第43話 膠着
三日目ともなれば、怒号より荒い息の方が耳につくようになった。
エティは盾を支えたまま、乾いた喉の奥で舌打ちをする。
腕が重い。肩が痛い。槍を受けるたびに痺れが肘まで走る。開戦直後のような熱はもはやどこにもなく、残っているのは鈍い疲労だけだった。
前には相変わらず敵の盾と槍が並んでいる。
押しても割れない。殴っても退かない。三日もやっていれば、さすがにわかる。これはもう勢いでどうにかなる戦ではなかった。
「まだ終わらねぇのかよ……」
思わず漏れた声に、隣のバートが鼻を鳴らす。
「終わる戦なら、とっくに終わってるだろ」
「身も蓋もねぇな」
「事実だろ」
そう言いながら、バートは棍棒を握り直した。
肩口の古傷には乾いた血がこびりつき、その上から新しい泥が塗り重なっている。いつも通り笑ってはいるが、腕も足も重そうだった。
前列の盾が大きく軋む。敵の槍が二本、三本と隙間を探って伸びてきた。エティは盾で受け、体ごと押し返す。足元は血と土でぬかるみ、踏ん張るたびに靴が沈んだ。
気を抜けば死ぬ。気を抜かなくても死ぬ。
それは三日目になっても変わらない。
だが、初日と違うのは、怖がる余裕すら薄れてきたことだった。
恐怖はもう、疲れの下に埋もれている。ただ前を向き、押し返し、息をつき、また次を受ける。
その繰り返しだった。
「ったく……」
エティは盾越しに敵兵の顔を睨む。
「なんでこいつら、まだ立っていやがるんだ」
「向こうも同じこと思ってるだろうよ」
バートが言う。
その声にも、いつもの太さは欠けていた。
周囲を見れば、三日前にいた顔のいくつかは消えている。
喉を突かれた者、踏み潰された者、腕を失って後ろへ下げられた者。代わりに埋められた顔も、また少しずつ消えていった。
減っていないように錯覚するのは、減った端から別の兵が押し込まれてくるからだ。
エティは息を吐く。
「押してるんだよな、こっちは」
「ああ」
「なのに、ちっとも終わる気がしねぇ」
「終わらせたいのは、こっちだけなのかもな」
バートの言葉に、エティは顔をしかめた。
「どういう意味だよ」
「そのままだ。こっちは前へ出たい。向こうは立ってりゃいい。そういう戦なんだろ」
エティは返事をしなかった。けれど、なんとなくわかる気もした。
三日もやっていれば嫌でも見えてくる。
オーランジュ軍は前へ前へと押してくる。最初から強く出て、今日もなお押し続けている。
なのにジルニッツ側は、倒しに来るというより、ただ受け止めているようにしか見えない。
それが余計に腹立たしかった。
「迷惑な話だな……」
ぼやいた直後、右で悲鳴が上がった。
誰かが槍を腹に受け、前のめりに崩れる。すぐ後ろの男が半ば踏み越えるようにしてその位置を埋めた。もう誰も驚かない。驚いている暇がない。
エティは無理やり槍を突き返した。浅い。だが、相手の顔が歪む。そこへバートの棍棒が飛び、盾ごと敵兵を叩き崩した。
それでも、列そのものは割れない。
「おい」
エティが低く言う。
「……あいつ、まだ出ねぇのか」
バートは前を見たままだった。
「まだだろうな」
「三日だぞ」
「ああ」
「こういう時こそ使うんじゃねぇのか、ああいうのは」
「だからだろ」
バートは短く答えた。
「まだ、ここじゃねぇんだ」
エティは舌打ちした。
わかるような、わからないような話だが、少なくともひとつだけは確かだった。
あれだけ異様に強い男を、三日経っても前へ出さない。それは、適当に使っていい駒ではないということだ。
つまりまだ、どこかでひっくり返すつもりでいる。
そう思うと、ぞっとするような、癪に障るような、妙な気分になった。
◆◆◆◆
グスタフ・ノール子爵は、槍の柄に額を押しつけたい衝動をどうにか堪えた。
重い。
鎧が、ではない。いや、それももちろん重いのだが、もはや三日も痛めつけられてくると、肩に食い込む鉄より先に、自分の体そのものが重かった。
目の前ではなお、オーランジュ兵が押してくる。
初日ほどの勢いはない。だが、止まってもいない。疲れているのは向こうも同じはずなのに、それでも退かずに前へ出てくる。
