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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第七話:天命宣戦

第七話:天命宣戦


 先程、黒漆の天板を打ち据えた衝撃が、今になって痺れとなって指先から肘へと這い上がってくる。勝頼はその微かな痛みを噛み殺し、呼吸を整えるために深く息を吸い込んだ。肺腑を満たすのは、間違いなく甲斐国特有の、底冷えのする湿った夜気である。広大な宮廷の奥深くでくゆっていた、あの白檀の柔らかな香りはもはやどこにもない。

 勝頼は文机に肘を突き、両の掌で顔を覆った。まぶたを閉じれば、今でも色鮮やかに脳裏へ蘇る。天下を統べる者として、為すべき業のすべてを成し遂げた瞬間の男が迎えた、あまりにもおだやかなあの瞬間のことだ。


 白妙の光に包まれた狭間の中で、彼は一人の男と向かい合った。

 その男は、紛れもなく亡き父・武田信玄の姿をしていた。しかし、それは病魔に蝕まれた晩年の痛ましい姿ではない。まさしく全盛期の、猛虎のごとき威光を全身から放つ、神々しいまでの幻影であった。あるいは、天の意志とやらが、勝頼の魂の底に刻み込まれたもっとも恐れ多き対象を選び出し、その姿を借りて現れただけだったのかもしれぬ。


『そなたの役目はとうに終わった。褒美として、行く末を選ばせてやろう』


 信玄の姿を借りた「何者か」は、腹の底を揺るがすような重みを帯びて問いかけてきた。その声は鼓膜を震わせるものではなく、魂の髄へと直接響き渡る名状しがたき響きであった。


『再び若き日の甲斐へと舞い戻り、あの天目山の無残なる定めを覆す道か。それとも、このまま帝として、そなた自身が築き上げた泰平の世で天寿を全うする道か。……どちらを望む』


 勝頼の心根に、ほんの一瞬だけさざ波が立った。一度目の生で身を焦がしたあの猛火の熱さ、忠義に散った者たちの骸、愛する妻の鮮血、そして愛しき我が子・信勝のすっかり冷え切った掌。彼らの無念を拭い去りたいという切なる願いは、数十星霜を経てもなお、決して抜けぬ棘として胸の奥底に突き刺さっていた。

 だが、その時の彼は、もはや一介の戦国武将ではなかった。中原の民草を背負い、途方もなく広大な大陸に揺るぎなき理法を敷いた「天子」となったのだ。


『……戻らぬ』


 和帝としての勝頼は、未練の糸を断ち切り、静かに、されど毅然たる態度で首を横に振った。


『わしには、この大地に根を下ろす民たちへの重責がある。共に死線を越え、わしの御代を支え抜いてくれた者たちを裏切る真似などできぬ。天目山の悪夢は、わしが胸に抱いたまま眠りにつけば済むことだ。わしは、このまま安らかな大往生を遂げる』


 その言を聞き、信玄の姿をした存在は、慈悲とも、あるいは冷酷な品定めともつかぬ微笑を浮かべたように見えた。勝頼は、こうして己が選び取った泰平の世の重みを抱き締めながら、数十年にわたる治世を終え、深い満足と共に意識を安らかな闇へと沈めていったのである。

 あの決断を以て、己の魂はようやく救済の岸辺へ辿り着いたのだと、そう固く信じて疑わなかった。


(であるのに、なぜだ。どうしてわしは再びこの場に引き戻されている)


 勝頼は顔を覆っていた両手を退け、怒りの炎を宿した双眸で座敷の暗がりを睨み据えた。

 己の意志は、はっきりと過去への帰還を拒んだはずのだ。たとえそれが悲劇を見捨てることになろうとも、今ある幸福を選び取ったはずであった。それにもかかわらず、長い時を経て、再び意識を強引にこの泥に塗れた時代、滅びの足音が近づく日へと引きずり戻した「天」の仕業。それはもはや慈悲などではなく、悪趣味極まりない魂への冒涜に他ならない。


(結局、天道にとっては、わしの生など、ただの便利な操り人形にすぎぬと言うのか)


 煮えたぎるような憤怒が、再び肚の底からせり上がってくる。

 もし、歴史という巨大な絵巻物に書き損じがあり、それを上書きするために、一度は涅槃へ至った魂を無理矢理引っ張り出してきたというのなら。あるいは、神仏が退屈しのぎに盤上の石をもてあそぶように、わしを勝手な思惑で選んだというのであれば。

 ……舐めるな。

 勝頼の胸中において、あれほど敬愛していたはずの父・信玄という絶対の権威すらも、今や憎むべき天の意志の象徴へと変貌しつつあった。己を縛りつけ、都合よく使い潰そうとするすべての理不尽。それらに対するすさまじい反発が、老練なる魂を赤黒い殺意で染め上げていく。


(わしを再びこの世に縛り付けたことを、天の神々に骨の髄まで後悔させてやる)


 勝頼は両の拳を固く握りしめた。若々しい皮膚の下で、骨の軋む音が鳴る。

 もし天が何かを命じているとしても、わしはその命じられた道理ごと粉砕し、己の望むがままにこの日ノ本を造り替えてやる。哀れみという名の押し付けを強いる天の理そのものを、わしの持ち得る知恵でことごとくねじ伏せてくれよう。

 神仏の操り糸に踊らされるのではない。この三度目の生は、わしがわし自身のために使い尽くしてやる。

 偉大なる父が築き上げた、荒々しき「武威の武田」などではない。はるか大陸の深き英知を以て、何人たりとも法網から逃れられぬ、微塵の隙もなき絶対なる法治の国。天命や神威すらも立ち入る余地のない、冷徹なる秩序。

 それを作り上げることこそが、わしを弄んだ数奇な運命に対する、何よりの復讐となるはずだ。


「……とくと見ておれ。二度と、貴様らの思い通りになどさせてたまるか」


 口を突いて出た宣誓の言葉は、行灯の微かな明かりを吸い込んで、深い闇の奥へと溶けていった。

 勝頼の双眸から、生身の人間らしい迷いは完全に拭い去られていた。そこに宿るのは、神仏の算段すらも届かぬ存在として覚醒した、純粋なる闘志のみであった。

 三度目の生における、真の宣戦布告。

 その刃を向ける先は、尾張の信長でも、三河の家康でもない。己の魂を理不尽に翻弄しようとする、「天命」そのものに対してであった。

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