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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第七十四話:断情冷接

第七十四話:断情冷接


 北条氏政が己の家の生存を賭けた化かし合いの最後の一手として、小田原から甲府へ向けて一隊の使者と輿の列を発ってから数日。

 この婚姻は、単なる祝言ではなかった。

 既に武田と北条の間では、水面下において起請文の交換、領境線の再確認、商路と関所の取り決め、さらには相互不可侵に関する密約に至るまで、幾重もの条件が冷徹に積み重ねられた。今回の輿入れは、その最後にして最も重い証文――すなわち、血縁によって東国停戦を封じるための最終履行に他ならなかった。

 氏政はやり取りを通じて理解せざるを得なかった。もはや旧来の同盟の義や口約束だけでは、異形へと変貌しつつある武田を繋ぎ止めることはできぬと。ゆえに彼は、実妹を正室として甲府へ送ったのである。

 それは姫君一人の輿入れではない。北条が家の命運を賭して差し出した、事実上の人質そのものであった。


 相模から甲斐へと続く峻険な山道を、花嫁行列は静々と進んでいた。

 北条氏政の妹にして、武田の陣代である勝頼の正室となるべく輿に乗った北条夫人は、揺れる車内からわずかに覗く甲斐の景色に、ただ言葉を失っていた。


 かつて他国の噂で耳にしていた甲斐の国は、荒々しい武者たちが縦横無尽に馬を駆り、土煙が舞う野卑で血気盛んな土地であったはずだ。だが、国境を越えて彼女の目に飛び込んできたのは、定規で引いたように整然と区画された田畑と、石造りの強固な水路が網の目のように張り巡らされた、統制された静寂の風景であった。

 沿道の宿場に控える武田の兵たちもまた、彼女のよく知る武士の姿ではなかった。漆黒の具足に身を包んだ彼らは一糸乱れぬ隊列を組み、無機質な足音を響かせ、通り過ぎる行列を直視している。

 夫人は、実家である北条家の長い歴史や関東覇者としての矜持が、この全く新しい武田の姿の前では、まるで薄い紙細工のように脆く無力に感じられることに、底知れぬ恐怖を覚えたのである。


 躑躅ヶ崎館の正門に辿り着いた時、彼女を待っていたのは、大国の姫君の婚礼を祝う華やかな歓声でもなければ、琴や太鼓の雅な音色でもなかった。そこにあったのは、耳が痛くなるほどの規律正しい、氷のような沈黙であった。

 輿から降りた夫人は、迎えに出た無言の家臣たちの向こう側、一段高い石段の上に立つ一人の男を仰ぎ見た。

 武田四郎勝頼。

 かつて、小田原と甲府の間で儀礼的な交流があった折、わずかに見かけたことのあったはずのその男の面影を、彼女は懸命に探した。あの頃の勝頼は、偉大な父の影に隠れ、どこか焦燥を孕んだ瞳をした頼りなげな若武者であったはずだ。

 だが、今そこに立つ男は、鋼の如き冷たさと、底知れぬ静寂を全身に纏っていた。彼の瞳には、一国の主としての威厳すら遥かに超越した、万象を上空から冷徹に支配する絶対者の透徹が宿っているように感じられたのである。


(……このお方は、何処を見ておられるのか。私を見ているようで、その実、私という器の向こう側にある遠い運命を見ておられるかのようだ)

 夫人は背筋を走る悪寒を必死に抑え込み、名門北条の姫としての誇りを辛うじて保ちながら、深々と頭を垂れた。


 勝頼は、眼下で静かに平伏する夫人の姿を、まばたき一つせずに見つめていた。

 その瞬間、彼が心の奥底に何重もの鍵をかけて封印していた過去の人生の記憶が、激しい火花を散らして蘇った。

 一度目の人生の最期。天目山の燃え盛る炎の中で、返り血と泥にまみれた不甲斐ない自分を優しく抱き寄せた女性。兄である氏政からの帰還の勧めをきっぱりと拒絶して残ってくれた女性。

「殿、最期までお供いたします」

 そう静かに微笑み、自らの白き喉元に短刀を突き立てた彼女の、あの温かくも悲痛な感触と血の匂いが、勝頼の脳裏に鮮烈な痛みとして蘇ったのである。


(夫人よ……すまぬ。……天命め、許さぬぞ。そなたを、このわしの地獄のような修羅の道に舞い戻させたことを。)

 勝頼の喉の奥が、焼けるように熱く痛んだ。

 今すぐこの石段を駆け下り、その細く震える肩を力強く抱き寄せ、一度目の生で守りきれなかった謝罪と感謝を腹の底から叫びたいという、激しい人間としての衝動が彼を突き動かそうとする。