面倒な敵だ、とグスタフは思った。
「保て! 下がるな!」
怒鳴り声が飛ぶ。
それに混じって、別のところでは負傷兵を下げる声がした。
左右の隊列は何度も歪み、そのたびに誰かが怒鳴り、誰かが走る。とても整った軍には見えない。寄せ集めもいいところだ。
なのに、まだ保っている。
グスタフ自身、それが不思議だった。
いや、不思議というのは違う。理由ならわかる。勝てる気はしないが、そもそも勝ちにいく必要もないのだ。
ここで裂かれず、押し流されず、持ちこたえることに意味がある。誰が明言したわけでもないのに、三日経つうちにその空気が兵の間に染みていた。
そこへ、すぐ後ろから震える声が落ちた。
「あぁ、こんなときに勇者様がいてくれたら……」
グスタフの背中がわずかに強張る。
すぐ隣の兵が青い顔で振り向いた。
「やめろ。口に出すな」
「……すまん」
それきり、声は消えた。
誰もそれ以上は続けない。けれど、聞こえなかったふりをした兵の何人かが、ほんのわずかに目を伏せたのをグスタフは見た。
責める気にはなれなかった。
この押し潰されそうな戦場で、その名が喉元までせり上がってくるのは自分も同じだからだ。
勇者エルヴァン・レヒナー。
王都の布告では乱心した逆賊として死んだことになっている。しかし、そんなことは兵にとってどうでもいい。
必要なのは政治の理屈ではなく、あの男がいれば戦が変わるかもしれないという、どうしようもない期待だけだ。
グスタフは、なにも言わずに前を見た。
言葉にしたところでなにかが変わるわけではない。
ただ、目の前の槍を弾き、押し返し、足を踏ん張る。
それしかできなかった。
アルノー・ショルツ男爵は、泥の上に膝をつきかけた兵を怒鳴って立たせた。
「立て! そこで沈むな!」
兵は半泣きの顔で立ち上がり、また盾を前へ向ける。アルノー自身も息が上がっていた。喉は焼けるように乾き、足は棒のようだ。
だが、座り込むわけにはいかない。
三日目ともなれば、兵の顔色も目に見えて悪い。
食えていない。眠れていない。夜になれば正面のぶつかり合いは鈍るが、だからといって安心して眠れるわけでもない。
見張りがあり、夜襲への警戒があり、負傷兵の処置があり、日が昇ればまた同じ場所で押し合いが始まる。
こんなものは戦というより、罰だとアルノーは思う。
それでも前を見れば、まだ持っていた。
盾は並んでいる。列は歪んでいるが、繋がっている。
誰も勇ましくはない。むしろ皆、今にも逃げ出したい顔をしている。だが、それでも踏みとどまっている。
それで十分だった。
「勝とうとするな!」
アルノーは怒鳴る。
「前を保て! 持てばいい!」
自分でも情けない言葉だと思う。
だが本心だった。勝てるとは思っていない。ここで武功を立てられるとも思っていない。そんなことを考える余裕さえもない。
ただ、耐えればいい。
オーランジュ軍は明らかに早く決めたがっている。
初日からそうだった。勢いで押し切るつもりで前へ出てきたが、三日経っても終わっていない。
ならば、そのこと自体がこちらの意味になる。
アルノーは前列の兵へ視線を送りながら、低く息を吐いた。
こんな戦をしている時点で、ろくでもない状況だとわかっている。
それでも、今はそうするしかなかった。
◆◆◆◆
ハインツは馬上で乾いた目のまま戦線を眺めていた。
初日の勢いはもうない。
それでもオーランジュ軍はなお押している。各所で前へ出ようとしている。兵の質でも統制でもこちらが上だ。それは間違いない。
だが、決まらない。
ジルニッツ側は正面から受ける形に徹し、勝ちに来ていない。勝ち切れぬ軍を、負けにくい形で使っている。嫌らしいが、現実的だった。
「中央、なお膠着です」
マティアスが言う。
膠着。
その言葉自体が気に入らない。
削り合って終わるなら、最初から会戦など仕掛けていない。相手を押し潰し、戦線を破り、王都方面への道を開くためにここへ来たのだ。
しかし三日目の今も、敵はなお持っている。
このまま長引けば、こちらが苦しい。
