第七十五話:宿縁氷解
第七十五話:宿縁氷解
武家の婚礼において、正室を迎えた初夜とは、本来であれば両家の結びつきを神仏へ奉告し、床入りによって血脈と盟約の継続を内外へ示す、極めて政治的な意味を持つ儀式であった。
殊に戦国大名同士の婚姻は、単なる男女の契りではない。嫡子相続の正統性、同盟の永続、家中統制、さらには事実上の人質交換にも等しい軍略上の拘束を伴う、国と国との契約そのものである。
ゆえにこの夜、本来ならば躑躅ヶ崎館では、北条より随行した女房衆や武田家奥向きの年寄たちが、寝所の外で儀礼の進行を静かに見守っているはずであった。だが実際には、勝頼自らが余計な伺候をことごとく退けさせ、奥殿一帯を異様なまでに静まり返らせていた。
それは、北条との婚姻を制度としては徹底的に利用しながらも、その内実に私情を持ち込むことを極端なまでに恐れる、勝頼自身の歪な理性の発露でもあった。
勝頼は、婚礼の夜でありながら未だ寝所へ入ることなく、あえて冷え切った執務の座敷へ籠もり、灯火の下で白地図と軍書に向き合い続けていたのである。
それは、己の内から溢れ出ようとする人間としての情を、政務と理によって無理矢理に押し潰すための、痛々しいまでの逃避であった。
勝頼は、この三度目の人生において、自らの転生と中原での記憶について、決して誰にも語るまいと固く誓っていた。
唯一、死の床に伏した父である信玄にのみ、その真実を語ったことはある。だがそれは、死にゆく父に向けた餞としての最後の告白であり、他へ漏れるような状況ではなかった。
未来を知るなどという言葉は、人の世では容易く妖術や狂気と結び付く。下手に語れば家中は動揺し、宿老たちは猜疑に割れ、築き上げた理は根底から揺らぎかねない。
何より勝頼自身、過去への執着と後悔を口にした瞬間、自らが再び「情」に呑まれることを誰より恐れていたのである。
だからこそ彼は、誰にも語らなかった。
昌幸にも、昌景や信春にも。そして何より、今まさに夫婦となった北条夫人に対してすら語るつもりはなかったのである。
この秘密は、未来永劫、自らの胸中に封じ込めたまま孤独に背負い続けるつもりであった。
――だが、人は時に、理性だけでは己を制し切れぬ。
天目山で自害したはずの夫人の面影。
自分を責めることなく寄り添おうとするその声音。
そして、あの時と全く変わらぬ烈しくも優しい瞳。
それらを前にした時、勝頼の内で長年積み上げてきた鉄壁の理性は、限界へと追い詰められていたのである。
その後、夫人をそのままにしておくわけにもいかず意を決して寝所に戻った勝頼ではあったが、大国の姫君を迎えた祝儀の夜というには、躑躅ヶ崎館の奥殿はあまりにも重苦しい静寂に支配されていた。
父の死の秘匿、そして冷徹なる理による強権的な国造り。狂騒と緊張が渦巻く表の政務局とは完全に切り離された寝所の奥深くで、行灯の微かな光が、相模から輿入れしてきた北条夫人の白無垢を青白く浮かび上がらせている。
彼女は畳の上に端座し、ただ静かに夫となる男が言葉を発するのを待っていた。その身動き一つせぬ姿は、関東の覇者たる北条家の血を引く姫君に相応しく、凛として一分の隙もない。
だが、勝頼は、座したまま決して視線を合わせようとはしなかった。
勝頼の目は、開け放たれた縁側の向こうに広がる底知れぬ夜の闇に向けられたままであった。
「……改めて告げる」
やがて、凍てついた冬の湖面のような声が、寝所の空気を切った。
「そなたをこの甲斐へ娶ったのは、北条という不確定な隣国を、我が武田の背後を守る防壁として完全に固定するためだ。夫としての情愛など、一切期待するな。そなたに与えられるのは、北条家の内情をわしに知らせ、武田の掟を向こうへ伝えるための、物言わぬ道具としての役割のみである」
それは、昼間の冷遇よりもさらに酷薄な、人間の血が通っているとは思えぬ宣告であった。
