表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
83/146

第八十三話:天目残火

第八十三話:天目残火


 行灯の火が、ぱちりと音を立てて爆ぜた。

 微かな火花が夜の闇へと吸い込まれ、密室は一瞬だけ生臭い油の匂いに包まれる。

 武田四郎勝頼は、膝の上で固く拳を握りしめていた。

 指先がわずかに震えている。だが、それを懸命に悟られまいと押し殺そうとしているその姿が、真田源太左衛門尉昌幸にはかえって痛々しく映った。


「昌幸」

 勝頼は、地を這うような低い声で言った。

「これより語るは、そなたの知らぬ歴史よ」

 その声音は、ひどく静かであった。怒鳴りもせず、激情も見せぬ。だが、あまりに静かであるが故に、かえって尋常ならざる重みを持っていた。

「かつて、この日ノ本に確かに存在し、わしが自ら歩んだ滅びの道筋だ」


 勝頼の深く昏い視線は、もはやこの部屋のどこも見てはいなかった。

 昌幸には分かった。この若き君主は今、己の魂を過去へと飛ばしている。しかも、単なる遠い記憶をなぞっているのではない。肉の痛みごと、焼ける匂いごと、すべてを失った圧倒的な絶望ごと、再びあの破滅の淵へと立っているのだ。


「始まりは……長篠、そして設楽原であった」

 その地名が発せられた瞬間、部屋の空気が鉛のように重く沈んだ。

「空は暗く、地はぬかるみ、連吾川の冷たい水面には川霧が低く流れておった」

 勝頼の瞳が、虚空を遠く見つめる。

「川を挟んだ対岸に、織田と徳川が三重に馬防柵を築いていた。あれは陣などではない。大量の鉄砲を並べた、残酷な処刑場であった」


 昌幸は息を殺した。勝頼は言葉を紡ぎ続ける。

「だが、あの頃のわしにはそれが見えておらなんだ」

 勝頼の口元に、深い自嘲が混じる。

「父上さえいれば、武田の武威さえあれば、必ず勝てると盲信していたのだ」

 信玄。その名を出した時だけ、勝頼の冷え切った声に複雑な熱が宿る。敬愛、執着、そして決して逃れられぬ呪縛。

「武田の騎馬軍団は天下無双。山県も馬場も内藤も皆おる。織田の鉄砲など、我が軍の武士の気迫でたやすく踏み潰せる――愚かにも、そう固く信じておったのだ」


 勝頼はそこで目を伏せた。

「違った」

 短い一言だった。だが、その三文字の中に、海より深く数え切れぬ後悔が沈み込んでいた。

「鉄砲は、武勇というものを完全に否定した」

 静かな声が続く。

「誰が強いかではない。誰が遠くからより多く撃ち続けるかで、人が塵芥のように死んでいく時代へと、すでに変わっていたのだ」


 勝頼の喉が、苦しげに小さく動いた。

「あの日、わしは初めて聞いたのだ。人が機械のように殺されてゆく音を」

 昌幸の背筋に、冷たい氷柱が走った。

「轟音が鳴るたび、天下無敵の赤備えが崩れ落ちた。馬が悲鳴を上げて倒れ、人が転げ回り、赤土の泥と身内の血が混ざり合った」

 勝頼は、膝の上の拳をさらに白くなるほど強く握りしめた。

「山県昌景は、無数の弾丸を浴び、喉を撃ち抜かれた」

 勝頼の声が、かすれた。

「己の名乗りを上げる暇すら、与えられなんだ」


 勝頼の脳裏には今も鮮明に焼き付いている。赤黒く染まった泥。崩れ落ちる黒毛の駿馬。采配を握りしめたまま絶命した老将の無念の姿。

「馬場信春は、暗愚なわしを逃がすため、自ら殿しんがりを務めた」

 勝頼の呼吸が、微かに浅くなる。

「最後まで馬を返さなんだ。敵陣のど真ん中で、数え切れぬ敵に囲まれ、立ったまま死んだそうだ」

 行灯の火が激しく揺れる。

「内藤昌豊など……」

 そこで言葉が完全に止まった。勝頼は一度、肺の底から深く息を吐き出す。

「もはや、人の形すら留めてはおらなんだ」


 深い静寂が落ちた。昌幸は何も言えなかった。

 今の勝頼は、未来の予言を語っているのではない。己の拭いがたい罪を吐露しているのだ。あの戦場で散っていったすべての者たちを、自分の愚かさが殺したのだと、骨の髄まで思い込んでいる。


「敗北は、戦場だけで終わらぬものよ」

 勝頼がぽつりと言った。

「武田の武威という大黒柱が崩れた瞬間、人は雪崩を打った」

 その目に、数千年の時を生きたような深い疲労が宿る。

「昨日まで固い忠義を誓い合っていた者どもが、競うように我らを見限って離れていった」

 穴山信君。木曾義昌。小山田信茂。名は出さずとも、昌幸には手に取るように分かる。武田を内側から食い破り、滅ぼしたのは織田の武力だけではない。身内の恐怖と保身の連鎖だったのだ。


