第六十九話:焔硝純化
第六十九話:焔硝純化
躑躅ヶ崎館の北側に置かれた分厚い石造りの火工廠には、鉄を削る甲高い音に混じり、鼻を突くような硫黄と炭の匂いがむせ返るように立ち込めていた。
武田勝頼は、作業台の上に並べられた三つの木皿を、感情を一切排した冷徹な眼差しで見つめていた。そこには、現在の日ノ本で火を噴く筒を撃つために欠かせない火薬の原料、すなわち、硝石、硫黄、そして木炭がそれぞれ盛られている。
勝頼から少し離れた背後では、真田昌幸がその様子を息を潜めて観察していた。筒の内側に螺旋の溝を刻むという、職人の腕を鋼の型で拘束して規格を統一したあの驚るべき加工の光景に、昌幸は魂を根底から揺さぶられるほどの衝撃を受けたばかりである。
しかし、勝頼の追求はそこで立ち止まることはなかった。筒という鉄の器を狂いなく揃えられる道筋がついた今、勝頼はその器の中に流し込む火薬の質そのものへと、執拗なまでの関心を移していたのである。
「昌幸。この国の鉄砲撃ちや調合師どもは、火薬というものを南蛮からもたらされた神仏の奇跡の砂か何かだと勘違いしているようだな。天候に祈り、湿り気を恐れ、弾丸の飛ぶ勢いが一発ごとに違うことを戦場の運と呼んで誤魔化しておる」
勝頼は、皿に盛られた輸入物の硝石の塊を指先でつまみ上げ、無造作にひねり潰した。ぼろりと崩れた粉末の中に、微かな土くれや不純物の混じりが見える。
「運に頼る戦など、結局は命を張った博打に過ぎぬ。わしが求めているのは、百発撃てば百発とも同じ距離を同じ威力で飛ぶ、絶対的な再現だ。そのためには、ただ筒を揃えるだけでは足りぬ。この火薬の素を、極限まで純化させねばならぬのだ」
昌幸は押し黙ったまま、勝頼の手元を見つめていた。
日ノ本の職人にとって、火薬の調合は長年の勘と秘伝の業である。それをどう純化するというのか。
だが、勝頼の脳裏には、大陸で天下を統べた時代の記憶が、極めて論理的な道筋を持って蘇っていた。
中原の宮廷には、不老長寿の秘薬を求めて鉛や水銀、さまざまな鉱物を混ぜ合わせる練丹術師たちが多数出入りしていた。ある時、彼らが調合していた釜が凄まじい轟音と共に吹き飛ぶという事故が立て続けに起きた。
武力と法で国を統治していた勝頼と軍師の陳宮は、その事故を単なる失敗で終わらせなかった。彼らは練丹術師たちを捕らえ、何を混ぜて火にかけたのかを徹底的に調べ上げた。その時、爆発の元となったのが、古い土から採れる硝石と、黄ばんだ硫黄、そして木炭の粉であったのだ。
勝頼と陳宮は、その粉を新たな兵器として用いるべく研究を重ねた。だが、当時の技術では、その爆発の圧力に耐えうる薄く強靭な筒を量産することができず、個人の持つ武具としては未完成のまま、大掛かりな火矢や攻城兵器の一部として用いるに留まっていた。
しかし、三度目の生を得て再び南蛮渡来の鉄砲と火薬を見た時、勝頼の頭の中で、かつて大陸で置き去りにした知恵と目の前の技術が、完全に一本の線として繋がったのである。
(南蛮の者どもは、火の粉を飛ばす強靭な鉄の筒を造り上げた。だが、肝心の火薬の質は、かつてわしが大陸の練丹術師たちに極めさせた純度には遥かに及ばぬ。……土に混じる汚れを取り除き、純粋な材料だけを抽出する術を、この職人どもは知らぬのだ)
勝頼が火薬の純化に即座に行き着いたのは、決して神仏のひらめきなどではない。数多の犠牲の上に築かれた大陸の叡智と、日ノ本に伝来した南蛮の技術。その二つの文明の差を冷徹に見極め、最も効率的な形で接合したという、必然の帰結であった。
「火薬を取り仕切る者、前へ出よ」
勝頼の声に応じ、火工廠の中で調合を任されている初老の職人が這うように進み出た。
「これを、大釜で煮ろ」
勝頼は、不純物の混じった硝石の山と、部屋の奥に据えられた巨大な鉄鍋を指し示した。
「ただ漫然と煮るのではない。わしが今から教える手順で、一度たっぷりの熱湯に完全に溶かし込め。そして、ゆっくりと冷やすのだ。冷えゆく中で上澄みに浮かぶ汚れや灰汁を惜しみなく捨て去り、最後に底に沈み固まった純白の物体のみをすくい取るのだ。これを、三度繰り返せ」
勝頼が命じたのは、湯の熱さによる溶け方の違いを利用して汚れを取り除き、純度を高める手法であった。中原の練丹術師たちが、薬の効き目を高めるために用いていた基礎の技である。
老職人は、主君のあまりにも詳細で、かつ理にかなった指示に言葉を失い、目を白黒させていた。彼らにとって、火薬とはそのまま細かく砕いて混ぜ合わせるものであり、水に溶かすなどという発想は思いもよらないものであったからだ。
「陣代様……。そのような手間の掛かることをなど、これまで聞いたこともございませぬ。何度も煮ては捨てるを繰り返せば、一挺分の火薬を揃えるのにどれほどの刻と薪が費やされるか……」