しかし、その冷酷な言葉を吐き捨てる勝頼の膝の上で、袴を握りしめる両手の指先は、布が裂けんばかりに白く強張っていた。
彼の脳裏には、第二の人生で得た知識として、政略結婚により、国を安定させてきた歴史事実である無数の記録が冷たい文字となって流れている。為政者にとって、不要な情は判断を鈍らせる最大の欠点である。愛は必ず敵に狙われる致命的な弱点となる。だからこそ、この目の前に座る気高き女性をあの天目山の炎から救うためには、彼女を徹底的に突き放し、感情を持たぬ相手として扱わねばならないのだ。
勝頼は、自らの内に渦巻く慟哭を、分厚い理性の檻の底へと必死に押さえ込んでいた。
しかし、勝頼の耳に響いたのは、絶望の涙声でも、屈辱に震える恨み言でもなかった。
「……殿。貴方様は、そのような冷たい嘘で、一体誰を守ろうとしておられるのですか」
静かでありながら、確かな芯を持った夫人の声に、勝頼の広い背中が目に見えて強張った。
「守るだと。勘違いをするな。わしが守るのは、己の創り上げる国の秩序のみだ」
「いいえ、偽りにございます」
衣擦れの音が響いた。夫人が静かに立ち上がり、勝頼へと一歩、また一歩と歩み寄ってくる気配がした。
「先ほどから、殿の御声は、まるで迷子になって今にも泣き出しそうな幼子のように、微かに震えております。……そして、そのお瞳。私を見つめようとしないそのお姿は、私の向こう側にある、何か途方もなく悲しい幻影に怯えているようにしか見えませぬ。……殿、貴方様は何を、それほどまでに恐れておられるのですか」
勝頼の心臓が、激しい警鐘を鳴らした。
(見抜かれたというのか。昌幸にも隠し、宿老たちの目をも完全に誤魔化し切ったこのわしの仮面が、まだ年若きこの女性ただ一人に、いとも容易く暴かれたというのか)
勝頼は激しく身を翻し、夫人を威圧するように鋭く睨みつけた。
だが、すぐ目の前に立っていた彼女の瞳を見た瞬間、勝頼の呼吸が止まった。
そこにあったのは、かつて一度目の人生の最期、燃え盛る天目山の木々の中で、泥と返り血にまみれた不甲斐ない自分を優しく抱き寄せ、「殿、最期までお供いたします」と微笑んでくれた、あの時と全く同じ烈女の瞳であった。
一切の迷いなく、死すらも超越して己の愛と忠義を貫き通そうとする、あまりにも強すぎる光。
そして、その瞬間。
勝頼は悟った。
――もう、隠し切れぬかもしれん。
この女だけは、己がどれほど理で武装しようとも、その奥底に沈めた血塗れの後悔へ辿り着いてしまう。
このまま偽りを重ね続けても、いずれ自分は彼女に真実を伝えることになるだろう。でなければ彼女を孤独の中で死なせることとなり、救えたとは思えなくなるだろうから。
その未来だけは、どうしても耐えられなかった。
「黙れ。余計な詮索は、そなた自身の命を縮めるぞ」
もう一度だけ、壁を作るかのように勝頼は牙を剥く獣のように低く唸った。だが、夫人は全く逃げなかった。
勝頼の放つ、人を人とも思わぬ覇王の重圧に真っ向から晒されながらも、彼女は自ら進み出て、勝頼の胸元へと両手を伸ばした。そして、刀の柄を握るように強張っていた勝頼の大きな手を、自らの白く小さな両掌でそっと包み込んだのである。
「死など、少しも恐ろしくはございませぬ。武田の家に嫁いだと決まったその日から、私はこの身も魂も、殿と共にあると覚悟を決めております。ですから、どうか教えてくださいませ。貴方様が独りで抱え込み、血を流しておられるその絶望の正体を」
その瞬間であった。
勝頼の内でこれまで幾重にも張り巡らされていた鋼の理性が、致命的な音を立てて粉々に砕け散った。
彼女の掌から伝わる、確かな生者の温もり。それは、一度目の人生で、血と脂の臭いに塗れながら、自ら喉を突いた彼女の遺体から急速に失われていった、あの絶望的な冷たさとは対極にある、絶対的な救済の熱であった。
「……すまなかった」
勝頼の口から、自分でも驚くほどあっさりと、ひび割れた声が漏れ出た。
