第44話 祝福と打算
夜明け前の白銀宮は、息を潜めたように静まり返っていた。
もっとも、王城そのものが眠っているわけではない。見張りの兵が歩き、侍女が行き交い、遠くでは朝の支度に入る物音もする。
だが、その静けさの底で、別の慌ただしさが膨らんでいた。
王宮の裏手に建つ離宮――水晶宮。
その名の通り、窓枠にも欄干にも柱の意匠にも、高価な水晶が惜しげもなく使われる雅な城だ。
夜明け前の薄青い光を受けると、白銀宮とはまた違う冷たい輝きを返していた。
本宮と比べるとささやかな規模だが、金も手もかけられているのはひと目でわかる。王の寵愛を受ける側妃の住まいとして、これ以上わかりやすい建物はなかった。
その水晶宮へ、昨夜から人の出入りが絶えない。
医師が入り、助産師が入り、侍女が入り、また別の侍女が湯や布を抱えて駆け込んでいく。
廊下には温めた湯と薬草の匂いが混じり合い、女たちの低い声が落ち着かない調子で行き交っていた。
側妃オリーヴィアの出産が始まったのは、昨日の夕方のことだった。
それから一晩が過ぎてもまだ終わっていない。
水晶宮の正面階へ続く石段の下で、国王フリードリヒ・アルブレヒト・フォン・ジルニッツが躊躇いがちに立ち止まった。
ここは男子禁制の宮。小間使いから護衛の騎士に至るまで、すべてが女で揃えられている。
たとえ王であっても、許可なく踏み込むことは許されない。それが主の出産中であるなら、なおさら。
わかっている。わかってはいるが、だからといって落ち着けるものでもなかった。
「まだか」
誰に向けたでもなく王が言う。
それへ返事をしたのは、控えていた侍従だった。
「……ただいまも医師が中におります」
「そうか」
フリードリヒは短く答えたが、それで満足した様子はない。
視線は何度も二階の窓へ向かう。明かりはついており、人影もよぎる。しかし中から声は聞こえない。
いや、聞こえてはいるのかもしれないが、ここまで届く頃には朝のざわめきに紛れてしまっていた。
王はもう一度、石段を見上げ、諦めたように小さく息を吐いた。
その時、背後から足音が近づいてきた。
宰相ヨッヘム・ハイデンベルグである。
四十を越えてから急に老け込んだように見える男で、髪は後退し、目の下には疲れが沈んでいる。
けれど、その疲れを押し流すだけの現実感が声音にはあった。
「陛下」
フリードリヒが振り返る。
「……ヨッヘムか」
「戦場から報告が届きました」
その一言で、王の顔からかすかに色が引く。
「いまか」
「いまです」
ヨッヘムは淡々としていた。だが、それは事態を軽く見ているからではない。
むしろ逆で、軽く見ていないからこそ、声に余計な揺れがないのだとわかる。
フリードリヒは、もう一度だけ水晶宮を振り返って言った。
「……いま行かねばならぬのか」
半ば乞うような響きが、その問いにはあった。
ヨッヘムは一瞬だけ沈黙し、それから答える。
「戦は待ってくれません」
柔らかな言い方だが、逃げ道は残していない。
フリードリヒは唇を結び、ようやく頷いた。
「わかった」
そのまま踵を返し、水晶宮を離れる。
歩きながらも、王の意識の半分はなお背後に残っているようだった。
ヨッヘムはそれを横目に見たが、やはりなにも言わなかった。
会議室には、朝の冷気がまだ少し残っていた。
大きな窓から入る光は白く、卓に置かれた羊皮紙の縁だけを淡く照らしている。
伝令はすでに報告を終え、いまはその内容を要約した書面が卓上に置かれていた。
戦場から王都までは早馬でも二日はかかる。
ゆえに、届いた報告は二日前の戦況だった。
貴族連合軍とオーランジュ軍がついに激突し、初日の会戦をどうにか守り切った。
要約すると、ただそれだけである。
しかし、その「それだけ」が軽くなかった。
「初日を保った、か」
フリードリヒは書面を見下ろしたまま言った。
声には安堵が混じる。しかし、それは戦局そのものへの理解から来るものではなく、ひとまず最悪の報せではなかったことへの反応に近かった。
「守り切った、という表現はできます」
ヨッヘムが答える。
「ただし、押されてはおります。相手の勢いが止まったわけではありません」
軍務に関わる側近が口を挟む。
「ここを抜かれれば、次は王都です。初日を持ちこたえたのは僥倖ですが、それで安心はできません」
「わかっておる」
フリードリヒはすぐに返した。
だが、それは返答というより、内容を理解していないと思われたくないがための言葉に近かった。
その王が続ける。
「余も、この戦が軽いものだとは思っておらぬ」
言いながら、王の視線がふと窓の外へ逸れる。
ここから水晶宮は見えない。
それでも、意識がそちらへ引かれているのは隠しようがなかった。
ヨッヘムはそれを見たが、なにも指摘しない。
「敵はなお攻勢を維持している、とあります」
別の側近が報告書を指で押さえながら言う。
「ただし、こちらも初日のうちは布陣を崩されなかった。ディーター卿の指揮は今のところ当たっております」
「ふむ……」
フリードリヒは曖昧に頷く。
「では、しばらくは持つということか?」
「そう願いたいところですが」
