけでも崩れれば、大軍の列はあっけなく歪んだ。
リリィはその中で一瞬だけエルネストを見た。
血路の向こう。
味方を踏み越え、敵を抜け、彼はもうこちらを見てさえいなかった。
変わらぬ無表情のまま、開いた道の先から静かに退いていく。暴れるでもなく、追撃に酔うでもなく、役目を果たしてただ引いていった。
「待て……!」
届かない。
そうして次の瞬間には見失っていた。
リリィは唇を噛む。
止められたかもしれなかった。
あと少しだった。
ヘルムートが傷を負い、自分も食らいつき、隊の全員が命を懸けて足を止めようとした。
それが、たった一言にすべて壊された。
フリッツの間抜けな一言が、ディーターの夜を、ヘルムートの命令を、魔法騎士隊の決死の迎撃を、一瞬で無意味にしたのだ。
もはや戦線の瓦解は止まらなかった。
誰かが退けば、隣も退く。
隣が退けば、その隣も揺らぐ。
怒号はなお飛んでいたが、もはや命令ではなく、崩れゆく列の中で空回りするだけの音に変わっていた。
ヘルムートが血に濡れたまま立ち上がろうとする。
だが押し寄せる兵の流れに足を取られ、再び片膝をついた。
「隊長!」
部下が駆け寄る。
ヘルムートは顔を上げ、割れた戦線の向こうを睨んだ。
「立て直せ……!」
掠れた声でなおも命じる。しかし立て直せるような崩れ方ではなかった。
すでに兵たちの目は敵ではなく、自分たちの立つ場所そのものへ疑いを向けていたのだから。
ディーターは高みからその崩壊を見つめていた。
予感はあった。
こうなる前に止めたかった。
だから昨夜、ヘルムートたちを呼び、あれを最優先で潰せと命じたのだ。
だが結局、間に合わなかった。
エルヴァンの名は、もう戦場に広がっている。
そこから先は、もう取り返しがつくものではなかった。
疑念は兵の胸へ入り込み、隊列より先に戦意をばらばらにする。
ディーターは目を閉じなかった。
その光景から目を逸らすことだけはしないと決め、乾いた目で崩れゆく戦線を見続けた。
オーランジュ軍が前へ出る。
だが歓声は思ったほど大きくない。相手が勝手に崩れたことを、彼らもまたどこかで異様に感じ取っていた。
勇者が敵軍を崩したのではない。
その名が、敵軍を壊したのだ。
それがこの会戦の結末だった。
こうしてオーランジュとジルニッツ貴族連合の戦いは、あまりにもあっけない終わりを迎えた。
勝敗を決めたのは、剣でも魔法でもない。
国の守護者が敵として立っていたという、ただそれだけの、重すぎる事実だった。