「……昌幸」

 勝頼がゆっくりと視線を上げ、昌幸を真っ直ぐに見た。

「あの時、そなたはわしへ言うてくれたな」

 昌幸の肩が、微かに震えた。

「上野の岩櫃へ来い、と」

 昌幸は黙ったまま目を伏せた。記憶にはない。だが、勝頼の言葉の真実味に、己の魂が共鳴しているのを感じた。

 武田滅亡寸前の絶望の中。己ならば、まだ立て直せるかもしれぬと本気で進言したはずだ。山に籠もれば時間は稼げる。上野の地ならば再起の芽もある、と。

 だが、その歴史において、勝頼は来なかったのだ。


「わしは、そなたの言葉を信じ切れなかった」

 勝頼は苦く笑った。

「真田の類まれなる智を知りながら、最後には血縁の情へ縋ってしまったのだ」

 その声音には、どうしようもない自分への嫌悪が色濃く滲んでいた。

「小山田信茂ならば、決して裏切らぬと思った」

 愚かだった、と。言外に強い後悔が滲む。

「岩殿城へ辿り着いた時、城門は固く閉ざされていた」

 勝頼の目が暗く沈み込む。

「わしらは、城へ入れられなかった」

 追手は目前に迫る。味方はいない。誰も助けぬ。


「そこでようやく悟ったのだ」

 勝頼は笑った。乾き切った、血を吐くような笑いだった。

「武田は、もうとうに死んでおったのだとな」

 昌幸の喉が、熱く詰まった。

 勝頼は淡々と続けた。

「天目山の山中へ逃げ込んだ」

 その声だけが、妙に静かで透き通っていた。

「杉の生木が燃えるあの脂臭い匂いを、わしは今もはっきりと覚えておる」


 昌幸は目を閉じた。勝頼の心は今もそこにいるのだ。あの燃え盛る絶望の山中に。

「最後まで付き従った家臣たちは、次々と自ら腹を裂いた。敵の銃弾に討たれた者もおる。泣き叫びながら死んでいった年端もゆかぬ若者もおった」

 勝頼の瞳が、激しく揺れる。

「そこに武士の誉れなど、欠片もなかった」

 血を絞り出すような声。

「ただ、理不尽な暴力と絶望だけがあった」


 そして。

 長い、永遠にも似た沈黙の後。

 勝頼は、己の魂に刻まれた最も深い傷へと触れた。


「信勝を」

 言葉が詰まる。握りしめた拳が小刻みに震える。

「……わしは、自らの手で死なせた」

 昌幸の呼吸が、完全に止まった。

「小さかった」

 勝頼は呆然と呟いた。

「まだ元服も迎えておらぬ、幼い子であった」

 行灯の火が、痛々しく揺れる。

「みるみるうちに、冷たくなってゆくのだ」

 勝頼の声が、完全に掠れ、消え入りそうになる。

「わしの衣を握りしめた、あの小さな掌が」


 その一言で十分だった。

 昌幸はすべてを理解した。この男は今も、あの日から一歩も逃げられてはいないのだ。

 武田という名門を滅ぼした記憶よりも。国を失い、自ら死を選んだことよりも。愛する妻と、我が子を守れなかったという事実が、最も深く勝頼の魂を蝕んでいる。


 重苦しく長い沈黙が落ちた。

 やがて勝頼はゆっくりと顔を上げ、深い闇の中から昌幸を見据えた。

「これが、わしの知る未来だ」

 静かで、冷徹な声に戻っていた。

「今わしがこの国で行っている苛烈な改革は、すべてこの凄惨な滅びを書き換えるためのものよ」

 純度の高い銭も。感情を殺した軍制も。螺旋を刻んだ火器も。物流の支配も。すべては、あの地獄へ辿り着かぬため。


「わしは天に逆らっておる」

 勝頼は真っ直ぐに昌幸を見た。

「すでに定められた歴史というものを、己の理で強引にねじ曲げようとしているのだ」

 その瞳に宿る悲痛な決意を見て、昌幸は完全に悟った。

 この男は、己の野心で天下が欲しいのではない。

 救いたいのだ。

 滅びを。理不尽を。飢えを。死を。

 何より、自分自身の取り返しのつかない後悔を。


「昌幸」

 勝頼の声が落ちる。

「わしを化物として恐れ、去るというなら止めぬ」

 その言葉には一切の虚勢がなかった。本気で言っている。

 だが同時に、ほんのわずかに怯えてもいた。もし昌幸までがここで去れば。この絶対的な孤独は、いよいよ底無しになる。


「あるいは」

 勝頼は言った。

「この天への叛逆へ付き合うか」

 行灯の灯火が大きく揺れた。

「わしと共に、歴史を殺すか」


 沈黙。

 深夜の躑躅ヶ崎館には、風の音すらも届かない。

 昌幸は頭を垂れたまま、静かに目を閉じた。

 己が仕えるこの男は、紛れもなく狂っている。だが、その狂気はあまりにも深く、そして悲しいほどに美しい。

 そして。

 昌幸はゆっくりと、顔を上げ、暗闇の中で笑った。不敵で、狂おしいほどの知的な歓喜に満ちた笑いであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