「手間ではない。これこそが、国の力を強めるための効率というものだ」
勝頼の声には、一切の反論を許さぬ絶対者の重圧が宿っていた。
「一発のまぐれ当たりを喜ぶために職人が手ぐねを引いて時間をかけるのではない。誰が撃っても全く同じ威力となる一千挺分の均等な力を得るために、最初に完璧な仕組みを造りあげるのだ。昌幸、よく聞いておけ。これよりこの火工廠を、単なる武具の工房ではなく、国が直轄する生産の巨大な拠点へと組織化する」
勝頼は、作業台の上に再び筆を走らせ、役目の割り振りの図を描き始めた。
「原料の調達、不純物の精製、そして最後の混合。それぞれの持ち場に専門の役人を置き、職人には己の担当するただ一つの作業のみを延々と繰り返させよ。全体の手順を知る必要はない。そして、一厘の重さの違いも許さぬ厳しい監視の体制を敷くのだ」
昌幸は、主君が描き出そうとしている国の形の巨大さに、あらためて深い感動を覚えた。
勝頼がやろうとしているのは、単なる武田軍の武具の強化ではない。人の手先の器用さや勘という曖昧なものを排除し、この甲斐の地に、日ノ本中の富と技術を吸い上げて規格品を無限に生み出し続ける、国家規模の生産の仕組みを無理やりに打ち立てようとしているのだ。
「……陣代様。そのようにして一切の不純物を取り除かれた火薬は、戦場においてどれほどの恐るべき力を秘めることになりましょうか」
昌幸の問いかけに、勝頼は暗い瞳の奥に冷たい光を宿した。
「見ておれ、昌幸。信長が数を誇る火薬が焚き火の煙であるならば、わしの造り出す火薬は、天を裂く雷の落ちるごとき威力となるだろう」
それから数日後のことである。
勝頼の厳命通りに三度の精製を終え、光を反射するほどに美しく輝く純白の硝石の結晶が用意された。そこに、厳選された硫黄と、特定の樹木をじっくりと焼いて作られた、細かな穴を無数に持つ極上の木炭の粉末が並べられた。
勝頼は、それまでの日ノ本の職人がやっていたような、升を用いた目分量での計量を固く禁じた。そして、政務局で使わせている金銀を量るための極めて精密な天秤を持ち込ませ、重さの比率のみを基準とした厳密な調合を自ら実演して見せたのである。
鉢の中で丁寧に混ぜ合わされ、完成した黒い粒。
勝頼は火工廠の裏手にある広い中庭へと出ると、その黒い粉を一摘みだけ乾いた地面に置き、火種をそっと近づけた。
しゅんっ。
凄まじく鋭い閃光と共に、地面に置かれた火薬は一瞬にして跡形もなく消滅した。
燃えカス一つ残らない。そして何より、立ち上った煙は驚くほど白く、そして薄かった。当時の粗悪な火薬が燃えた後に必ず残す、目に染みるような重く濁った黒煙とは、明らかに次元の異なる燃え方であった。
「見よ。不純な汚れが一切ないゆえ、火が燃え広がる速度が極限まで高まっておる。この爆発の力が、寸分の狂いもない鋼の筒の中で弾ければ、押し出される鉛玉は空気の壁すらも置き去りにして一直線に敵を穿つだろう。そして何より、煙が少ない」
勝頼は、風に消えていく薄い白煙を指差した。
「これは戦場において、極めて大きな意味を持つ。信長の軍勢が鉄砲を一斉に放てば、瞬く間に黒煙が陣の前を覆い尽くし、自分たちの視界を奪うことになる。だが、我が武田の精鋭が一千挺を一斉に放っても、視界は開けたままだ。敵の動きを見据えたまま、二の矢、三の矢を確実に叩き込むことができる」
昌幸は、その場に立ち尽くしていた。
勝頼は、目に見える敵将の首や領地だけでなく、目に見えぬ空気の揺らぎや、重さというこの世の道理までもを、完全に自らの手中に収めようとしている。
情や意地で戦う武士の戦など、この探求の前では、もはや野蛮な獣のじゃれ合いに等しい。昌幸の内に宿る知略家としての自尊心は、すでに心地よいほどの完全な敗北を認めていた。
かつての昌幸は、謀で敵を罠に嵌めることを至上の喜びとしていた。だが、勝頼が示しているのは、謀すら不要となる圧倒的な法則の支配である。この強固な仕組みの中に己を捧げ、この新しい世の構築に加担できるのならば、これ以上の喜びはない。
「昌幸。これで筒と火薬が完全に揃うぞ。……尾張の織田信長は、この日ノ本で新しい戦を始めたと革新を気取っておるが、奴のやっていることは所詮、未熟な乱世の延長で数を揃えたに過ぎぬ。わしがこれからこの国に見せつけるのは、そのような数頼みの力業とは比較にならぬほどの、質と知の技術だ」
火工廠の奥では、勝頼の図面と指示に従って、分業化された職人たちが無言のまま、しかし確実な足取りで新しい火筒と火薬を量産し始めている。
その規則正しい作業の音が、躑躅ヶ崎館を包む静寂を破り、やがて天下の歴史を根底から覆すための死の準備として、着実に時を刻み始めていたのである。




