第六十八話:規格火筒
第六十八話:規格火筒
甲斐の国、躑躅ヶ崎館の北側に位置する石造りの蔵、すなわち新たに火工廠と名付けられたその空間には、息を詰まらせるような重苦しい沈黙が満ちていた。
武田勝頼が、火縄銃の筒の内側に六本の螺旋の溝を彫り込み、放たれる鉛玉に回転を与えて直進させよと命じ、さらにそれを一寸の狂いもなく一千挺揃えよと言い放った直後のことである。
武田のお抱え鍛冶を束ねる老鍛冶は、そのあまりにも常軌を逸した厳命の前に顔面から完全に血の気を失っていた。
「陣代様……。何卒、何卒ご容赦くだされ。筒の奥深くに、細い溝を真っ直ぐ一本引くことすら至難の業にございます。ましてや、それを六本、すべて同じ深さで、同じねじれの角度で彫り込むなど、人間の手業ではとうてい及びませぬ。それを一挺ではなく、一寸の狂いもなく百挺、一千挺と揃えるなど……日ノ本のいかなる名工が一生を懸けても、到底不可能にございます」
老鍛冶の悲痛な訴えは、長年鉄と炎に向き合い、己の腕一つで武田家を支えてきた職人としての悲鳴そのものであった。筒の内部に均等な螺旋を刻むなど、職人の勘や手先の器用さでどうにかなる次元の話ではない。少しでも刃が滑れば筒は使い物にならなくなり、無理に火薬を詰めれば暴発して味方の命を奪うこととなる。
しかし、勝頼は平伏して震える老鍛冶を、冷え切った眼差しで静かに見下ろしていた。
「わしはいつ、そなたらの手先の勘や職人としての長年の勘所を頼りに彫れと言った」
勝頼の低く透徹した声が、火工廠の空気を一瞬にして凍りつかせた。
「その職人の己の腕に対する誇りと過信こそが、戦場において兵の命を奪う最大の落とし穴なのだ。手作業の勘に頼るからこそ、必ず疲労で狂いが生じ、一挺ごとに形が変わる。わしが求めるのは、誰が作業を担おうとも、全く同じものを生み出し続けることのできる仕組みだ」
勝頼は、傍らの従者に用意させていた三つの見慣れぬ物体を、頑丈な作業台の上へ音を立てて置いた。
「老鍛冶よ、よく見よ。そなたらに新たな筒を造らせる前に、まずこれらの道具を作らせたのだ。一つ目は、武田の印を刻んだ鋼の物差しだ。これからは、指の幅や職人の目の見当で長さを測ることを一切禁ずる。領内で造るすべての武器は、この物差しを絶対の規矩として寸法を合わせよ」
老鍛冶が息を呑む中、勝頼は二つ目の物体を指した。
「次に、この木と鉄で精巧に組まれた型だ。筒をこれにがっちりと固定し、溝を削る刃を入れる角度と深さを、物理的に完全に拘束する仕掛けよ。これを使えば、誰が刃を引いても、型の溝に沿って刃が勝手に回転し、必ず同じねじれ具合の溝が彫れるようになっている」
そして勝頼は最後に、黒光りする鋭い刃物を手にとった。
「最後に、この刃物そのものだ。そなたたちが刀を打つ際に出る芯の柔らかい鉄ではなく、極限まで焼きを入れ、鉄の筒そのものを容易く削り落とすことができるほどに硬く鍛え直した刃だ。これを型の軌道に沿って通すだけでよい」
老鍛冶の目が、理解の及ばない驚愕に大きく見開かれた。
「……筒を造るために、まずそのための道具をあらかじめ造る、ということにございますか。そんな回りくどく無骨な仕掛けに手間と銭をかけるなど、日ノ本の鍛冶の歴史において聞いたこともございませぬ。武具の良し悪しは、あくまで職人の指先の感覚と、叩き上げる際の魂の込め方こそが何よりの……」
「その職人の情念が、この国を危うくすると言っているのだ」
勝頼の瞳に静寂が宿った。
「そなたの長年培ってきた腕を疑い、貶めているのではないぞ。そなたの腕をさらに遥か上の次元へと引き上げるための、鋼の枷を授けるのだ。これよりこの火工廠で行うのは、単なる筒の加工作業ではない。この武田の地に、人を殺すための確実な火筒を鋳造する大工事である。……見ておれ。筒の内側に刻むこの螺旋の溝こそが、物量に頼る尾張の魔王を完全に粉砕する武器となるのだからな」
勝頼は、自ら作業台に据え付けた固定の型へと、火縄銃の長く重い銃身をしっかりと嵌め込んだ。そして、先ほど提示した極度に硬い鋼の刃物を型に噛み合わせ、静かに、しかし確かな腕力で手前に引き寄せた。