それは、天下を統べる冷徹な絶対者の声ではない。取り返しのつかない過ちを犯し、愛する者を地獄へ突き落としてしまった、一人の愚かで惨めな敗北者の慟哭であった。
「すまなかった。わしは、本当に愚かであったのだ。己の器を弁えず、織田の鉄砲の恐ろしさを侮り、忠義に厚い宿老たちを泥の中で死なせ、……そして、信勝を死なせ、何よりそなたを、あの燃え盛る天目山の山中で、自らの白い喉に刃を当てるまで追い込んでしまったのだ」
勝頼の深く昏い瞳から、堰を切ったように熱い涙が零れ落ち、夫人の手を濡らした。
「わしは天目山で腹を切った後、何故か遥か中原の広大な大陸へと飛ばされ、そこで天子となり、万民を理で統べる術を骨の髄まで学んだ。そして再びこの日ノ本に舞い戻った今、わしは過去の過ちをすべて消し去るだけの知恵と力を手に入れている。……だが、それでも、そなたと再びまみえ、そしてまたいつか失うかもしれないということが、正気を失うほどに恐ろしかったのだ」
勝頼は、震える両手で顔を覆った。
「そなたを愛せば、情に流され、またあの地獄の炎が蘇るやもしれん。だから、そなたを運命の連鎖から切り離し、ただの物言わぬ道具として扱うことで、遠ざけて守ろうとした。……わしは、そなたを二度も死なせるわけにはいかぬのだ」
夫人は、勝頼の口からあふれ出たあまりにも衝撃的な告白を、驚くほど静かに受け止めていた。
一度死んで大陸の皇帝になったという話が、常人の理解を超えた神仏の奇跡なのか、あるいは重責が生み出した狂気の幻影なのか、彼女にとってはその真偽などどうでもよい些末なことであった。
ただ確かなのは、目の前にいるこの強大で冷酷無比に見えた男が、自分という一人の女を死から守り抜くために、これほどの悲痛な孤独に耐え、己の心を殺して血を吐くような思いで国を根本から造り替えてきたという、圧倒的な真実である。その事実だけで、彼女の魂はこれ以上ないほどに満たされていた。
「……殿。やはり、貴方様は、この世の誰よりもお優しく、そして不器用なお方にございますな」
夫人は、涙にむせぶ勝頼の大きな頭を、自らの胸へと優しく抱き寄せた。
「その悲しき夢が真実であるならば、私は何と幸せ者にございましょう。最期の最期まで貴方様と運命を共にすることを選んだというその時の私を、私は誇りに思います。……そして、今この時、貴方様が私を救い、この国を救うために冷酷な鬼となるというのであれば、私は、その鬼の棲む地獄の底まで付き従い、共に天下を背負う力となりましょう」
勝頼は、夫人の柔らかな温もりと、その言葉の持つ底知れぬ強さの中で、己の魂を凍らせていた孤独の氷が、音を立てて溶け出していくのを感じていた。
理と法だけで縛り上げた世界に、たった一つだけ足りなかったもの。勝頼が求め、同時に恐れ続けていたすべての答えが、今、この細くしなやかな腕の中にあった。
覇道とは、どこまでも続く底なしの孤独である。しかし、その絶対的な孤独の重さを真に理解し、逃げることなく共に背負ってくれる者が隣にいるだけで、修羅の地獄は容易く盤石の楽土へと姿を変えるのだ。
「……夫人よ」
勝頼は、顔を上げ、彼女の背に腕を回して力強く抱きしめ返した。その瞳からはすでに迷いの涙は消え去り、かつてないほどに深く、澄み切った覇王の光が宿っていた。
「わしは、もう二度と迷わぬ。そなたのその覚悟と共に、わしはこの手で織田の革新をことごとく粉砕し、誰にも脅かされることのない真の帝国をこの日ノ本に築き上げて見せよう」
夜が明ける頃、躑躅ヶ崎館の奥殿からは、かつて宿老たちを震え上がらせたあの刺すような絶対零度の冷気は消え去り、代わりに静かで力強い情熱が満ち溢れていた。
武田勝頼と北条夫人。勝頼にとって一度目の残酷な死を経て、再び結ばれた二人の強固な絆となった。それは、理と法だけで造り上げられた冷たい国家の骨組みに血を通わせ、これからの武田を精神の底から統合する、最も強靭な礎となるのであった。




