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第45話 重すぎた理解

 夜の野営地には、兵たちの疲労が蓄積していた。


 昼の怒号が消えたあとも戦場は眠らない。あちこちで負傷兵が呻き、血に濡れた布が絞られ、見張りの兵が泥を踏んで歩く。

 馬は落ち着かずに鼻を鳴らし、ときおり前線の方角から言い争うような怒声が届いた。


 主力同士のぶつかり合いは止んだが、戦そのものが終わったわけではない。

 明日また殺し合うための暗い間が、ただそこにあるだけだった。



 ジルニッツ軍の司令部天幕の中で、ディーター・フライベルクは卓に広げた地図を見下ろしていた。


 三日目が終わった。


 いや、終わったと言ってよいのかわからない。

 日が暮れ、主力同士のぶつかり合いは下火になったが、決着までは程遠い。兵の疲弊は濃く、戦線はなお膠着したままだ。


 オーランジュは押し切れなかった。

 一方で、こちらはまだ崩れていない。

 現状だけを見れば悪くはないが、胸の奥には鈍い棘のようなものが残っていた。


 敵はまだなにかを隠している。

 ディーターがそう思い始めたのは、今日の昼過ぎだった。


 ローゼン川でランドルフを討ったという異様な戦奴隷。

 魔法騎士隊から上がってきた、常軌を逸した剣技を見せる戦奴隷の報告。


 別々に聞けばそれまでだが、同一人物だと考えれば筋は通る。

 しかも、それはまだ表へ出てきていない。



 天幕の外から声がした。


「失礼いたします」


「入れ」


 布がめくられ、部下の士官が一人、夜気を連れて入ってくる。その手には封の切られた書付があった。


「内偵の者より報告です。例の件について、新たに裏が取れたと」


 その言葉に、ディーターは視線を上げた。


「寄こせ」


 士官が歩み寄り、書付を卓へ置く。

 ディーターはそれを手に取った。紙は湿気を吸ってわずかに波打っている。荒い字ではない。急いでまとめられたにしてはよく整っていた。


 目を走らせる。

 最初の数行で指が止まった。


 『勇者エルヴァン・レヒナーの死体を見た者はいない』


 その一文の後に、別の記述が続いていた。


 最後に立ち会っていたのは王妃コルネリア。

 死の数日前より、勇者は人目を避ける形で拘束されていたらしい。

 同時刻、同所で妻子が殺害されていた可能性が高い。

 王宮より出された公的発表と、実際の状況に大きな齟齬がある。

 王妃は現在もルッツを通じて特定人物の捜索を継続中。

 子飼いの暗殺者を私的に運用している形跡あり。

 これらの動きを王も王宮中枢も十分に把握していない模様。


 ディーターは黙って書付を読み返した。


 もう一度。

 今度は、一行ごとに噛み砕くように。


 死体を見た者がいない。

 最後に立ち会ったのはコルネリア。

 その前から幽閉。

 妻子の殺害。

 公的発表との食い違い。

 なお続く捜索。

 暗殺者。


 天幕の中の空気が、妙に冷えたように感じられた。


「……王妃は、なにを隠している」


 独り言に近かった。


 士官は答えない。答えられるはずもない。

 ディーターも答えを求めて口にしたわけではなかった。


 書付の文面だけでは、わからないことが多い。


 なぜ勇者を幽閉したのか。

 なぜ妻子が死んだのか。

 なぜ公的発表と食い違うのか。

 なぜ今もなお、誰かを探しているのか。


 だが、見えるものもある。


 王妃は勇者の死について嘘をついている。

 少なくとも、王宮が外へ出した話のどこかが事実ではない。


 その確信が、じわりと胸の底に沈んだ。


 ディーターは目を閉じる。



 エルヴァン・レヒナー。


 直接語り合う機会は多くなかったが、まったく知らぬわけでもない。

