第七十三話:相模打算
第七十三話:相模打算
相模の国、小田原城。
関東八州の覇者として君臨する北条氏政は、甲斐から届いた一通の書状を、評定の間の静寂の中でじっと睨みつけていた。
そこには、これまで武田と北条が積み重ねてきた甲相同盟の儀礼的な言葉は、一片も存在しなかった。武家同士の外交において重んじられる書札礼すら完全に無視し、まるで上位の者が属国に下す掟のように、簡潔にして峻烈な文言だけが墨々と記されている。
妹君の輿入れを即座に執り行うという婚姻の強引な督促。曖昧になっていた甲斐と相模、武蔵の国境線の武田に都合の良い再定義。そして、武田が新たに鋳造した純度の高い金貨を、相模の領内での商いに優先して用いるべしという法外な要求。さらには、それらを受け入れぬ場合の不利益と、暗に武力行使を匂わせる冷酷な示唆。
「……武田四郎勝頼とは何者ぞ。陣代として政務を任された途端に、これほどまでに己を高く見積もったか」
氏政の低く重い声が、広間の冷えた空気にじわりと混じった。
その言葉を合図に、左右に並ぶ松田憲秀や大道寺政繁といった北条の宿老たちから、一斉に憤慨のざわめきが激しく沸き上がった。
「御館様、これはもはや当家へのあからさまな侮辱にございます。妹君の婚姻を求めながら、この高圧的な言い草……。勝頼殿は、己の器と立場を完全に履き違えられているかのようですぞ」
松田憲秀が膝を乗り出して語気荒く叫んだ。
「我ら名門北条を、まるで武田の属領のように扱うこの無礼極まりない書状。断じて呑むわけにはまいりませぬ。今すぐ武田の使者を追い返し、箱根の山に兵を伏せて国境の守りを固めるべきにございます」
家臣たちの血に上った怒りは、関東に覇を唱える戦国大名としての至極正当な反応であった。彼らにとって、他国との同盟とはあくまで対等な義と利の交換であり、互いの顔を立て合いながら結ぶものでなければならなかった。ましてや北条は四代にわたって関東を切り従えてきた誇り高き大国である。山に囲まれた甲斐の若輩者に顎で使われるいわれはない。
しかし、上座の氏政の瞳だけは、周囲の憤怒の熱に呑まれることなく、その奥で極めて冷徹な計算を回し続けていた。
彼は、この書状の異様さに、単なる若輩が権力を握って増長したのとは全く異なる、得体の知れぬ重圧を感じ取っていたのである。
(……単なる若さゆえの増長や威嚇であれば、もっと言葉を過剰に飾り立て、己の力と正当性を必死に誇示しようとするはずだ。だが、この文の運びには、怒りも虚勢も、一切の無駄な感情がない。まるで、わしがこれを読んでどのような不満を抱き、どのような反発を見せるかさえも、あらかじめすべて計算し尽くしているような、恐ろしいほどの冷徹さがある)
氏政は目を閉じ、己の頭の中で現在の日ノ本の情勢を俯瞰した。
西には、足利将軍を京から追放し、朝倉や浅井といった古き名門を次々と滅ぼして、強大な銭と鉄砲の力で畿内を完全に掌握した織田信長がいる。北の越後には、いまだ軍神としての威厳を失わず、ことあるごとに関東を脅かす上杉謙信が控えている。さらには関東内部においても、常陸の佐竹や安房の里見といった諸勢力との果てしない泥沼の抗争が続いており、北条軍は常に各地へと駆り出されている状態であった。
現在の北条にとって、背後の武田と事を構える余裕などどこにもない。むしろ、信長という怪物が東へと触手を伸ばしつつある今、西の武田という巨大な盾を確実に固定できる婚姻は、戦略的には是が非でも進めたい話であった。
勝頼は、北条が今、西の武田と敵対する余裕などないという苦しい台所の事情を完全に見透かした上で、あえてこの屈辱的な条件を強引に呑ませようとしているのだ。
さらに氏政の胸をざわつかせているのは、書状に記されていた武田金についての要求であった。
