第七十一話:一撃必中
第七十一話:一撃必中
山県昌景と馬場信春の二人の宿老が、己の古い常識が完全に打ち砕かれた事実に深く平伏し、足取りも重く演習場を立ち去った後。
朝陽が完全に昇りきった平原には、ただ冷たい冬の風だけが吹き抜けていた。武勇という絶対の価値観が崩れ去り、冷徹なる理への服従へと変わったその静かな余韻の中で、陣代たる武田四郎勝頼は微かに熱を残す銃身を手に取り、無言のまま火工廠へと歩みを進めた。
背後には、真田源太左衛門尉昌幸が、自らの主君が放つ底知れぬ覇気に心地よい陶酔を覚えながら、影のように付き従っている。
石造りの火工廠の重厚な扉を閉めると、外の冷気は遮断され、代わりに鉄と油の匂いが満ちる静寂の空間が二人を包み込んだ。
勝頼は作業台の上に新銃を静かに置き、油布でその銃身を拭いながら、これからの戦の形について思考を深めていた。
「昌幸。先ほどの演習で、山県殿たちが見せたあの顔。あれが、未知の力に対する人間の正当な恐怖というものだ」
勝頼は拭う手を止め、冷たく澄んだ瞳を昌幸に向けた。
「尾張の織田信長は、鉄砲という道具の持つ真の恐ろしさを、ただの殺傷力ではなく、その轟音と硝煙がもたらす心理的な恐怖にあると見抜いている。農民上がりの兵に鉄砲を持たせ、一斉に火を噴かせれば、それだけで敵の馬はいななき、兵は足すくみ、陣形は崩れる。信長がやろうとしているのは、戦場という空間を音と煙で支配し、敵の士気を根本から叩き潰す恐怖の興行なのだ」
昌幸は深く頷いた。鉄砲の音が持つ威嚇の力は、戦場を経験した者であれば誰しもが実感している。信長の戦法は、それを極限まで拡大し、組織的に運用するものである。
「だがな、昌幸。信長のその戦法は、巨大な弱点を抱えている。奴の戦法は、あくまで敵の軍勢全体を面として捉え、恐怖で押し包むものだ。ゆえに、莫大な火薬と鉛玉を消費し続けねばならず、万が一敵がその恐怖を克服して突撃してくれば、陣はもろくも崩れ去る。所詮は、兵の心という不確かなものを対象にした、大掛かりな脅しに過ぎぬ」
勝頼は、美しく磨き上げられた銃身を指でなぞった。
「わしがこの新しい筒で求めるのは、恐怖による面の支配などではない。敵の軍勢という巨大な生き物の脳髄だけを一瞬で破壊する、完全なる一点の沈黙だ。いかに大軍であろうと、いかに恐怖で統制されていようと、指揮を執る大将の頭がはるか遠くから一発で吹き飛べば、残された数万の兵はただの肉の塊、意味を成さぬ群れへと瞬時に成り下がる」
信長が戦場を塗りつぶす大きな筆を振るうなら、勝頼は見えない場所から敵の心臓だけを確実に刺し貫く、極めて細く鋭い一本の毒針を放つ。大将が陣の奥深くで床几に座っていることすら許さない。その確実な死の恐怖は、音や煙による威嚇よりも遥かに深く、敵将の正気を削り取るだろう。
「これで、内側の軍制と、外敵を屠るための武力の基礎は完全に固まった。……だが、昌幸。この理の刃を信長の喉元に突き立てる前に、決して背後を脅かされぬよう、東の憂いを完全に塞いでおかねばならぬ」
勝頼の視線は、作業台に広げられた日ノ本の白地図の東、相模の北条へと向けられていた。
「北条氏政……か」
勝頼の低く沈んだ声には、はるか中原の帝王としての冷徹な響きの中に、一度目の人生で味わった凄惨な悔恨と、消えぬ怨念の炎が一瞬だけ燃え上がった。
一度目の人生において、勝頼が武田を滅亡の淵へと追いやってしまった最大の失策。それは長篠での敗戦ではなく、その後に犯した致命的な外交の過ちであった。
北の越後で上杉謙信が病死した後、その家督を巡って二人の養子が争う御館の乱が起きた。一人は上杉景勝、もう一人は北条氏政の実の弟である上杉景虎である。当時、武田と北条は強固な同盟関係にあり、氏政は勝頼に弟への援軍を強く頼み込んできた。
だが、あろうことか一度目の生での勝頼は、上杉景勝側から持ち掛けられた莫大な黄金や領土の割譲という目先の利に目がくらみ、あるいは和睦の仲介という己の力を過信した甘い見通しに足をすくわれ、同盟国である北条の弟を見殺しにして、敵対していたはずの景勝の側についてしまったのだ。