 だが、今の彼は、一人の情に脆い夫ではなかった。天命を叩き潰し、この国に永続の理を敷くために、あらゆる感情を殺し尽くした帝王でなければならないのだ。


 情愛は、国を乱し、人を死に追いやる最も危険な不純物である。

 かつて天目山で、己の甘さと弱さがゆえに、彼女をあの凄惨な死へと追いやったのだ。ならば、この三度目の人生において彼女を確実に救う唯一の道は、彼女を愛する女として扱うことではない。この国を構成する堅牢な一部として、冷徹に封印することに他ならない。


「面を上げよ」

 勝頼の口から放たれた声は、早春の凍てつく風のように硬く、一切の感情が響かなかった。

 夫人が恐る恐る顔を上げると、そこには人間的な温もりを完全に削ぎ落とした、絶対零度の瞳があった。勝頼は彼女の瞳に宿る微かな期待や不安を完全に無視し、傍らに息を潜めて控える真田昌幸にだけ聞こえるような、ひどく事務的な口調で告げた。


「昌幸。手続きを進めよ。婚礼の儀は形だけで良い。今日よりこの者は、北条家との利害を調整し、東国の不確定要素を完全に封殺するための、わが武田の重要な部品となる」


 夫人の瞳に、深い絶望の暗い影が走った。

 彼女は、戦国大名の間に生まれる政略結婚がいかに非情なものであるかは、幼き頃より教え込まれ、十分に理解していたつもりだった。だが、目の前の男から放たれるのは、単なる冷遇や憎悪といった人間らしい感情ですらなかった。彼女という存在を血の通った人間としてではなく、ただ一個の無機質な部品として処理しようとする、絶望的なまでの冷徹さであった。

 だが同時に彼女は悟っていた。自らが今ここに立っているのは、一人の女として愛されるためではない。武田と北条、二つの巨大な家の均衡を繋ぎ止めるための、生きた盟約として差し出されたからなのだということを。

 勝頼は一度も夫人の手を取ることなく、歓迎の言葉一つかけることもなく、その横を足音も立てずに通り過ぎ、館の奥へと歩みを進めた。


(夫人よ。そなたがわしをどれほど血の涙を流して恨もうとも構わぬ。わしのこの冷たさが、そなたをあの天目山の炎から永遠に遠ざける唯一の道となるのなら、わしは喜んでこの心を殺し尽くそう)

 勝頼は自らの内に渦巻く慟哭を、厚い理の壁で完全に押さえ込んだ。


 だが、その立ち去る主君の背中を静かに見送る昌幸の瞳に、微かな、しかし極めて鋭い光が宿っていた。

(……勝頼様。流石に今回は、ご自身の心を偽るのがいささか下手でございましたな)

 昌幸は、勝頼がかつてないほどに完璧な冷酷さを装いながらも、その言葉を吐き捨てる瞬間、衣の袖に隠された指先が白くなるほどに強く握り込まれ、微かに震えていたことを決して見逃さなかった。

 そして、その瞳の奥に一瞬だけ揺らめいた、狂おしいほどの悲痛な色も。


(勝頼様は、この北条の姫君の何をご存知だというのだ。なぜ、これほどまでにこの姫君に心を乱され、その情を必死に殺そうとなされているのか。……まるで、この姫君を失うことを、天下の何よりも恐れているかのようだ)

 昌幸は、主君が持ち込んだ冷徹な知恵と思想の奥底に、誰も触れることのできない煮え滾るような深い情念が隠されていることを確信した。そして、この冷徹極まりない接遇こそが、勝頼が愛する者を守るために自分自身にかけている、最も過酷で残酷な呪縛であることを悟ったのである。


(勝頼様。あなたのその深すぎる闇、この昌幸にはあまりにも眩しく、そして恐ろしい。ですが、その人間としての業の深さゆえに、私はあなたという底知れぬ怪物にどこまでも付き従いたくなるのです)

 昌幸は、暗闇の中で人知れず深く頭を垂れ、その口元に狂気的な悦びの笑みを刻んだ。


 夜の帳が甲府の街を冷たく包み込む。

 大国の姫君を迎えた婚礼の夜というには、あまりにも静まり返った躑躅ヶ崎館の奥深く。勝頼は寝所へと向かうことはなく、冷え切った執務の座敷でただ一人、灯火の下で日ノ本の白地図に向き合っていた。

 夫人に背を向け、己の心を殺してまで彼が選んだ孤独な覇道の重さ。西の織田信長との決戦に向けて、一切の綻びを許さぬ絶対の理を完成させるため、若き覇王は自らの血の涙すらも国の礎として塗り固めていく。

 東の憂いを凍結し、すべての情を捨て去った勝頼の視線は、後戻りのきかない道を真っ直ぐに見据えていた。

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