近頃、相模や武蔵の市場において、これまでに見たこともないほど純度と重さが均一に揃えられた黄金の貨幣が流れ込み始めているという報告が、蔵奉行から幾度も上がっていた。関東では長年、質の悪い粗悪な銅銭がはびこり、商いの巡りが悪くなっていた。そこに武田の美しい金貨が現れたことで、領内の商人たちはこぞってそれを求め、結果として北条の蔵に入るべき富が甲斐へと吸い上げられつつあるというのだ。
勝頼は武力ではなく、商いと銭の力を使って、音もなく北条の足元を切り崩しにかかっている。
「……皆、鎮まれ。無礼なのは確かだが、これこそが武田四郎勝頼とやらの放った巧妙な罠やもしれぬ」
氏政は目を開き、立ち上がって声高に主戦論を叫ぼうとする宿老たちを、扇子の一振りで制した。
「わしがこの書状の無礼に怒りに任せて同盟を破棄し、国境を封鎖すれば、最も喜ぶのは誰か。我らが武田と食い合っている隙を突き、領土を脅かそうとする佐竹や里見、そして西から漁夫の利を狙う織田信長よ。勝頼は、わしがこの無礼を呑まざるを得ぬと底まで見抜いて、あえてこのような刃のような文を突きつけてきたのであろう」
「なれば、あの若造の思い通りに動き、北条が武田の風下に立つというのですか、御館様」
大道寺政繁が、悔しげに顔を歪めた。
「思い通り、か。ふっ……。奴がこの北条を己の防壁として利用しようとしているなら、わしもまた、あの勝頼という男を飼い殺しにしてやれば良いだけのことよ」
氏政の口角が、微かに老獪な当主の笑みを形作った。
勝頼の真の思惑がどこにあるかはまだ分からぬ。武田の良質な金が相模に流れ込めば、確かに商いは潤うが、いずれ武田の経済に首根っこを掴まれる危険もある。だが、妹を輿に乗せて甲府の館へと送り込むことは、北条の耳目を武田の深奥に直接滑り込ませることに他ならない。婚姻という名の鎖は、相手を縛るものであると同時に、相手の急所に食らいつくための導火線でもあるのだ。
「返書を認めよ。文言は勝頼と同じく、一切の虚飾を排した無機質で事務的なものにせよ。……妹を甲府へ送る。ただし、これは北条の屈服ではない。武田勝頼という、信玄公の跡を継ぐ可能性のある男の器が、真に我ら北条の盾として機能するか、内側から検分するための第一手よ」
氏政は、奥で控える妹の姿を思った。
その女性は、名門北条の娘として、家の存続のための犠牲となる覚悟を、幼き頃より骨の髄まで植え付けられていた。数多の縁談が浮かんでは消え、その度に運命に翻弄されながらも、彼女は決して取り乱すことなく静かに咲く花のような気高さを持っていた。
彼女ならば、武田の館の奥深くに潜り込み、勝頼の真意をその目で見極め、相模へと報せを届けてくれるに違いない。
(妹よ、すまぬ。だが、お前が甲府へ行くことで、武田の異様な変貌の正体が暴けるなら、我ら北条の安泰はさらに十年の猶予を得るだろう。信玄入道が本当に病床にあるのか、それともすでに身罷っているのか。……そして勝頼という男が、日ノ本を呑み込む怪物か、あるいはただ父の威光を傘に着た驕児か。そのお前の瞳で、しかと見届けて参れ)
氏政の決断に、宿老たちは不承不承ながらも深く頭を下げ、矛を収めた。彼らにとって、これは名誉ある妥協という名の、生き残るための冷酷な政略の選択であった。武田が繰り出してくる未知の圧力に対し、北条もまた持てる知恵のすべてを動員して対抗するほかないのだ。
数日後、小田原城から甲斐の甲府へ向けて、一隊の壮麗な使者の列が発った。
それは勝頼の押し付ける圧倒的な理に屈したのではなく、北条氏政という一国の大名が、勝頼の異質さを逆利用して自家の生存を図ろうとする、命懸けの化かし合いの始まりであった。
東国の覇を巡る暗闘は、槍や弓矢を交えることなく、静かに、しかし確実にその火蓋を切って落とされたのである。