ヨッヘムの返答は苦い。
「相手はオーランジュです。国境での小競り合いとは違います。ここで止まる保証はどこにもありません」
会議室に短い沈黙が落ちる。
誰も楽天的なことは言わない。
たしかにこの場にも、それなりの危機感はある。ここを抜かれれば王都決戦になるという意味を、誰も理解していないわけではなかった。
ただ、その危機感が、どこか薄い膜を一枚隔てているように見える。
いま王宮の中心にあるのは、戦ではなく側妃の出産だった。
それは紛れもない事実として、国王自らの態度が証明していた。
フリードリヒが指先で机を叩き、また止めた。
「遅い。水晶宮からは、まだなにも言ってこぬのか」
呟くような声だった。
誰もすぐには答えず、ややあって、侍従長が小さく頭を下げた。
「まだ報せはございません」
「そうか……」
王の返事は、戦況報告に向けるものより、よほど素直に聞こえた。
その事実に、ヨッヘムが深く息を吐く。
「陛下」
「……なんだ」
「戦も、出産も、いずれ報せが届きます。いまは待つほかありません」
その言葉は慰めのようであり、釘を刺しているようでもあった。
フリードリヒは眉を寄せたが、反論しようとしない。
王としてこの場にいる以上、ここで「余は水晶宮へ戻る」とは言いづらい。その程度の理性と体面は残っている。
しかし、その体面が国を支えるほど強固かといえば、誰もそうは思っていなかった。
◆◆◆◆
同じ朝。
白銀宮の奥にある私室で、コルネリアは椅子に腰を下ろしていた。
部屋の中は暖かい。厚手の絨毯が敷かれ、窓辺には香が焚かれ、外の冷えた空気がまるで別世界のもののように感じられる。
侍女たちは足音を殺して動き、誰一人として主人の気分を害さぬよう神経を尖らせていた。
その中心で、コルネリアは紅茶にも口をつけず、前に立つルッツを見た。
座った姿でも、衣の下の腹のふくらみはもう隠しようがない。彼女は無意識にそこへ片手を置きつつ、口を開いた。
「戻らぬな」
静かな声だった。
怒鳴りつけるわけではない。
だが、かえってその静けさが冷たかった。
ルッツは跪いたまま答える。
「……はい」
「其方の手勢なら、任が果たされておればとっくに帰ってきておろう」
「そのはずです」
「ならば、まだ戻らぬ理由はなんじゃ」
問いかけではあったが、答えを求めているというより、追い詰めている響きだった。
ルッツは目を伏せる。
内心では、すでに考えていた。
戻らないということは、失敗したのかもしれない。少なくとも順調ではないのだろう。しかし、その言葉をここでそのまま差し出す気にはなれなかった。
「もうしばらくお待ちを」
結局、そう言うしかない。
「確認に手間取っている可能性もございます」
「確認?」
コルネリアがその言葉を繰り返す。
「今さらなにを確認する必要がある」
ルッツは答えない。
答えられないというより、答えても無意味だと知っていた。
コルネリアはしばし彼を見下ろしていたが、やがて薄く息を吐いた。
「死体が上がっておらぬ」
ひとりごとのように言う。
「それだけで、厄介なことよ」
ルッツの背に、わずかに冷たいものが走った。
コルネリアの中では、すでに答えが半ば出ているのだろう。
あの夜、あの場所で、あの高さから落ちた。普通なら死ぬ。だが普通で済まぬ相手だからこそ、いまこうして気味の悪い沈黙が続いているのだ。
その時、部屋の外で控えめな足音が止まった。
「王妃殿下」
侍女の声だった。
「なんじゃ」
「水晶宮より、使いが」
コルネリアの目が、かすかに動いた。
「入れ」
布がめくられ、侍女がひとり入ってくる。顔には緊張と、抑えきれぬ高揚が混じっていた。
「ただいま、側妃オリーヴィア様がご出産なさいました」
部屋の空気がわずかに変わる。
外では侍女たちが息を呑み、誰かがほっとしたように胸を撫で下ろした。王家に新しい命が生まれたのだ。祝うべき報せには違いはない。
だが、コルネリアが真っ先に尋ねたのは別のことだった。
「男か、女か」
侍女は一瞬だけ戸惑い、それから答える。
「……姫君にございます」
短い沈黙。
コルネリアの口元が、ゆっくりと歪んだ。
「そうか」
それだけだった。
けれど、その声音には祝福よりも安堵が濃く見えた。
女児。
それならまだよい。
自分が男児を産めば、立場は揺るがぬ。王の関心がどれほど側妃へ向いていようと、最後にものを言うのは血と序列だ。
そこまで考えたところで、コルネリアの指先が意識せずに腹の上をひとつ撫でた。
自分の腹から男子が生まれれば、それで済む。
怪しい笑みが、頬の端に浮かんだ。
侍女は頭を下げたまま、その顔を見ないようにしていた。
ルッツもまたなにも言わない。
新しい命の誕生を告げる朝だった。
なのにこの部屋には、祝いの色よりも打算の色の方が濃い。
コルネリアはようやく紅茶へ手を伸ばした。
窓の外では、白み切った空の下で白銀宮の塔が静かに光っている。
遠い北の戦場で、誰がどれだけ血を流しているのか、この部屋には届かない。届いたとしても、それはただの報せでしかなかった。
王宮の朝は、依然としてぬるかった。




