第八十三話:天目残火
第八十三話:天目残火
行灯の火が、ぱちりと音を立てて爆ぜた。
微かな火花が夜の闇へと吸い込まれ、密室は一瞬だけ生臭い油の匂いに包まれる。
武田四郎勝頼は、膝の上で固く拳を握りしめていた。
指先がわずかに震えている。だが、それを懸命に悟られまいと押し殺そうとしているその姿が、真田源太左衛門尉昌幸にはかえって痛々しく映った。
「昌幸」
勝頼は、地を這うような低い声で言った。
「これより語るは、そなたの知らぬ歴史よ」
その声音は、ひどく静かであった。怒鳴りもせず、激情も見せぬ。だが、あまりに静かであるが故に、かえって尋常ならざる重みを持っていた。
「かつて、この日ノ本に確かに存在し、わしが自ら歩んだ滅びの道筋だ」
勝頼の深く昏い視線は、もはやこの部屋のどこも見てはいなかった。
昌幸には分かった。この若き君主は今、己の魂を過去へと飛ばしている。しかも、単なる遠い記憶をなぞっているのではない。肉の痛みごと、焼ける匂いごと、すべてを失った圧倒的な絶望ごと、再びあの破滅の淵へと立っているのだ。
「始まりは……長篠、そして設楽原であった」
その地名が発せられた瞬間、部屋の空気が鉛のように重く沈んだ。
「空は暗く、地はぬかるみ、連吾川の冷たい水面には川霧が低く流れておった」
勝頼の瞳が、虚空を遠く見つめる。
「川を挟んだ対岸に、織田と徳川が三重に馬防柵を築いていた。あれは陣などではない。大量の鉄砲を並べた、残酷な処刑場であった」
昌幸は息を殺した。勝頼は言葉を紡ぎ続ける。
「だが、あの頃のわしにはそれが見えておらなんだ」
勝頼の口元に、深い自嘲が混じる。
「父上さえいれば、武田の武威さえあれば、必ず勝てると盲信していたのだ」
信玄。その名を出した時だけ、勝頼の冷え切った声に複雑な熱が宿る。敬愛、執着、そして決して逃れられぬ呪縛。
「武田の騎馬軍団は天下無双。山県も馬場も内藤も皆おる。織田の鉄砲など、我が軍の武士の気迫でたやすく踏み潰せる――愚かにも、そう固く信じておったのだ」
勝頼はそこで目を伏せた。
「違った」
短い一言だった。だが、その三文字の中に、海より深く数え切れぬ後悔が沈み込んでいた。
「鉄砲は、武勇というものを完全に否定した」
静かな声が続く。
「誰が強いかではない。誰が遠くからより多く撃ち続けるかで、人が塵芥のように死んでいく時代へと、すでに変わっていたのだ」
勝頼の喉が、苦しげに小さく動いた。
「あの日、わしは初めて聞いたのだ。人が機械のように殺されてゆく音を」
昌幸の背筋に、冷たい氷柱が走った。
「轟音が鳴るたび、天下無敵の赤備えが崩れ落ちた。馬が悲鳴を上げて倒れ、人が転げ回り、赤土の泥と身内の血が混ざり合った」
勝頼は、膝の上の拳をさらに白くなるほど強く握りしめた。
「山県昌景は、無数の弾丸を浴び、喉を撃ち抜かれた」
勝頼の声が、かすれた。
「己の名乗りを上げる暇すら、与えられなんだ」
勝頼の脳裏には今も鮮明に焼き付いている。赤黒く染まった泥。崩れ落ちる黒毛の駿馬。采配を握りしめたまま絶命した老将の無念の姿。
「馬場信春は、暗愚なわしを逃がすため、自ら殿を務めた」
勝頼の呼吸が、微かに浅くなる。
「最後まで馬を返さなんだ。敵陣のど真ん中で、数え切れぬ敵に囲まれ、立ったまま死んだそうだ」
行灯の火が激しく揺れる。
「内藤昌豊など……」
そこで言葉が完全に止まった。勝頼は一度、肺の底から深く息を吐き出す。
「もはや、人の形すら留めてはおらなんだ」
深い静寂が落ちた。昌幸は何も言えなかった。
今の勝頼は、未来の予言を語っているのではない。己の拭いがたい罪を吐露しているのだ。あの戦場で散っていったすべての者たちを、自分の愚かさが殺したのだと、骨の髄まで思い込んでいる。
「敗北は、戦場だけで終わらぬものよ」
勝頼がぽつりと言った。
「武田の武威という大黒柱が崩れた瞬間、人は雪崩を打った」
その目に、数千年の時を生きたような深い疲労が宿る。
「昨日まで固い忠義を誓い合っていた者どもが、競うように我らを見限って離れていった」
穴山信君。木曾義昌。小山田信茂。名は出さずとも、昌幸には手に取るように分かる。武田を内側から食い破り、滅ぼしたのは織田の武力だけではない。身内の恐怖と保身の連鎖だったのだ。
「……昌幸」