結果として景虎は自刃に追い込まれ、激怒した北条氏政は武田との同盟を即座に破棄。そしてあろうことか、西の織田信長、南の徳川家康と手を結び、武田を完全に包囲する巨大な死の網を完成させてしまったのである。
西、南、東。四方をすべて強力な敵に囲まれ、一切の物資も逃げ道も断たれた武田は、その圧倒的な重圧に耐えきれず、内部の家臣から次々と裏切り者が生まれ、やがて天目山の悲劇へと一直線に転がり落ちていった。
(……あの時、わしは目先の小さな利に溺れ、大局というものを見る目を持たなんだ。自らの愚かな手で、あの完璧な包囲網という死の縄を己の首にかけてしまったのだ)
勝頼は、かつての己の暗愚さを、もはや他人のことのように冷酷に切り捨てていた。
「勝頼様。北条とは現在、亡き御館様の代から続く強固な同盟が結ばれております。しかもいずれ、氏政の妹君が正室として輿入れしてくる手筈となっておりまする。東の守りは盤石かと存じますが」
昌幸の問いかけに対し、勝頼は氷のように冷え切った瞳で振り返った。
「昌幸よ。一度結んだ同盟など、風の向き一つで容易く裏返る紙切れに過ぎぬ。そして、政略結婚という血の繋がりで国が縛れるなどと信じるのは、乱世の人の業の恐ろしさを知らぬ者の妄言だ」
勝頼の脳裏に、一度目の人生で最期まで己に寄り添ってくれた、あの気高く美しい正室、北条夫人の顔が浮かんだ。
実の兄である北条氏政と夫である勝頼が殺し合うという絶望的な状況にあっても、彼女は決して実家へ帰ることはなく、燃え盛る天目山の山中で、静かに微笑みながら己の喉に刃を突き立ててくれた。その深すぎる愛情と忠義に、一度目の勝頼はどれほど救われたか分からない。
(だが……今のわしは、一人の男としてそなたを愛することはできぬ。あの悲劇を二度と繰り返さぬためには、わしは心を完全に殺し、そなたすらもただの盤上の石として冷徹に使い倒さねばならぬのだ)
勝頼は己の内に湧き上がりかけた僅かな情を、強引に封殺した。
「昌幸。わしは北条を、同盟や血の絆などという不確かなもので繋ぎ止めるつもりはない。奴らが絶対に我が武田に刃向かうことができぬよう、逃れようのない圧倒的な経済の力と、骨の髄まで震え上がる恐怖の双方向から、完全に縛り上げて物言わぬ防壁へと作り変える」
勝頼は白地図の上の相模の国を扇子で強く叩いた。
「まず、北条の領内に我が武田金を大量に流し込み、彼らの商いを武田の銭なしでは一日たりとも回らぬように完全に依存させる。同時に、この火工廠で造り上げる新しい筒の威力を、事あるごとに北条の忍びの目にわざと触れさせろ。武田の背後を突こうと考えただけで、一族ことごとくが遠距離から眉間を撃ち抜かれるという恐怖の幻想を、氏政の脳裏に深く植え付けるのだ」
昌幸は、そのあまりにも徹底した非情な外交の構想に、息を呑んで平伏した。
味方であるはずの同盟国すらも、一切信用せず、自らの経済と軍事の仕組みの中に強制的に組み込み、生殺与奪の権利を完全に握り潰す。それは武士同士の信義の交わりではなく、強大な帝国が周辺の属国を支配するための、残酷なまでの覇道の作法であった。
「……承知いたしました。北条家には、毒入りの甘い菓子を、それと気づかせずに腹一杯に喰わせ、二度と我らに歯向かえぬように飼い慣らしてご覧に入れまする」
「頼むぞ。織田信長が京の都を完全に押さえ、己の天下が盤石になったと得意気に誇る頃、わが武田はすでに、奴の理解をはるかに超えた、法の強国へと進化を終えているだろう。北条には早速、我が武田家へ輿入れを直ぐに行うよう書状を送りつけよ」
勝頼の冷えた声が、石造りの蔵に低く響く。
(やがて信長は琵琶湖の畔に巨大な城を築き、己の天下の象徴だと誇る日が来るだろう。一度目の生において、わしはその魔王の威容にただ圧倒されるばかりであった。だが……)
勝頼は、未だ見ぬ巨城の幻影を脳内で冷酷に打ち砕いた。
「奴が自信満々に数の暴力で押し寄せてきたその時、奴の自尊心のど真ん中を、わしが創り上げた一撃で容赦なく粉砕してやる」
夜明けの青白い光が、火工廠の小さな窓から静かに差し込み、勝頼の持つ新しい銃身を冷たく照らし出した。
内の武は極まり、次は外交の戦いが始まろうとしていた。




