第七十話:遠雷審判
第七十話:遠雷審判
石造りの火工廠にて極限まで純化された焔硝と、内部に螺旋を刻み込まれた新たなる鉄の筒。二つの絶対的な理が交わり、一つの兵器として完成を見るその朝、甲斐の躑躅ヶ崎館を包む空気は、春の兆しを拒むかのように刃のように冷え切っていた。
館の北方に広がる、なだらかな起伏に囲まれた軍事の演習場。冷たい風が枯れ草を揺らし、夜露に濡れた赤土の大地を乾いた白へと変えていく中、武田勝頼は静かに立っていた。
彼の傍らには、真田昌幸が、手塩にかけた猟犬のように鋭い眼差しで周囲を警戒しながら控えている。勝頼の視線の先には、漆黒に塗り上げられた一挺の長い筒が、白木で精巧に作られた二脚の台座の上に、無機質な姿で横たえられていた。
やがて、凍てつく土を踏みしめる二つの重厚な足音が近づいてきた。 「……陣代様。斯様なる朝駆けの時刻に急なお呼び立て、いかなる御用でしょうか」
沈んだ声をかけたのは、赤備えを率いる猛将、山県昌景であった。その後ろには、馬場美濃守信春がどこか達観したような、静かな面持ちで続いている。
信玄の死から一年、勝頼の断行した領主権の剥奪や法度の徹底により、彼ら宿老たちは行政の表舞台から完全に退けられていた。信春は、勝頼の圧倒的な理の前にすでに己の時代の終わりを悟り、ただ国を支える泥作りに徹すると静かに屈服を受け入れている。だが、昌景の腹の底には、武士としての最後の意地と、勝頼の冷徹なやり方に対する皮肉な感情が依然としてくすぶり続けていた。
勝頼はゆっくりと振り返り、二人の宿老を真っ直ぐに見据えた。
「昌景殿、信春殿。朝の修練の刻を割かせたこと、詫びておこう。今日は他でもない。わが火工廠の職人たちに命じて完成させた新たな武器を、誰よりも先に武田の武の頂であるお二人に、その厳しい目で検分していただきたいのだ」
昌景は、勝頼が扇子で指し示した台座の上の筒を、値踏みするように一瞥した。
「……検分、でございますか。陣代様が政務の合間を縫って直々に造らせたという筒、さぞかし見事な音が出るのでしょうな。ですが陣代様、戦は大きな音を出して敵を驚かせるだけでは勝てませぬ。我らのように泥にまみれ、敵の返り血を浴びて槍を突き合わせてこそ、敵の陣は崩れるものにございます」
昌景の言葉は恭しい口調を取り繕いながらも、飛び道具を頼みとする勝頼のやり方への明確な皮肉と棘が含まれていた。
一方、傍らの馬場信春は、昌景の言葉をたしなめるように低く言った。
「昌景殿、言葉が過ぎますぞ。陣代様がわざわざ我らをこの演習場へ呼び出されたからには、必ずや我らの古い常識を覆すだけの確たる理由があるはず。……我らはただ、その果てを見届けるのみにござる」
信春の瞳には、かつての鬼美濃と恐れられた猛気はなく、ただ次代の絶対者が何を見せてくれるのかという、静かな諦観と畏怖だけが宿っていた。
勝頼は昌景の皮肉を、凪いだ冬の湖面のような静けさで受け流した。
「昌景殿。わしがお二人の目利きを借りたいのは、この筒が武田の武勇を否定し堕落させるものか、それとも我らの武威をさらに遥かな高みへと昇華させるものか、その答えを現場の将に問いたいからだ」
昌景は鼻で笑うのを堪え、演習場の彼方を眺めた。 「……して、陣代様。その素晴らしい腕前を計る標的はいずこに。五十歩先には何も見当たりませぬが」
「標的は一町半先だ。あの向こうの丘の上に立つ、分厚い盾と当世具足を重ねた的を見られよ」
勝頼の言葉に、昌景は思わず呆れたように息を吐いた。
