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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第八十一話:破暁前夜

第八十一話:破暁前夜


 夜更けの甲府には、日中の商都としての喧騒が嘘のような、底冷えのする不思議な静寂があった。

 四方を険しい山々に囲まれた盆地特有の冷気が、町全体を薄く、しかし重く覆い尽くしている。遠くの番所から微かに響いてくる拍子木の音と、城下を縫うように流れる水路のせせらぎだけが、冷たい夜の空気を細かく震わせていた。

 その静寂の中心に座す躑躅ヶ崎館でも、多くの者はすでに深い眠りの底へと沈んでいる。


 だが、館の最奥に新たに設けられた政務局だけは違った。

 一つだけ残された行灯の火が、暗い室内をぼんやりと青白く照らし出している。

 武田勝頼は、その揺らめく灯火を見つめたまま、長いこと身動き一つしなかった。

 机上には、各地に放った草の者や役人たちから届いた夥しい数の報告書が、整然と積み上げられている。

 信濃の国境における諸城の改修と防備の進捗。駿河へ抜けるための新たな軍道の整備状況。直轄の蔵に運び込まれる米の備蓄量。純度を統一した武田金の他国への流通具合。堺の商人である今井宗久と交わした密約による富の吸い上げ。そして、それらをすべて連動させた兵糧移送の精密な試算表。


 どれも国を維持する上で極めて重要なものであり、どれも、一度目の生で滅びの淵に沈んだかつての武田には、決定的に存在しなかった仕組みである。

 だが、今夜の勝頼は、その完璧に機能し始めた国造りの成果へ手を伸ばそうとはしなかった。ただ、じっと行灯の炎を見つめている。

 油を吸って燃える火は、不規則に揺れ動いていた。風の向きや油のわずかな不純物によって、法則なく、理屈もなく、ただ気まぐれにその姿を変える。

 それはまるで、人の移ろいやすい心のようであった。


(……情、か)

 勝頼はゆっくりと重い瞼を閉じた。

 中原の大陸で天子として生きた数十年の歳月の中で、彼は嫌というほど骨の髄まで学んだ。国家という巨大な生き物は、一個人の武勇や情念ではなく、冷徹な理でのみ動かすべきものであると。

 制度、物流、税の徴収、兵站の維持、そして法度。それらを正しく整えれば、国はいかなる外敵にも負けぬ強固な城となる。逆に、どれほど一騎当千の勇将を揃え、大将への忠義を誓い合おうとも、国を回す仕組みそのものが腐っていれば、国は必ず崩壊する。


 だからこそ、この日ノ本に戻ってきた勝頼は、まず情を排し、構造から国を根本的に作り替えた。人ではなく物の流れを支配し、感情ではなく法で行動を縛る。それが最も効率的であり、最も裏切られにくい統治の正解であると確信していた。

 そのはずだった。

 だが。


(本当に、ただそれだけで国は千年保つのか)

 不意に、一度目の人生の最期、あの天目山の凄惨な記憶が鮮明な傷跡として脳裏に蘇る。

 燃え盛る木々。次々と崩れていく自陣。己の保身のために背を向け、あるいは敵へ寝返っていく譜代の諸将たち。そして、飢えと疲労に完全に絶望しきった兵たちの、あの空虚な眼差し。

 あの生、自分という大将の周囲から、人が一人、また一人と潮が引くように消えていったあのぞっとするような冷たい感覚を、勝頼は今でも忘れることができない。

 かつての武田は、制度の不備だけで滅んだのではない。最後は人心に見放されて滅んだのだ。誰も信じられなくなり、誰からも信じられなくなった末に、完全に自壊したのである。


 勝頼は、膝の上で無意識に拳を強く握りしめていた。

(真田昌幸は、あの時の裏切り者たちとは違う)

 勝頼は己にそう言い聞かせた。だが同時に、心に巣食うもう一つの冷たい声が囁く。本当にそうか、と。

 真田昌幸は、あまりにも聡い。こちらが十を語れば、裏の百までを正確に理解し、実行する。勝頼の敷く政策の真意を、家臣団の誰よりも深く、そして冷徹に把握している。

 だからこそ、恐ろしいのだ。

 もし、この男が己の利益のために敵に回ったならば。もし、勝頼が未来を知り尽くしているという最大の秘密に気づき、それ利用し始めたならば。


 勝頼はそこまで考え、静かに息を吐いた。

 秘密。その言葉を浮かべるだけで、胸の奥が鉛を飲んだように重く沈む。

 誰にも話していない。妻である北条夫人を除いては。

 自分が一度滅びた暗愚な大将であること。そして、この世界を別の時間を過ごした記憶を持ったままで、同じ時間を二度目として生き直していること。

 それは勝頼にとって、最大の武器であると同時に、他の誰とも絶対に分かり合うことのできない、最も深く冷たい孤独の記憶でもあった。


 理解されるはずがない。安易に口にすれば、狂人と思われるか、人に化けた怪異として忌み嫌われ恐れられるだろう。だから勝頼は、そのすべてをたった一人で抱え込んできたのだ。


 その時だった。

 背後の襖が音もなく開き、微かな衣擦れの音がした。

「……まだ、お休みになられぬのですか」

 夜の静寂を溶かすような、穏やかで落ち着いた声だった。

 勝頼は振り返らず、小さく息を吐いた。

「夫人か」


 北条夫人は静かに室内へ入り、勝頼の傍らへ音もなく座った。

 正室とはいえ、今の彼女の装いは決して派手なものではない。淡い色の小袖を纏い、香も寝所の空気を乱さぬ程度に微かに漂うのみである。だが彼女が現れると、この無機質で氷のように冷え切っていた執務室の空気が、不思議なほどに柔らかく和らぐのを、勝頼は自分でも認めざるを得なかった。


