表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

46/54

第46話 命令

 ヘルムートとリリィが司令部天幕へ呼ばれたのは、夜がさらに深まってからだった。


 呼びに来た士官の表情は硬く、それだけでただ事ではないとわかる。

 外では焚火が小さく燃え、見張りの足音が土を踏んでいた。

 主力同士のぶつかり合いはいったん止んでいる。だが、それで夜が安らいでいるわけではない。陣のどこかには、なお眠れぬ者の気配が絶えなかった。


 天幕の中へ入ると、ディーターは卓の前に立っていた。


 鎧は脱いでおらず、顔には疲労が濃く刻まれている。

 それでも立ち姿に揺らぎはない。火の明かりが頬の影を深くし、目だけを鈍く光らせていた。


「遅い刻限にすまぬ」


 そう言った声も平坦だった。


「だが、明日……いや、もう数刻のうちに、敵は動く」


 ヘルムートが一礼する。


「攻勢を強めるとお考えですか」


「ああ」


 短い返答だった。


「三日膠着した。このままでは敵にとって不利になる。ならば、どこかで戦をこじ開けに来るはずだ」


 ディーターの視線が二人を順にかすめる。

 それだけで思わず背筋が伸びた。天幕の中には他にも士官がいたが、誰も口を開かず、ただ火の爆ぜる音だけが小さく間を埋めていた。


「その時、出てくる札は一つだ」


 ヘルムートは黙って聞いていた。

 リリィもまた口を開かない。けれど、その胸の奥で脈がひとつ強く打つ。


 ディーターは続けた。


「ローゼン川でランドルフを討ったという戦奴隷。お前たちから報告の上がった異様な剣士。別人とは思えぬ」


 その言葉に、ヘルムートの目がわずかに細くなる。

 リリィは視線を動かさずに唇を引き結んだ。


「もし敵が突破を図るなら、そいつが前へ出るはずだ」


 天幕の中は静まり返っていた。

 どこか遠くで見張りが交代の声を掛け合っている。それすらこの場には届いてこないような静寂だった。


「魔法騎士隊は、それを止めろ」


 そこでディーターは一拍置いた。


「他は後回しでいい。戦況にはかまわず、まずは最優先であれを潰せ」


 命令の重さが、空気を変えた。


 通常の迎撃命令ではない。

 敵の突破を止めろ、でもない。


 あれを潰せ。なにより先に。


 ヘルムートはわずかに眉を寄せた。


「……ただの突破阻止にしては、重すぎる命ですな」


 ディーターはすぐには答えなかった。

 卓の上に置かれた一枚の書付へ目を落とし、それから二人を見る。


「理由はある」


 低い声だった。


「だが、いまここで広げる話ではない」


 ヘルムートはなおも黙っていた。問いを重ねるべきか測っているように見えたが、結局、口は閉ざされたままだった。

 ここで詮索を重ねることが、司令の望むところではないと理解したのだろう。


 その沈黙の横で、リリィの喉が小さく鳴る。


 彼女は以前から思っていた。

 あの剣筋。あの魔力。あの、どこか人を超越した身のこなし。

 そして今の、司令官の口ぶり。


 散っていた点が、ようやく線になりつつあった。


 ディーターが二人を見る。


「口外するな」


 それだけを、はっきりと言った。


「まだ疑いの段階だ。だが、疑いであっても広がれば厄介だ」


 言葉は少ない。

 しかし、その一言だけで十分だった。この命には、敵の突出を止める以上の意味がある。そう告げているに等しかった。


 ヘルムートの顔から感情が消える。

 軍人として命令を受ける顔だ。そして、その内側でなにかが噛み合ったようだった。


「承知しました」


 短い答え。

 リリィも続く。


「……承知いたしました」


 声はいつも通りに出したつもりだったが、ほんのわずかに硬かった。

 ディーターはそんな二人を見たまま、さらに言葉を継いだ。


「明日、敵の前で一切迷うな。もしあれが本当に――」


 そこで言葉が切れる。


 最後までは言わなかったが、それで十分だった。


「戦線より優先しろ。なんとしても止めるのだ」


 ヘルムートがうなずく。


「魔法騎士隊を即応できる位置に置きます」


「そうしろ」


 命令はそこで終わった。


 しかし、二人はすぐには動かなかった。

 一礼の前に、ほんの一瞬だけ間があく。命令そのものより、その背後にあるものの重さを量るような短い沈黙だった。


 ディーターはそれ以上なにも言わず、ただ二人を見返す。

 やがてヘルムートが深く一礼し、リリィもそれに続いた。




 二人は天幕を出た。


 外気は冷たく、夜はなお深い。焚火の赤が、踏み荒らされた泥の地面を鈍く照らし、その上を見張りの兵たちが無言で行き来している。

 どこか遠くでは、眠れぬ馬が落ち着かなげに鼻を鳴らした。


 しばらくは無言のまま歩いた。

 天幕の列の間を抜け、馬を預けた場所が見えてきたところで、ようやくヘルムートが口を開いた。


「……フォーゲル」


「はい」


「司令は、あの戦奴隷についてなにかを掴んだらしいな」


 それだけで十分だった。

 リリィは目を伏せ、小さく息をついてから答える。


「……はい。おそらく」


 ヘルムートは前を見たまま、淡々と言った。


「だからこそ、あそこまで重い命が出たのだろう」


 リリィは黙って頷く。胸の奥がひどく重くなっていた。


 もし本当に、あの男がエルヴァン・レヒナーなら。

 自分が憧れ、剣の道を進むきっかけになったその人なら。


 明日、自分たちはそれを迎え撃つことになる。


「隊長」


 リリィが言いかける。しかし、ヘルムートはそれを短く遮った。


「言うな」


 その視線はすでに前方へ据えられていた。


「いまは敵を止める。それだけだ」


 リリィはそれ以上言わなかった。

 言葉にした瞬間、胸の奥で辛うじて保っているものが崩れそうだったから。


 馬のそばまで来ると、ヘルムートは無駄のない動きで手綱を取った。

 リリィも自分の馬へ手を伸ばす。そこで初めて、指先が思った以上に冷えていることに気づいた。


 夜はまだ終わらない。

 だが、朝はそう遠くはない。


 そして朝になれば、敵はきっと動く。

 それがわかっているからこそ、この静けさは休息ではなく、次の殺し合いまでの短い猶予にしか思えなかった。


 リリィは暗い空を一度だけ見上げ、それから黙って(あぶみ)へ足をかけた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