「一町半……。はっ、陣代様の頭の中では、鉛玉が空を飛んで勝手に敵の眉間に吸い込まれる計算になっているのですかな。尾張の織田が誇る鉄砲とて、五十歩で当てるのが精一杯。そこから先はどこへ飛ぶか分からぬ、ただの威嚇に過ぎませぬ。一町半先の甲冑を貫くなど、物理的にあり得ませぬ」
昌景の皮肉は、戦国の世を幾度も生き抜いてきた武将としての常識そのものであった。弾丸の形も火薬も不揃いな日ノ本の筒で、そんな距離を正確に撃ち抜くことなど不可能である。
しかし、勝頼はそれに答えることなく、自ら白木の台座に歩み寄った。 「神仏の奇跡ではない。これはすべて計算で導き出せるものだ」
勝頼は、火工廠で三度の精製を経て極限まで純化された純白の焔硝からなる火薬を、筒の銃口から決められた分量だけ、柄杓で正確に流し込んだ。
そして、小さな鉛玉を手に取る。だが、そのまま筒に入れるのではない。勝頼は油をたっぷりと染み込ませた丸い亜麻布でその鉛玉を丁寧に包み込み、それから棒で筒の奥深くまでぎりぎりと押し込んでいった。
「昌幸、油布の具合は確認済みか」
「はっ。筒の内側に刻まれた六本の溝に、油布が完全に噛み合っております。火薬が爆発した際の圧力の抜けが一切なく、弾丸に完璧な回転が加わりましょう」
昌幸が的確に答える。ただ溝を彫るだけでは、隙間から火薬の力が逃げてしまう。弾丸を油布で包むことで隙間を完全に塞ぎ、圧倒的な圧力を生み出しつつ、弾丸に直進するための強烈な回転運動を強制する。それが勝頼の用意した、技術の隙を埋める答えであった。
勝頼は筒を台座の二脚にしっかりと固定し、銃身の後部に取り付けられた、細かな目盛りが刻まれた金属の板、すなわち照尺を立てた。
勝頼は、標的を武士の勘や感覚で狙ってはいない。
風見の旗が揺れる角度を見て風の強さを算出し、一町半という距離に対して、純化した火薬がもたらす弾道の沈み込みを計算の型に当てはめる。その計算結果に従い、照尺の目盛りに合わせて銃身の仰角と左右の角度を、ねじ巻きを回して物理的に完全に固定したのである。
(織田信長よ……。そなたは大量の筒を並べ、数の暴力で確率の戦を我が武田に挑んでくるだろう。だが、わしは数や勘など頼まぬぞ。一切のブレを排除し、風と重みを処理し、固定された角度から放つ。これは一発の弾丸が、敵将の命を確実に処理する必然だ)
勝頼が手元から一歩下がり、微かに頷いた。 それを合図に、昌幸が火縄を落とし、引き金が引かれた。
――ッ、がぁぁぁん。
それは、日ノ本の武士たちがこれまで戦場で耳にしてきた、火縄銃特有の湿って濁った破裂音ではなかった。
極限まで不純物を取り除かれた火薬の膨大な熱量が、油布で完全に密閉された鋼の筒の中で膨張し、一寸の無駄なく鉛の玉を押し出したことで生まれた、空気を引き裂くような鋭く甲高い咆哮であった。
銃口からは、これまでのように視界を塞ぐ黒い煙は上がらない。ただ薄く白い煙が風に流れるだけで、勝頼の視界は澄み切ったままであった。
数瞬の、まるで時が止まったかのような真空の静寂の後。
がぎぃぃぃぃん。
一町半先の丘の上から、分厚い金属が暴力的にひしゃげ、貫かれる凄まじい絶叫が響き渡った。
標的として置かれていた分厚い樫の木の盾ごと、その後ろに縛り付けられていた当世具足が、目に見えぬ力で中央から抉り取られるようにして架台ごと後方へ跳ね飛ばされ、赤土の上に激しい音を立てて転がった。その分厚い鉄の胸当てには、一寸の狂いもない真円の死の穴が、見事に貫通して穿たれていたのである。
「……何という事だ」 馬場信春の震える声が、朝の冷たい演習場の空気に溶けていった。
「やはり、勝頼様の前では、いかなる強固な城も、我ら武士が誇る武勇も、もはや薄い紙細工に過ぎぬということですな……」