「また、とても難しいお顔をしておられますね」

「……そう見えるか」

「はい」

 夫人はわずかに微笑んだ。

「政の御下知を下される時の、あの隙のないお顔ではございませぬ」


 勝頼は黙った。

 この女性は、時折ひどく鋭い。理屈や算術ではなく、言葉の裏に隠された人の機微を正確に読む。それは、すべてを数式で処理しようとする勝頼が最も不得手とする領域であった。

「……昌幸のことを考えていた」

 勝頼は、ぽつりと心の澱を零した。夫人は口を挟まず、ただ静かに耳を傾けている。

「奴は有能だ。わしの描く理を、最も正確に形にできる。だが、それゆえに危うい」

 勝頼は行灯の火を見つめたまま続ける。

「賢き者は、時にその知恵ゆえに主をも超える。損得だけで量るならば、わしのこの孤独な秘密は、死ぬまで誰にも明かさぬ方が正しい」


「秘密……」

「わしの内側にある、この過去の死の記憶のことだ」


 夫人は少しの間、黙考した。そして、静かに尋ねる。

「殿は、真田殿が裏切るかもしれないと、信じられぬのでございますか」

「違う」

 勝頼は即座に否定した。だがその後、言葉が不自然に止まる。

 違う。本当にそうか。

 勝頼はようやく己の心の底にある真の恐怖に気づかされた。自分は昌幸の忠誠を疑っているのではない。人を信じるという行為そのものを、死ぬほど恐れているのだと。


 夫人は、微かに肩を震わせる勝頼を見つめ、静かに言った。

「殿は、人を信じて、そして再びすべてを失うのがお怖いのでございますね」


 その瞬間。

 勝頼の胸の奥で、再び強固に築き上げた心の城壁が、音を立てて崩れ落ちる。

 この女性には対抗できない。いや、対抗したくないのだ。そう思った。

 夫人はなおも、春の陽光のような穏やかな声で続ける。

「法で国を縛り、理と銭だけで人を動かす。それはきっと、もう二度と誰にも裏切られぬための、殿なりの悲しい防御策なのでしょう。ですが殿」

 夫人の白く細い手が、膝の上で固く握りしめられていた勝頼の大きな手の上に、そっと重なる。

「人は、それだけでは最後まで動きませぬ」


 温かかった。

 その生身の熱に触れた瞬間、勝頼の中で張り詰めていた神経が、微かに軋む音を立てて緩んでいく。

「昌幸殿は、殿の示される見事な知恵と算段に従っているのではございません」

「……何」

「殿という存在そのものに、強烈に惹かれておられるのです」


 勝頼は怪訝に眉を寄せた。理解し難い言葉だった。

「奴は理と損得で動く男だ。わしが勝つ見込みが高いから従っているに過ぎぬ」

「はい。ですが、理や損得だけで人は己の命まで懸けませぬ」

 夫人は柔らかく笑った。

「昌幸殿は、殿が見ているあの遥か遠くの景色を、どうしてもご一緒に見たいのでございましょう。知恵者というものは、常に孤独でございます。ゆえに、自分より遥か高い場所にいて、自分を導いてくれる絶対的な存在を見つけると、その背を地の果てまで追わずにはいられなくなるのです」


 勝頼はゆっくりと目を閉じた。

 その言葉は、不思議なほど素直に胸の奥へ刺さった。昌幸の眼差しを思い出す。あの男は確かに、時折奇妙な熱を宿した目でこちらを見つめている。それは畏怖でもなければ、単純な忠義でもない。もっと別の、世界の理を共に暴きたいと願う、身を焦がすような渇望に近い何か。


「……わしは」

 勝頼は低く呟いた。

「また、人を信じてもよいのだろうか」

 その声は、覇王のものではなかった。かつて天目山で全てを失い、絶望の淵に沈んだ一人の男の、ひどく弱々しい声であった。


 夫人は答えず、ただ静かに勝頼の広い肩へ寄り添った。

 それだけで十分だった。いかなる言葉よりも先に、確かなぬくもりと愛情が伝わってくる。張り詰めていた氷の心が、少しずつ溶け出していく。


「殿」

「……うむ」

「昌幸殿もまた、殿のその圧倒的な器の大きさに救われているのでございます。人は、たった一人では決して天を翔けることはできませぬ。どうか、殿が独りで背負っておられるその重すぎるものを、あの方にも少しだけ分け与えてくださいませ」


 長い沈黙が、部屋に落ちた。

 やがて勝頼は、胸のつかえが取れたように小さく息を吐いた。

「……敵わぬな、そなたには」

「相模の女はしぶといのでございます」

 夫人が悪戯っぽく微笑む。勝頼も、ほんのわずかに口元を緩めた。

 そして、決意を固めたように静かに立ち上がる。


「外に控える者を呼べ」

「はい」

「真田昌幸を、これより直ちにわしの私室へ通せ。誰にも見られぬよう、独りで来させろ」

 勝頼は、窓の外の深い夜の闇を見つめた。

「今宵、あやつに少しだけ……わしがくぐり抜けてきた地獄の景色を見せてやる」


 夜明け前の暗闇の中、一つの巨大な秘密が、歴史を動かす新たな絆へと変わろうとしていた。

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