 もはや災害とまで言われた邪竜を討ち、国境の均衡を支え、国そのものの盾であり続けた男。

 戦場に立てば兵を鼓舞し、王都にいれば民に安心を与える存在だった。


 少なくとも、王宮が布告した「乱心した逆賊」という姿とは、どうしても重ならない。

 あの男が、なんの理由もなく突如狂い、すべてを捨てて死んだ。

 そんな話を、ディーターは最初から疑っていた。


 ただ、その時はそれ以上踏み込む必要がなかった。死んだものを掘り返したところで戦は待ってくれないからだ。

 しかし、今は違う。


 ローゼン川。


 ランドルフが討たれたという報告が、今なお脳裏に浮かぶ。

 少数の奇襲隊。異様に強い戦奴隷。魔力持ち。元は貴人ではないかという噂。返り血を浴びたまま無言で斬り進み、『死神』のようだったという兵の証言。


 副司令戦死の衝撃が大きすぎて、その時は脇に押しやられた。

 しかし、その後で魔法騎士隊から上がった報告書にも同じ記述があり、別人と考えるより、同一人と考える方が自然だった。


 ディーターの指先が、書付の端を押さえたまま止まる。


 ローゼン川の戦奴隷。

 魔法騎士隊が記した異様な戦奴隷。

 そして、死体なき勇者エルヴァン。

 王妃が今もなお追っている誰か。


 一本の線がようやく形を持ち、考えたくもない名がそこで初めて輪郭を得た。



「……まさか」


 思わず漏れた声は、低く(かす)れていた。


 もし、あの戦奴隷がエルヴァン・レヒナー本人だとしたら。


 そう考えた瞬間、それまで別々だったものが一気に噛み合う。まるでパズルのピースがすべてはまるように。

 ディーターはゆっくりと目を開いた。


「……あれがエルヴァンだとすれば」


 そこで言葉が止まる。

 その先は、もはや戦術の問題ですらなかった。


 もし本当にそうだとしたら、あれはただの強兵ではない。

 味方の前に姿を見せるだけで、軍を揺るがしかねない存在だ。


 兵たちにとって重要なのは理由ではない。

 かつて国の守護者だった勇者が、いま敵側にいる。

 その事実だけで十分だった。


 勇者エルヴァンは、この国の正義だった。

 兵に「自分たちは正しい側にいる」と信じさせてきた男でもある。


 その男が敵にいると知れれば兵は怯える。

 いや、それだけでは済まされない。自分たちの立つ側こそ誤っているのではないかという疑いさえ生まれてしまう。


 戦では、その疑いこそが致命傷になる。

 自分は正しい側にいるという確信は、剣や盾よりも兵を支え、それが崩れた瞬間に軍は戦う理由を失う。


 「なぜ」が広がれば、戦線は外からではなく内側から崩れ、もはや会戦どころではなくなるだろう。



 ディーターは書付を静かに畳んだ。


 コルネリアがなにをしたのか。

 なぜそうしたのか。

 そこまではまだ見えない。


 だが、今この場で優先すべきことはそんなことではなかった。


 もしあれがエルヴァンなら、味方にそれと知られる前に始末しなければならない。

 それだけは、はっきりしていた。



 外で、どこかの見張りが声を上げた。

 別の方角で、馬が落ち着かなげに蹄を鳴らす。

 夜はまだ深い。だが、朝は遠くない。


 ディーターは視線を戦線図へ戻した。

 暗い中で、幾筋もの線が揺れて見える。


 敵がこの膠着を嫌うなら、次に切る札は決まっている。

 そしてこちらも、それに備えねばならなかった。



「――ヘルムートを呼べ」


 士官が顔を上げる。


「はっ」


「まだ他には言うな。まずは私のところへ来させろ」


 士官は一礼して天幕を出ていった。


 残された火が、小さく揺れる。

 その灯りの下で、ディーターは一人動かない。


 理解してしまったことの重さだけが、夜の静けさの中に沈んでいった。

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