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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第六話:人心鏡影

第六話:人心鏡影


 評定の間を辞し、自室の襖を固く閉ざした途端、それまで張り詰めていた見えざる鎧が、にわかに重い鉛となって勝頼の双肩にのしかかってきた。気が抜け、肺の奥に澱んでいた熱い呼気を、細く長く吐き出す。先程、廊下で真田昌幸と交わした、あの肌を刺すような知恵比べの熱は、独りになった途端に乾いた砂の如くこぼれ落ちて消え去った。あとに残ったのは、数百年もの歳月を突如一人で歩んできたかのような、底知れぬ疲弊であった。


 勝頼は、身を包む具足を一つずつ、忌まわしい枷を剥ぎ取るように脱ぎ捨てていく。小鉤を外す指先が、無骨な鉄の冷たさに触れた。鞣し革の擦れる鈍い音とともに、染み付いた血と獣脂の匂いが鼻腔を衝く。手にとる胴の重み。それは、自らの感覚では、つい先ほどまで帝として身に纏っていた、雲のごとく軽やかな極上の絹衣とは、似ても似つかぬ荒々しい手触りであった。


 煌びやかな宮廷を彩っていた沈香や伽羅の残り香などはどこにもない。ここにあるのは、血と汗、そして泥にまみれた殺伐たる戦の生々しい感触のみである。文机の前に腰を下ろせば、黒漆の天板が、行灯の揺らぐ灯火を吸い込み、暗い水面のような鏡となって妖しく光っていた。勝頼は、そこに映し出された己自身の顔つきを、穴のあくほど見つめ込んだ。


 暗い水鏡の中には、まだ顎髭も薄く、張り詰めた若さを持つ二十六歳の若武者がいる。二度にわたる生と死を通り抜け、数十年に及ぶ帝の治世を経て、文字通り幾多の民の命運を指先一つで動かしてきた男。そのような老成した魂を宿している器としては、あまりに若々しく、いまだ何者にも染まりきらぬ顔立ちに見えたのである。


(……何たるちぐはぐさか。中と外とが、これほどまでに掛け離れているとは)


 勝頼は、己の身の裡からあふれ出る瑞々しい命のたぎりに、かえって激しい目眩を覚えた。四肢の隅々まで満ちる血潮は、ひたすらに熱く、そして速く脈打っている。かつて、長き治世の果てに至ったあの枯淡の境地、一息つくごとに魂が肉体から解き放たれていくような、あのおだやかな衰えの気配など微塵も存在しない。指先を動かせば、心が意図するよりもわずかに早く、軽やかに肉体がついてくる。そのあまりに鋭敏な身のこなしが、数多の時を生きた老練な魂にとっては、手綱を失った若駒の暴走のようにすら感じられた。


 中原の宮廷で迎えた最期の時が、色鮮やかな景色として脳裏に甦る。そこは、己の手で築き上げた比類なき巨大な都の中心であった。御簾の外には、果てしなく続く平穏なる町並みが広がり、民草の健やかな笑い声が風に乗って届いていた。枕元には、軍師や勇猛なる将たちの血を継ぐ者らが、静かに涙を堪えて傅いていたのだ。


 信頼できる者たちに助けられ、数えきれぬほどの御業を歴史に刻み込み、天子としての生をあますところなく全うしたという、この上ない充足の思い。あの折、勝頼の魂は、おだやかな夕闇へと溶けゆくように、満ち足りた眠りへと就いたはずであった。あの死こそが、己の長き旅路における、もっとも美しくあるべき終着の地であったと思うのだ。


(であるというのに、なぜだ。なぜ、わしはこの血と泥に塗れた戦国に再び引きずり戻されたのだ)


 安らかな終焉を強引に引き剥がされたことへの、名状しがたきおぞましさが背筋を駆け抜ける。それは、神仏の哀れみなどでは断じてない。まるで、とうに読み終えたはずの巻物を乱暴に巻き戻され、再びあの凄惨なる戦の序章から生き直せと命じられたかのような、悪趣味極まりない業の仕業であった。真の平穏を知り尽くした魂にとって、この修羅の世への生還は、天からの恩寵などではなく、無間の責め苦に等しいものに思えた。


 黒漆の水鏡をじっと見据えるうち、勝頼の瞳の奥底に、また別の幻影が重なり始める。それは、一度目の生において、絶望の炎に巻かれながら己の喉笛を断ち切った、あの惨めな敗軍の将の眼差しであった。天目山の業火に焼かれ、守るべきものすべてを奪われ、無念のままに果てた男の顔。その血を吐くような怨讐と、天下を統べた帝としての誇りとが、二十六という若く狭い器の中で激しくせめぎ合い、火花を散らしている。


 持て余すほどの若き脈動が、老練なる魂の静寂をかき乱し、勝頼の胸の奥にどうしようもない吐き気を呼び起こす。鏡の中の若武者が、かすかに身震いしているように見えた。それは底知れぬ怖れからか、それとも抑えようのない怒りからか。勝頼は、漆塗りの天板を拳で強く打ち据えた。乾いた音が、静まり返った座敷の空気を鋭く貫く。


「……天の思惑通りになど、させてたまるものか。この三度目の生は、わしが、わし自身のことわりで染め上げてやる」


 水鏡の中の若武者と、天下を治めた帝の魂とが、今、刃のように鋭いひとつの決意をもって重なり合った。奪われた安らぎの代わりに、わしがここに打ち立ててみせるのは、いかなる外敵にも侵されぬ、磐石なる新たなる国だ。神仏がこの世の定めをもてあそび、再び歴史に準えようと言うのであれば、わしはその目論見ごと、強引に碁盤を叩き割ってやるまでだ。


 勝頼は、黒漆の天板を静かに撫で、己の歪んだ影を拭い去るように行灯の火を細く絞った。訪れた深い闇の中で、彼の両眸だけが、虚空を睨む古の龍のごとく、射抜くような光を放っていた。

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