勝頼がゆっくりと視線を上げ、昌幸を真っ直ぐに見た。
「あの時、そなたはわしへ言うてくれたな」
昌幸の肩が、微かに震えた。
「上野の岩櫃へ来い、と」
昌幸は黙ったまま目を伏せた。記憶にはない。だが、勝頼の言葉の真実味に、己の魂が共鳴しているのを感じた。
武田滅亡寸前の絶望の中。己ならば、まだ立て直せるかもしれぬと本気で進言したはずだ。山に籠もれば時間は稼げる。上野の地ならば再起の芽もある、と。
だが、その歴史において、勝頼は来なかったのだ。
「わしは、そなたの言葉を信じ切れなかった」
勝頼は苦く笑った。
「真田の類まれなる智を知りながら、最後には血縁の情へ縋ってしまったのだ」
その声音には、どうしようもない自分への嫌悪が色濃く滲んでいた。
「小山田信茂ならば、決して裏切らぬと思った」
愚かだった、と。言外に強い後悔が滲む。
「岩殿城へ辿り着いた時、城門は固く閉ざされていた」
勝頼の目が暗く沈み込む。
「わしらは、城へ入れられなかった」
追手は目前に迫る。味方はいない。誰も助けぬ。
「そこでようやく悟ったのだ」
勝頼は笑った。乾き切った、血を吐くような笑いだった。
「武田は、もうとうに死んでおったのだとな」
昌幸の喉が、熱く詰まった。
勝頼は淡々と続けた。
「天目山の山中へ逃げ込んだ」
その声だけが、妙に静かで透き通っていた。
「杉の生木が燃えるあの脂臭い匂いを、わしは今もはっきりと覚えておる」
昌幸は目を閉じた。勝頼の心は今もそこにいるのだ。あの燃え盛る絶望の山中に。
「最後まで付き従った家臣たちは、次々と自ら腹を裂いた。敵の銃弾に討たれた者もおる。泣き叫びながら死んでいった年端もゆかぬ若者もおった」
勝頼の瞳が、激しく揺れる。
「そこに武士の誉れなど、欠片もなかった」
血を絞り出すような声。
「ただ、理不尽な暴力と絶望だけがあった」
そして。
長い、永遠にも似た沈黙の後。
勝頼は、己の魂に刻まれた最も深い傷へと触れた。
「信勝を」
言葉が詰まる。握りしめた拳が小刻みに震える。
「……わしは、自らの手で死なせた」
昌幸の呼吸が、完全に止まった。
「小さかった」
勝頼は呆然と呟いた。
「まだ元服も迎えておらぬ、幼い子であった」
行灯の火が、痛々しく揺れる。
「みるみるうちに、冷たくなってゆくのだ」
勝頼の声が、完全に掠れ、消え入りそうになる。
「わしの衣を握りしめた、あの小さな掌が」
その一言で十分だった。
昌幸はすべてを理解した。この男は今も、あの日から一歩も逃げられてはいないのだ。
武田という名門を滅ぼした記憶よりも。国を失い、自ら死を選んだことよりも。愛する妻と、我が子を守れなかったという事実が、最も深く勝頼の魂を蝕んでいる。
重苦しく長い沈黙が落ちた。
やがて勝頼はゆっくりと顔を上げ、深い闇の中から昌幸を見据えた。
「これが、わしの知る未来だ」
静かで、冷徹な声に戻っていた。
「今わしがこの国で行っている苛烈な改革は、すべてこの凄惨な滅びを書き換えるためのものよ」
純度の高い銭も。感情を殺した軍制も。螺旋を刻んだ火器も。物流の支配も。すべては、あの地獄へ辿り着かぬため。
「わしは天に逆らっておる」
勝頼は真っ直ぐに昌幸を見た。
「すでに定められた歴史というものを、己の理で強引にねじ曲げようとしているのだ」
その瞳に宿る悲痛な決意を見て、昌幸は完全に悟った。
この男は、己の野心で天下が欲しいのではない。
救いたいのだ。
滅びを。理不尽を。飢えを。死を。
何より、自分自身の取り返しのつかない後悔を。
「昌幸」
勝頼の声が落ちる。
「わしを化物として恐れ、去るというなら止めぬ」
その言葉には一切の虚勢がなかった。本気で言っている。
だが同時に、ほんのわずかに怯えてもいた。もし昌幸までがここで去れば。この絶対的な孤独は、いよいよ底無しになる。
「あるいは」
勝頼は言った。
「この天への叛逆へ付き合うか」
行灯の灯火が大きく揺れた。
「わしと共に、歴史を殺すか」
沈黙。
深夜の躑躅ヶ崎館には、風の音すらも届かない。
昌幸は頭を垂れたまま、静かに目を閉じた。
己が仕えるこの男は、紛れもなく狂っている。だが、その狂気はあまりにも深く、そして悲しいほどに美しい。
そして。
昌幸はゆっくりと、顔を上げ、暗闇の中で笑った。不敵で、狂おしいほどの知的な歓喜に満ちた笑いであった。




