第47話 形を成した疑念
夜が明けきる前の空は、鈍い灰色をしていた。
東の端がわずかに白み始めているが、陽はまだ低く、戦場全体が薄い靄の底に沈んだように見えた。
夜露に濡れた地面は暗く、踏み荒らされた土は三日分の血を吸って黒ずんでいる。
オーランジュ軍の指揮所で、ハインツはその景色を無言で眺めていた。
視線は今朝の前線を追っているように見えて、実際には昨日の日暮れ前を見ていた。
戦線の左奥。
ジルニッツ側から見れば右寄りの一角が疲弊していた。
兵列はまだ残っているが、受けに意識が寄りすぎている。交代は遅れ、詰めるべきところでわずかに鈍っていた。
士官の怒鳴り声に兵が追いつかず、三日持ちこたえたことが逆にその足を重くしていた。
綻びとまでは言えない。だが、同じところをもう一度押せば裂ける。
ハインツにはそう見えていた。
「マティアス」
呼ばれた副官が一歩進み出る。
「はっ」
「左奥だ」
ハインツは前線の一点を指した。
「あそこはもう、受けるだけで精一杯だ。交代も詰めも鈍っている。一晩で消える疲れではない」
マティアスは目を細め、指された先を見る。
灰色の朝の中では、兵の密度も旗の揺れもはっきりとは読みにくい。だが主がそう言うのであれば、見えているものがあるのだろう。
「裂けますか」
「いまならな」
ハインツは短く答えた。
「幅はいらん。血路が一本通ればいい。そこへ後続をねじ込む」
一拍置く。
「エルネストを叩き起こせ。装備を整えさせろ。いま言った箇所を抜かせる」
「深追いは」
「不要だ」
ハインツの声は平坦だった。
「綻びを刺すだけでいい。あとは精鋭で固める」
「承知しました」
マティアスが踵を返す。
ハインツはその背を見送らず、なお前線を見ていた。
焦るべき時期はとっくに過ぎている。
ここから先は、焦りを形に変えるだけだ。
その時、近くの焚火が小さく爆ぜた。
朝の冷気はまだ残っていたが、戦場はまもなく熱を持ち直す。
「今日で終わらせる」
誰に聞かせるでもない声音で、ハインツは呟いた。
戦奴隷の天幕の下、エルネストはすでに起きていた。
眠っていたのかどうかも怪しい。粗末な毛布の上に腰を下ろし、膝の上へ剣を置いたままじっとしていた。
夜が明ける前の薄暗さの中で、顔の半分を覆う火傷痕だけがぼんやりと浮いている。
そこへマティアスが入ってくる。
「起きていたか」
返事はない。
マティアスは気にせず続けた。
「出番だ。左奥を抜く。目的は血路形成。それ以上は要らんから、深追いするな」
エルネストは無言のまま立ち上がった。剣を腰へ下げ、傷んだ外套を肩にかける。
動きに迷いはない。命令を受けて、それを果たすために必要なことだけをしていた。
「出る」
短く言うと、エルネストは歩き出した。
送り出す言葉はない。
残すべき言葉もない。
人間を戦場へ送り出すというより、研いだ刃を手渡すような気分をマティアスは覚えた。しかし、その感覚を表へ出すことはなかった。
外へ出ると、朝の空気が刺し、東の空はわずかに明るくなりつつあった。
前を向いたまま歩くエルネストの背を見ながら、マティアスはふと、これが今日の戦を決めるのかもしれないと思った。
そして、決めるのは剣そのものではないのだろう、とも。
◆◆◆◆
ジルニッツ側では、魔法騎士隊がすでに馬を並べていた。
前線へ直接入り込む位置ではないが、どこで突破が起きてもすぐに動ける場所。
昨日の夜、ディーターが命じた通りの配置だった。
夜明けの冷気が鎧の隙間から入り込む。
吐く息はまだ白い。馬の背には夜露が残り、鼻先から濡れた息が小さく漏れていた。
ヘルムートが馬上から戦場を見下ろす。
三日目までとは景色が違う。――いや、違って見えるのは自分の目の方かもしれない。昨夜の命令が、まだ胸の底に残っているからだ。