勝頼の脳裏には、安土の空の下で南蛮の技術を盲信し、ただ鉄砲の数だけで天下を押し潰そうとしている織田信長の姿が、ありありと幻影となって浮かんでいた。
(信長……。貴様はこれから数千の筒を並べ、絶え間なく鉛玉を撃ち掛ける隙のない戦法を編み出し、我ら武田を打ち砕こうとするのであろう。一度目の生において、わしの軍勢はその弾丸の雨の前に無惨に散った。だが、それは今のわしにとっては、それは、当たるかどうかも分からぬ弾を数千発撃ち込むために兵を並べる未熟で無駄な力業に過ぎぬ。先に百発百中で指揮する将の眉間を撃ち抜けば、いかなる大軍であってもその瞬間に自壊する。わしはその傲慢を、一発の弾丸に宿る絶対的な精度で、貴様の首ごと射抜いてやる)
きりきりきり……と、耳の奥を突き刺すような高い金属音が、石造りの火工廠に冷たく響き渡った。
勝頼は、一厘の狂いも許さぬ恐るべき集中力で、銃身の内部に刃を滑らせ、螺旋の溝を刻んでいく。その手つきは、もはや荒々しい武士のそれではない。勝頼が用いているのは、単なる腕力や手先の器用さではない。固定された型の軌道の上を、あらかじめ計算された圧力で均等に滑らせる、一つの無機質な機構の動きそのものであった。
真田昌幸は、その光景を背後から息を呑んで見つめていた。
主君の指先から、日ノ本の歴史を塗り替える全く新しい法則が、音を立てて生まれていく。織田信長が、上杉謙信が、北条氏政が信じて疑わない戦という名の概念が、きっとこの薄暗く小さな蔵の中で、根本から変換されているのだ。
(……なんと恐ろしいお方か。職人が一生を懸けて磨き上げる技を、木の型と鋼の刃物だけで、いとも容易く鉄砲には素人同然の鍛治衆にも再現できるようにしてしまうとは。これは、常備兵の創設と全く同じこと。才能や熟練という不確かな属人性を排除し、すべてを替えの利くものに変えてしまうおつもりなのだ)
昌幸は、己の主君から放たれる知の深淵にあらためて、驚きと喜びを抑えきれずにいた。
一刻の時が静かに流れた。
やがて勝頼が型の固定を外し、削り終わった銃身を両手で高く掲げた。
蔵の小さな窓から差し込む冬の淡い光が銃口から入り込み、筒の内側に鋭く均等に刻み込まれた、六筋の美しい螺旋の溝を浮かび上がらせた。
それは、手作業の勘では絶対に生み出すことのできない、恐ろしいまでに均整の取れた紋様であった。
「中を覗いて見よ。これこそが、型という規矩がもたらす力だ」
促された老鍛冶は、恐る恐る銃身を手に取り、筒の奥を覗き込んだ。そして、そのあまりの精緻さに雷に打たれたように絶句した。
「なんと……。溝の深さも、ねじれの角度も、最初から最後まで寸分の狂いもないように見えましてございます。このような美しい削り跡、熟練の名工が魂を込めて作業しても、決して手作業では辿り着けぬ境地かもしれませぬ……」
「お前たちはこれから、これと全く同じものを、一分の狂いもなくまずは百挺、いずれは一千挺造らねばならぬ。できないとは言わせぬぞ。わしが授けたこの型と定規が、お前たちから失敗という概念を奪い去り、強制的に成功させることになるからだ」
それは、職人としての誇りを否定する残酷な言葉であると同時に、彼らの技量を人智の及ばぬ領域へと強引に引き上げる、恐るべき悪魔の契約であった。
老鍛冶は、もはや反論することは出来なかった。目の前の若き陣代がもたらした知恵は、日ノ本の鍛冶の歴史を根本から否定し、新たな法則を敷くものであったからだ。彼はただ、手にした銃身の冷たい重みに震えながら、深く、深く畳に額を擦りつけた。
「……承知いたしました。我ら武田の鍛冶衆一同、陣代様が定められた寸法のままに、ただひたすらに同じ筒を削り続けましょう」
勝頼の深く昏い瞳には、武田の家を救済し、新たな国を創造するという、揺るぎない覇王の決意が静かに燃えていた。
外の寒空の下では、未だ旧き感覚の者たちが、いずれ訪れるであろう織田、徳川との決戦に向けて、己の槍を磨き、武功の夢を語り合っているかもしれない。
だが、真の戦の勝敗は、血と泥にまみれた平原ではなく、この冷たい蔵の中で、すでに静かに、そして決定的に定まろうとしていたのである。




