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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第八十二話:龍火告白

第八十二話:龍火告白


 深夜の躑躅ヶ崎館を、春の訪れを拒むような深い冷気がすっぽりと覆っていた。

 昼間は柔らかく緩みかけていた風も、夜半を過ぎる頃には鋭い牙を剥き、固く閉ざされた板戸の隙間から細く長く入り込んでくる。庭先の竹が風に煽られて乾いた音を立てるばかりで、静まり返った館の奥には生き物の気配すら感じられなかった。


 武田勝頼は一人、執務の文机の前に座していた。

 机上の行灯は、意図的に芯を極限まで落としてある。微かな灯火は周囲を照らすというより、むしろ部屋の四隅に広がる闇の深さを際立たせるために揺れているようであった。

 先ほどまで隣で寄り添っていた北条夫人の気配は、もう残っていない。

 だが、絹の衣が擦れる柔らかな音も、冷え切った自らの手に重ねられた指先の温もりも、勝頼の内ではまだ確かな熱として消えてはいなかった。


『殿。……貴方様は、お一人で重すぎるものを抱え込みすぎておいでです』


 不意に蘇ったその言葉に、勝頼はゆっくりと重い目を閉じた。

 その声音には、弱さを責める響きは一切なかった。ただ、一人の人間として勝頼の果てしない孤独を深く案じる、静かな慈愛だけがあった。


 勝頼は、膝の上に置いた自らの右手を見下ろした。

 若い。

 節くれ立ってもいない。戦で刻まれた傷跡も浅い。まだ二十代半ばの、経験の浅い若武者の手だ。

 だが、この掌は、すでに二度の凄惨な人生の重みを骨の髄まで知っていた。


 一度目の生には、この手は何一つ守ることができなかった。

 自ら喉を突いた妻の血の感触。信勝の冷え切った小さな手を握り締めながら、ただ絶望の淵で震えることしかできなかった。炎に包まれた天目山で、愛する者たちを次々と死なせ、最後には己の未熟さを呪いながら自らの喉を裂いた、無力で惨めな手。


 二度目の中原の生には、この手は数千万の命を支え、動かした。

 玉座から数多の詔勅を書き、税を定め、法を整え、飢える民を減らし、広大な大陸の乱世を強引に終わらせた。人を殺すためではなく、人を生かすために、そして何より国家という巨大な機構を維持するために、この手を冷徹に使い続けた。


 そして今。

 三度目の人生において、この手は再び、血塗られた日ノ本の戦国へと引き戻されている。

 勝頼は、ゆっくりと拳を強く握りしめた。爪が掌の肉へ深く食い込む。

 若き肉体は、老成した魂よりも先に激しい熱を帯びる。その生々しい脈動と血の匂いが、かえって勝頼には不快であった。


 これまで行ってきた改革は、すべて冷徹な「理」によるものだった。

 銭の統一。兵糧の備蓄。流通の支配。人心の操作。隙のない諜報。

 戦を始める前にすでに勝敗を決しておくための、盤上の石の積み上げ。そこに感情の入る余地はない。経験と計算に基づく、極めて純度の高い統治の作法である。


 だが、今宵、勝頼が行おうとしていることは全く違う。

 それは理ではない。もっと泥臭く、もっと不確実で危ういものだ。

 己の最も惨めで醜い傷を、絶対の秘密を、他者へあえて晒すという行為。

 すなわち、「情」である。


「……陳宮よ」

 誰にも聞こえぬ独り言が、暗闇の底へ沈んだ。

「お前の申した通りだ。理だけでは、人は最後の最後までは付いては来ぬものだな」


 中原の宮廷。静かな灯の下で、己の生涯の半身であった痩身の軍師が苦笑していた姿が鮮明に浮かぶ。

『和帝よ。あなたは正しすぎるのです』

 あの男は、時折ひどく寂しそうな目でそう言った。

『正しさと法だけで人は救えませぬ。人は、自分の痛みを知り、共に血を流してくれる者にこそ、真に命を預けるのです』


 勝頼は、その言葉の真意を長く理解しきれずにいた。

 理と法によって国は盤石に保てる。秩序は作れる。だが、人の魂までをその鎖で永遠に繋ぎ止めることができるのか。……いや、できはしない。

 そのことに、夫人の温もりに触れて初めて気づかされたのだ。


 その時だった。

 障子の向こうで、微かな衣擦れの音がした。

 気配は極めて浅い。だが、暗闇の中で息を潜め、獲物を狙う山猫のような執念が張り付いている。

 勝頼は顔を上げず、静かに口を開いた。

「入れ」


 障子が音もなく滑った。

 真田源太左衛門尉昌幸が、夜の闇そのものに溶け込むように室内へ入り、深く平伏した。

 だが、昌幸は一歩踏み込んだ瞬間、わずかに息を呑んでいた。

 空気が違う。

 これまで勝頼が政務の場や軍議で纏っていた、あの氷のように冷え切った静けさとは異なっていた。万象を見下ろす冷厳な帝王の圧ではない。もっと生々しく、剥き出しの何かがそこにある。