まずはあれを潰せ。
他は後回しでよい。
敵の一部隊を止めろ、ではない。
敵の一兵を殺す。それを優先せよとの命令だった。
おかしい。
そう思わなかったわけではない。
しかしディーターは理由を言わず、それでもなお命じた。ならば、従うしかない。
隣でリリィが手綱を握り直した。
その横顔は固く、昨夜からほとんど口をきいていない。
眠れなかったのだろうとヘルムートは思ったが、わざわざ確かめる気にもなれなかった。自分も同じだったからだ。
「来るなら今日だ」
ヘルムートは前を見たまま言う。
「……はい」
リリィの答えは短く、それきり二人とも黙った。
やがて前線の方角で角笛が鳴り、四日目の戦が始まった。
兵たちがまた動き出す。
昨日までの続きが、そのまま朝に持ち越されたようだった。
誰も意気盛んではない。だが退いてもいない。疲れ切った兵が、疲れ切ったまま槍を持ち上げ、盾を構え、また死地へ戻っていく。
その鈍い再開の中で、ヘルムートは目を細めた。
どこかが動く。
動くとすれば、普通の押し合いではない。ディーターがわざわざ魔法騎士隊を温存し続けたのは、その時のためだ。
そしてその時は、意外なほど早く来た。
最初に上がったのは、悲鳴だった。
それも一つや二つではない。
ジルニッツ軍から見て右寄りの、やや奥まった位置。フリッツ・ウェラー公爵の手勢が陣を敷いている辺りで急に土煙が立ち、そこだけ戦場の密度が変わった。
「……!」
ヘルムートの視線が鋭くなる。
ただ押されたのではなく、兵列の一部が内側から裂けたように見えた。
「隊長!」
部下の声に、ヘルムートは即座に答える。
「見えている。あそこだ」
指した先では、兵の波が不自然に割れていた。地煙の中で、槍の列がまともに揃わなくなる。
悲鳴が連なり、何人かが後ろへもつれ込むように崩れる。そこへオーランジュ兵が雪崩れるのではなく、まず一本、細く鋭い血路が通っていた。
それを見た瞬間、ヘルムートは理解した。
ディーターの読みが当たったのだ。
「魔法騎士隊、前へ!」
号令が飛ぶ。
馬が一斉に地を蹴り、土が跳ねる。
リリィはそれに半歩も遅れず馬腹を蹴った。
風が顔を叩く。前方の地煙はまだ濃いが、その奥にいるものがなにかを彼女はもう知っていた。
――いや、知らずにはいられなかった。
隊列の先頭でヘルムートが怒鳴る。
「目標は突破の核だ! 他へ気を取られるな!」
魔法騎士隊が戦場を斜めに切るように走る。左右では味方の兵が道を開け、あるいは何事かと視線を向けた。
それでも彼らは止まらない。
地煙が近づく。血の臭いが濃くなる。
混乱の中心へ入る寸前、リリィは初めてその姿を見た。
無表情のまま、敵兵を斬っている一人の男。
叫びも怒りもなく、ただ前へ出るために血路を作っている。そこへ続くオーランジュの精鋭が、開いた道を押し広げるように制圧していた。
一人だけ戦の密度が違う。
顔の右半分は火傷で引きつれ、血と泥にまみれ、かつての面影は崩れている。だが、それでもなお見間違えようのないものが残っていた。
リリィの息が止まる。
声にならない。胸の奥で昨夜から沈んでいた疑念が音もなく形を持った。
間違いない――あの人だ。
その瞬間、エルネストがまた一人斬り伏せた。
迷いのない踏み込み。むき出しの太刀筋。血の中を歩くように進む姿。
リリィは剣の柄を強く握った。
「……隊長」
ヘルムートは答えない。
答えなくてもわかっていた。彼もまた、同じものを見ていたのだ。
「全員、あれを止めろ!」
怒声が戦場に響く。
直後に魔法騎士隊は地煙の中へ突っ込んでいった。
その先で待つのが、ただの強兵ではないことを、もう誰も否定できなかった。