補給線を巡る小戦で相手を下してきたとはいえ、無限に戦えるわけではない。兵の疲れも、食糧も、馬の消耗も、じわじわと重くなる。
そして敵は、その重みがこちらに積もるのを待っている。
ハインツは目を細めた。
どこかに綻びはある。
あるはずだ。
だが、まだ見えない。見えぬところへ切り札を投げる気はなかった。
切るなら、一手で戦場を傾ける場所だ。そうでなければ意味がない。
脳裏に、泥と血に汚れた無表情の男が浮かぶ。
エルネスト。
まだだ、とハインツは心の中で繰り返した。
まだ、そこではない。
◆◆◆◆
ディーターは前線を見下ろしながら長く息を吐いた。
戦線はなお保っている。
被害は重い。兵の疲弊も隠しようがない。だが、それでも三日目を迎えてなお、正面は抜かれていない。
悪くない、とディーターは思う。
勝ってはいない。
だが、これでいい。
貴族連合軍に、華々しい勝利など期待していない。求めるのは、ただ保つことだけだ。
崩れた箇所を埋め、余計に前へ出ず、敵の勢いを受け止める。その間に時間が流れるのを待つ。それで十分だった。
「左翼、なお持ちこたえております」
「無理に押し返させるな」
ディーターは言う。
「崩れたところだけ埋めろ。持たせればいい」
側近が頷いて走っていく。
その背を見送りながら、ディーターはふと、以前の報告を思い出した。
ローゼン川。
ランドルフ副司令を討ったらしい、異様に強い戦奴隷。
あの時は本陣奇襲と副司令戦死の衝撃に押され、その件は脇へ流れた。だが、忘れたわけではない。
その後に上がってきた魔法騎士隊の報告書にも、気になる記述があった。オーランジュ軍の中に、常軌を逸した剣技を見せる戦奴隷がいる、と。
別人と考えるより、同じ一人と見る方が収まりがいい。
もしそうなら、厄介だ。
そして、その札はまだ前面に出てきていない。
ディーターの眉がわずかに寄る。
ローゼン川でランドルフを討った戦奴隷。
魔法騎士隊が警戒を記した戦奴隷。
もしそれが同一人なら、敵はそいつをまだ温存している。この膠着を嫌うなら、いずれどこかで切ってくるはずだ。
「……気をつけねばな」
誰に言うでもなく、低く呟く。
ただの一兵で済むならよい。
だが、もしそうでないなら、この戦の綻びはそこから始まる。
夕刻が近づくにつれ、前線の怒号は少しずつ鈍くなっていった。
兵はまだ前にいる。槍も盾も下ろされてはいない。だが、昼のような激しさは続かなかった。
力が尽きるのではなく、力を使い果たしたまま立ち続けているような、そんな鈍い押し合いに変わっていた。
エティは荒い息のまま、地に膝をつけたくなるのを堪えた。
「もう嫌だ……」
「知ってる」
バートが短く返す。
「明日もやるのか、これ……」
「やるだろうな」
「死ぬわ」
「死ぬなよ」
軽口はいつも通りだった。
だが、どちらも笑ってはいなかった。
向こうでも、敵兵が同じように肩で息をしているのが見える。誰も倒しきれない。誰も退ききれない。
押して、受けて、押し返して、また止まる。その繰り返しだった。
グスタフも、泥にまみれたまま槍を支えていた。
アルノーは掠れた声で兵を叱りつけている。
ハインツは決め手を探し、ディーターはなお持たせればよいと見ている。
同じ戦場に立ちながら、両軍が待っているものは違った。
オーランジュは、戦を壊す一手を。
ジルニッツは、今日が終わることを。
やがて日が傾き、正面のぶつかり合いはじわじわと鈍った。
完全な休戦ではない。矢は時おり飛び、前線ではなお怒号が上がる。しかし、主力同士の食らいつき合いは、ひとまず夜へ押し戻されていく。
三日目も、決着はつかなかった。
それはジルニッツにとって、小さくはない意味を持つ。
そしてオーランジュにとっては、決して望ましい日暮れではなかった。
薄暗くなっていく戦場の向こうで、誰かがまた「持て」と叫ぶ。
その声は、勝利を求める声ではなかった。
ただ、まだ崩れるなと。
今日を越えろと。
そう言っているだけだった。
その夜が、次の日の破局を呼び込むことを、まだ誰も知らない。