 それは、深い地の底で何百年も燃え続けている熾火のような、恐るべき熱であった。


 昌幸の背筋を、冷たい汗が伝っていく。

(……これは危うい)

 知略家としての鋭い直感だった。今宵の勝頼は、あまりにも危うい。もし自分がここで一言でも言葉を踏み違えれば、この男はそのまま人の理を外れた化け物へと変貌し、自分を食い殺すだろう。そんな肌を刺すような予感があった。


「面を上げよ」

 昌幸はゆっくりと顔を上げた。

 そして、勝頼の目を見た瞬間、己の喉の奥が引き攣るように強張るのを感じた。


 孤独。

 その一言でしか言い表せぬ、深く昏い瞳だった。

 勝頼は、日ノ本の誰よりも大勢の人間と死の形を知っている。だが、その世界の誰とも立っている場所が決定的に違う。昌幸にはそう見えた。


「昌幸」

 勝頼は低く、地を這うような声で言った。

「そなた、以前よりずっと疑うておったな」

「……何を、にございますか」

「なぜわしが、ここまで先を知っているのかをだ」


 昌幸の喉がわずかに鳴った。図星であった。

 信長がいずれ兵農分離と鉄砲の波状攻撃を仕掛けてくること。徳川の兵糧が尽きる時期。金がもたらす経済の崩壊の仕組み。人が疑心暗鬼に陥って裏切るまでの時間。

 勝頼の采配は、単なる予測の域を完全に超えている。まるで、すでに一度その光景を最後まで見届け、結果の答え合わせをしている者のように、未来の事象を淡々と扱っていたからだ。


「神仏の加護……そう考えようとして参りました」

 昌幸は極めて慎重に言葉を選んだ。

「ですが、違う」

 勝頼は即座に、吐き捨てるように否定した。

「あれは天の加護などではない。悪趣味な呪いよ」

 その声には、神仏に対する激しい嫌悪と憎悪すら滲んでいた。


 昌幸は目を細めた。そこで初めて明確に気付く。

 この男は、「未来を知る力」などというものを微塵も誇っていない。むしろ、その力を持っている自分自身の宿命を、心の底から憎悪しているのだと。


「昌幸」

 勝頼は、文机の横に置かれた太刀の柄へ、ゆっくりと指先を乗せた。

「今宵、お前にだけわしの最大の秘密を明かす」

 行灯の火が、風もないのに小さく揺れた。

「だが、一度これを聞けば、もう二度と元の道へは戻れぬぞ」


 静かな声音だった。

 脅しではない。確認でもない。逃げ道を完全に断つ、絶対的な宣告だ。

「お前はもう、ただの真田昌幸ではいられなくなる。わしの背負う地獄を、共に歩むこととなる」


 昌幸の胸の奥で、何かが激しい熱を帯びて発火した。

 父・幸隆の教えが脳裏を過る。

『誰にも魂を預けるな。乱世では、己の力で生き残る者こそが常に正しい。表にも裏にも立て。だが、決してどちらにも完全に染まるな。それこそが真田の生きる道だ』

 だが今、目の前の男が差し出しているものは違った。

 一介の大名として生き残るための策などではない。もっと巨大で、もっと狂気じみたもの。日ノ本の歴史そのものを根底から塗り替える企て。神仏の定めた運命すらも、己の理で捻じ曲げようとするすさまじい意志。


 昌幸の口元が、ゆっくりと歪んだ。

 恐怖している。間違いなく死の恐怖を感じている。だがそれと同時に、腹の底から歓喜していた。己の知略をすべて捧げ、共に天下の裏側を覗き込めるこんな存在を、自分は心のどこかでずっと待っていたのではないか。


「勝頼様」

 昌幸は、床に額がつくほど深く頭を垂れた。

「この昌幸、生まれて初めてにございます」

「何がだ」

「一人の人間の途方もない器を前にして、武者震いが止まらぬのは」

 勝頼は黙ったまま、昌幸を見下ろしている。

 昌幸は言葉を継いだ。

「それがたとえ無間の地獄であろうと、喜んでお供いたしまする」

 その言葉には、打算や裏切りへの含みは一切なかった。


 勝頼は、しばし昌幸のつむじを見つめていた。

 やがて、胸のつかえが下りたように、深く息を吐く。

 胸の奥に厳重に封印し、沈め続けてきた天目山の炎が、ゆっくりと揺らぎ始めた。

 焼け落ちる陣屋の音。血と脂の焦げる臭い。家臣たちの裏切り。愛する者の死に顔。己の喉を突いた刃の冷たさ。

 何も守れなかった、あの絶望。

 忘れたことなど、ただの一度もない。


「……昌幸」

 勝頼の声が、わずかに掠れた。

「わしはな」


 行灯の火が、小さく、しかし激しく揺れる。


「一度、この武田を完全に滅ぼしておるのだ」


 その言葉が落ちた瞬間。

 室内の空気が、完全に凍りついた。

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