第46話 命令
ヘルムートとリリィが司令部天幕へ呼ばれたのは、夜がさらに深まってからだった。
呼びに来た士官の表情は硬く、それだけでただ事ではないとわかる。
外では焚火が小さく燃え、見張りの足音が土を踏んでいた。
主力同士のぶつかり合いはいったん止んでいる。だが、それで夜が安らいでいるわけではない。陣のどこかには、なお眠れぬ者の気配が絶えなかった。
天幕の中へ入ると、ディーターは卓の前に立っていた。
鎧は脱いでおらず、顔には疲労が濃く刻まれている。
それでも立ち姿に揺らぎはない。火の明かりが頬の影を深くし、目だけを鈍く光らせていた。
「遅い刻限にすまぬ」
そう言った声も平坦だった。
「だが、明日……いや、もう数刻のうちに、敵は動く」
ヘルムートが一礼する。
「攻勢を強めるとお考えですか」
「ああ」
短い返答だった。
「三日膠着した。このままでは敵にとって不利になる。ならば、どこかで戦をこじ開けに来るはずだ」
ディーターの視線が二人を順にかすめる。
それだけで思わず背筋が伸びた。天幕の中には他にも士官がいたが、誰も口を開かず、ただ火の爆ぜる音だけが小さく間を埋めていた。
「その時、出てくる札は一つだ」
ヘルムートは黙って聞いていた。
リリィもまた口を開かない。けれど、その胸の奥で脈がひとつ強く打つ。
ディーターは続けた。
「ローゼン川でランドルフを討ったという戦奴隷。お前たちから報告の上がった異様な剣士。別人とは思えぬ」
その言葉に、ヘルムートの目がわずかに細くなる。
リリィは視線を動かさずに唇を引き結んだ。
「もし敵が突破を図るなら、そいつが前へ出るはずだ」
天幕の中は静まり返っていた。
どこか遠くで見張りが交代の声を掛け合っている。それすらこの場には届いてこないような静寂だった。
「魔法騎士隊は、それを止めろ」
そこでディーターは一拍置いた。
「他は後回しでいい。戦況にはかまわず、まずは最優先であれを潰せ」
命令の重さが、空気を変えた。
通常の迎撃命令ではない。
敵の突破を止めろ、でもない。
あれを潰せ。なにより先に。
ヘルムートはわずかに眉を寄せた。
「……ただの突破阻止にしては、重すぎる命ですな」
ディーターはすぐには答えなかった。
卓の上に置かれた一枚の書付へ目を落とし、それから二人を見る。
「理由はある」
低い声だった。
「だが、いまここで広げる話ではない」
ヘルムートはなおも黙っていた。問いを重ねるべきか測っているように見えたが、結局、口は閉ざされたままだった。
ここで詮索を重ねることが、司令の望むところではないと理解したのだろう。
その沈黙の横で、リリィの喉が小さく鳴る。
彼女は以前から思っていた。
あの剣筋。あの魔力。あの、どこか人を超越した身のこなし。
そして今の、司令官の口ぶり。
散っていた点が、ようやく線になりつつあった。
ディーターが二人を見る。
「口外するな」
それだけを、はっきりと言った。
「まだ疑いの段階だ。だが、疑いであっても広がれば厄介だ」
言葉は少ない。
しかし、その一言だけで十分だった。この命には、敵の突出を止める以上の意味がある。そう告げているに等しかった。
ヘルムートの顔から感情が消える。
軍人として命令を受ける顔だ。そして、その内側でなにかが噛み合ったようだった。
「承知しました」
短い答え。
リリィも続く。
「……承知いたしました」
声はいつも通りに出したつもりだったが、ほんのわずかに硬かった。
ディーターはそんな二人を見たまま、さらに言葉を継いだ。
「明日、敵の前で一切迷うな。もしあれが本当に――」
そこで言葉が切れる。
最後までは言わなかったが、それで十分だった。
「戦線より優先しろ。なんとしても止めるのだ」
ヘルムートがうなずく。
「魔法騎士隊を即応できる位置に置きます」
「そうしろ」
命令はそこで終わった。
しかし、二人はすぐには動かなかった。
一礼の前に、ほんの一瞬だけ間があく。命令そのものより、その背後にあるものの重さを量るような短い沈黙だった。
ディーターはそれ以上なにも言わず、ただ二人を見返す。
やがてヘルムートが深く一礼し、リリィもそれに続いた。
二人は天幕を出た。
外気は冷たく、夜はなお深い。焚火の赤が、踏み荒らされた泥の地面を鈍く照らし、その上を見張りの兵たちが無言で行き来している。
どこか遠くでは、眠れぬ馬が落ち着かなげに鼻を鳴らした。
しばらくは無言のまま歩いた。
天幕の列の間を抜け、馬を預けた場所が見えてきたところで、ようやくヘルムートが口を開いた。
「……フォーゲル」
「はい」
「司令は、あの戦奴隷についてなにかを掴んだらしいな」
それだけで十分だった。
リリィは目を伏せ、小さく息をついてから答える。
「……はい。おそらく」
ヘルムートは前を見たまま、淡々と言った。
「だからこそ、あそこまで重い命が出たのだろう」
リリィは黙って頷く。胸の奥がひどく重くなっていた。
もし本当に、あの男がエルヴァン・レヒナーなら。
自分が憧れ、剣の道を進むきっかけになったその人なら。
明日、自分たちはそれを迎え撃つことになる。
「隊長」
リリィが言いかける。しかし、ヘルムートはそれを短く遮った。
「言うな」
その視線はすでに前方へ据えられていた。
「いまは敵を止める。それだけだ」
リリィはそれ以上言わなかった。
言葉にした瞬間、胸の奥で辛うじて保っているものが崩れそうだったから。
馬のそばまで来ると、ヘルムートは無駄のない動きで手綱を取った。
リリィも自分の馬へ手を伸ばす。そこで初めて、指先が思った以上に冷えていることに気づいた。
夜はまだ終わらない。
だが、朝はそう遠くはない。
そして朝になれば、敵はきっと動く。
それがわかっているからこそ、この静けさは休息ではなく、次の殺し合いまでの短い猶予にしか思えなかった。
リリィは暗い空を一度だけ見上げ、それから黙って鐙へ足をかけた。