信春はその場で深く平伏した。彼はすでに勝頼の圧倒的な知の前に屈服していたが、この一撃は、古き戦の時代の完全な終焉を彼に確信させるものであった。
一方、山県昌景は、腰の太刀に手をかけたまま、己の拳を白くなるほど強く握りしめ、ひしゃげた遥か遠くの標的を呆然と見つめていた。
五十歩まで近づかねば当たらず、威嚇にしか使えぬと侮っていた鉄の筒が、風と距離を完全にねじ伏せ、確実に命を奪う死の道具へと変貌している。しかも、台座に固定し、目盛りに合わせるだけで良いのなら、長年の修練を積んだ武士でなくとも、ただの農民が少し教えられただけで、いとも容易く猛将の命を遠くから刈り取ることができるのだ。
昌景の強靭な骨身が、武士の存在意義そのものが破壊された衝撃で芯から震えていた。
勝頼は、まだ微かに熱を帯びている銃身を見下ろす昌景へと、静かに向き直った。
「昌景殿。そなたたちの武勇は、これからも武田の宝だ。比類なきその力で、幾度も武田の危機を救ってきたことは、わしが誰よりも知っている」
勝頼の言葉は、かつて広間で彼らの誇りを完膚なきまでにへし折った時のような冷酷な響きではなく、どこか深く、血の通った静かな重みを帯びていた。
「だからこそ、わしはこの筒を鍛え上げたのだ。これらを以て、そなたらのような国の宝を、無駄な死から完全に救い出したいのだ。……一番槍を競って敵陣に突っ込み、名もなき足軽の放った流れ弾で呆気なく命を落とす無念。わしは、二度と身内をあのような理不尽な死の場には置かぬ」
勝頼には、一度目の人生で、長篠の戦場において無数の銃弾を浴び、無惨な肉塊となって散っていったであろう彼ら宿老たちの死が、消えぬ傷跡として刻まれている。だからこそ、その死を回避するための絶対的な力を、執念で形にしたのだ。
「この筒の精度と威力があれば、敵の大将は陣の奥深くで床几に座っていることすらできなくなる。敵が遠距離からの狙撃に恐怖し、陣を崩したところを、そなたらが指揮する常備兵の壁が押し潰す。これがあれば、武田の至宝であるそなたたちを、最前線の盾として散らすことなく、より大きな大局を司る大将として、末永くこの国を支えていただくことができる。……それが、亡き父上の跡を継いだ、わしの真の願いだ」
勝頼の言葉の奥底にある、冷徹な統治の作法とは裏腹の、武田の将たちへの不器用で不退転の執着。それを肌で感じ取った山県昌景の顔が、激しく歪んだ。
彼は、自らの内にあった「槍一本で敵陣を斬り裂く」という武勇への固執が、いかに時代遅れであり、大将としての勝頼が抱える「一人も無駄死にさせない」という孤独な重責に比べて取るに足らないものであったかを悟っていた。
昌景は、ゆっくりと膝を折り、冷たい赤土の地面に両手をついた。 「……お見事な手品にございます、陣代様」
昌景の口から絞り出されたのは、屈服であった。
「……恐れ入りました。この新たな兵器は、陣代様の仰る通り、我ら武士の命を無駄に散らさず、これまでの日ノ本がかつて見たこともないような圧倒的な戦果を上げることにございましょう」
朝陽が完全に昇り、演習場の霜を溶かし始める中、勝頼は遠ざかる二人の宿老たちの背中を静かに見送った。
(父上。あなたが憂えておられた古き魂たちが、ようやくこの新たな武田の中に、自らの真の居場所を見つけ始めました。これで、内憂は消え去りましょう)
信玄が遺した三年の秘匿という名の空白の期間。その猶予は、強固な法と常備軍という組織だけでなく、絶対的な力を持つ新兵器を得る時間を得ることにも繋がったのである。
いまだ織田が古い戦の常識の中で周囲と天下を争っている間に、甲斐の深い山奥では、すべてを飲み込む龍の帝国が、その巨大な姿を完全に現そうとしていた。




