第七十二話:東雲定盤
第七十二話:東雲定盤
深夜の躑躅ヶ崎館、新設された政務局の一室には、甲府の底冷えする夜気が音もなく忍び込んでいた。
火工廠での新兵器の検分を終え、宿老たちに有無を言わさぬ力の格差を見せつけた後、武田勝頼は休むことなくこの部屋に戻り、真田昌幸に外交の指示を与え、退出させた。そして、その後もそのまま卓上に広げられた日ノ本の東国勢力図を見下ろしていた。
勝頼の指先が、甲斐の東に隣接する広大な相模の国、そして関東一円を支配する北条家の領地を静かになぞる。
この一年、勝頼は常備軍の創設、純度を統一した金貨の流通、そして火縄銃の根本的な革新と、内政と軍備の仕組みを立て直す大工事に一定の目途をつけた。西の織田信長や徳川家康に対しては、すでに様々な情報統制の網を張り巡らせ、敵の思考の動脈を締め上げる手立てを打ち終えている。だが、背後である東側がいまだ古い同盟という不確定な状態のまま残っていることは、勝頼の感覚からすれば、とうてい看過できぬ耐え難い状況であった。
(北条氏政……。貴様を、わしは一度目の人生で痛いほどに知っている。そして、貴様が最終的に我が武田に対して選んだ行為もな)
勝頼の脳裏には、一度目の生で迎えた天目山の残火が、いまだに鮮明な痛みとして焼き付いている。
当時の武田家と北条家の結びつきは、父の威光と武将同士の情念という、極めて脆い紐帯に過ぎなかった。当主の代替わりの混乱、あるいは利害のわずかな不一致で、いとも容易く千切れるような薄氷の信頼。
勝頼は、二度目の生である中原の治世において、数多の野心ある諸侯を厳格な法と圧倒的な経済力で縛り上げた経験から、今のこの日ノ本の大名たちが行っている外交がいかに野蛮で未熟な情緒に頼っているかを、骨の髄まで痛感していたのである。
「勝頼様、早速、北条への書状、ご指示の通りの草案を認めて参りました」
背後の暗がりから現れたのは、真田昌幸であった。彼は勝頼の知の片鱗に触れて以来、勝頼の語る常識外れの言葉を現実の政略へと翻訳し、執行する役割を完璧にこなしていた。
勝頼は振り返ることなく、差し出された書状を受け取った。
「昌幸。文言の中に、信頼や同盟の義といった手垢のついた言葉を、いくつ入れたか」
「三つほど、あくまで形式的に散りばめました。氏政殿のような、関東の覇者としての古き名門の矜持を重んじるお方には、機嫌を損ねぬようそれなりの飾りが必要かと存じまして」
「すべて削れ。一文字も残すな」
勝頼の断固たる冷徹な言葉に、昌幸がわずかに眉を動かす。
「昌幸よ。同盟とは、互いの心を信じ合って結ぶものではない。利害が完全に一致している間だけ機能する機構であれば良いのだ。氏政に送るのは、救援の要請でも対等な盟約の確認でもない。武田の絶対的な力が、直ぐに関東の果てまで届くことの予告である」
勝頼は白地図の相模の国を扇子で強く叩いた。
「領土の境界線を我らに有利なように引き直し、さらに、氏政の妹君の輿入れを今すぐに行えと強要せよ。婚姻という楔をまずは強引に打ち込み、北条を対等な同盟国から、我ら武田が天下を獲るための物言わぬ防壁として完全に固定させたい。それがわしの狙いだ」
武田と北条は、数年前に信玄の代で同盟を結び直している。しかし、それは大将同士の個人的な威光に依存したものであった。勝頼が今、一度目の人生の記憶よりも数年も前倒しして、氏政の妹君であるのちの北条夫人の輿入れを強行しようとするのは、北条を事実上の属領として構造的に組み込むための、極めて冷酷な布石であった。
「昌幸、そなたには氏政を言葉で説得するのではなく、奴の思考の逃げ道を完全に包囲してほしい。先程言ったように、武田金を相模や武蔵に大量に流し込み、彼らの商いが武田の銭なしでは一日たりとも回らぬように経済の根元から依存させる。そして同時に、輿入れしてくる夫人を、わしが北条を内側から監視するための最も確実な目として機能させる。……わしは、北条という家をこれっぽっちも信じてはおらぬ。だが、夫人となる女性の魂の気高さだけは、この世の誰よりも信じられるだろうと思っているのだ」
勝頼の深く昏い瞳に、一瞬だけ、夜の海のように深く静かな哀しみが宿った。
一度目の生の天目山。実家である北条が非情な裏切りを働き、武田が完全な滅亡の淵に立たされた時。彼女は、兄である氏政からの再三にわたる帰還の勧告をきっぱりと撥ね退け、勝頼と共に最後まで炎の中で死ぬことを自ら選んだ。
彼女は、乱世の打算や武家の法を遥かに超えた、稀代の烈女であった。武田の家名が泥に塗れ、譜代の重臣たちからも次々と見捨てられたあの絶対的な絶望の中で、彼女の深い愛情だけが勝頼の最後の救いであったのだ。
(夫人よ。そなたのあの時の狂おしいほどの忠節、このわしが生涯をすべてかけても返しきれぬほどの圧倒的な重みであった。ゆえに、わしがこれからこの日ノ本に築き上げる国の中で、そなたを絶対に死から遠ざけ、永遠に保護してやる。それこそが、情を捨てたわしなりの、そなたへの唯一の恩賞であり救済なのだ)
勝頼にとっては、北条夫人との前倒しの再会は、戦略的な背後の凍結という冷酷な政治の盤面であると同時に、一度目の人生でどうしても守りきれなかった最大の恩義に対する、彼なりの決算の儀式でもあった。
昌幸は、主君の横顔に宿る、氷のような冷徹さと、その奥に隠された底知れぬ凄惨な執念が入り混じった異様な気配に、背筋を這い上がる強烈な違和感を覚えた。勝頼が今ここでやろうとしているのは、単なる大名同士の外交ではない。何か昌幸の理解の及ばぬ、他者の運命を本人の預かり知らぬ場所で強制的に書き換え、歴史そのものを強引に設計し直すという、おぞましい神の作業を行っているかのようであった。
「……承知いたしました。では、文言は一切の虚飾を廃し、我が国からの通告として書き直させます。氏政殿がこれを受け取り、その背後にある圧倒的な経済の圧力と武田の新兵器の威圧に気づいた瞬間、北条の退路は完全に断たれることになりましょう」
「頼む。……わしが西の信長と決着をつける間、東から一陣の風も入れさせてはならぬ。北条を、わが国の背後を守る、巨大で物言わぬ石垣へと造り替えよ」
昌幸が静かに一礼して退出した後、勝頼は再び独り、燃え盛る行灯の灯火を見つめていた。
今、武田が進めている婚姻による同盟の強化は、関東の平定に手こずる氏政にとって、表向きは渡りに船の提案のはずだ。しかし、その甘い予測さえも、これから勝頼が関東全域に張り巡らせる経済と情報の縛りから考えれば、氏政の首を真綿で絞め上げる残酷な処刑の始まりに過ぎなかった。
夜明けの青白い光が、小さな窓から静かに差し込み、勝頼の広げた日ノ本の白地図を冷たく照らし出した。
数日後、躑躅ヶ崎館から一隊の使者が相模の小田原城へ向けて馬を飛ばした。
それは、甲相同盟の完全なる変質と記すことになる、静かなる、しかし絶対の服従を強いる宣戦布告に等しいものであった。




