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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第五話:真田昌幸

第五話:真田昌幸


 評定が散会を告げたあとの躑躅ヶ崎館の大広間には、重苦しい澱のような名残が立ち込めていた。

 退出していく宿老たちの背中はいずれも硬く強張っている。山県昌景は腹の虫が治まらぬ様子で、太刀の鞘尻を荒々しく鳴らして回廊へ消えた。馬場信春は深い嘆息を漏らし、まるで割り切れぬ難題を押しつけられた老僧のように首を左右に振っていた。


「若殿は、何やら物の怪にでも憑かれたらしい」

「三月で無血開城など、戦を知らぬ若造の寝言ではないか。御館様も、あのような空言を真に受けられるとは……」


 廊下の陰から、そんな冷ややかな囁きが風に乗って聞こえてくる。彼らにとって、勝頼の言葉は武田の伝統を汚す不吉な予兆にしか聞こえなかったのだ。無理もない。彼らが信じて疑わぬのは、鋭き槍の穂先であり、馬蹄の轟きであり、そして主従が血と泥にまみれて結びつく絆であった。始めから刃を交えずに城を落とすなどという考えは、彼らの頭の中には基本的に存在させたくないのである。


 武田勝頼は、その喧騒から遠ざかるように、独り静々と歩を運んでいた。

 板張りを踏む己の足音さえも、今の勝頼には、何故にここに戻ったのかの疑問を呼び起こされ、しかし、今、この時に出来ることは何かという問いに対する答えを弾き出すための確かな脈動として響いている。はるか中原の玉座で多くの命を預かってきた統治者としての意識は、既にこの局地戦の結末を見据えながら、どう碁盤に石を置くことが次の布石として生きるのかを考えていた。

 (……案ずるな、宿老たちよ。そなたらがわしの策を解する必要はないし、解すこともできないだろう。しかし、わしがそなたらを死地から遠ざけ、命を繋ぎさえすれば、道筋はそれで全うされるのだ)

 勝頼は、かつて中原の荒野でも戦場に散っていった多くの忠臣たちの顔を思い出していた。彼らを失った時の痛みは、自ら命を絶った天目山の痛恨とともに、身を切るような冷たい重責へと変貌を遂げた。今の勝頼にとって家臣とは、愛すべき家族であると同時に、天下を動かすための替えのきかぬ駒でもあった。


 その時、廊下の曲がり角で、一人の男が立ち止まっているのが見えた。

 真田昌幸。

 一度目の人生においても武田の若手家臣の中で、常に異質な光を放っていた男である。今も、他の宿老たちが困惑や侮りを露わにする中で、この男だけは、評定の間で放たれた勝頼の異形なる空気を、食い入るような目で見つめていた。

 勝頼がその横を通り過ぎようとした瞬間、昌幸が音もなく歩みを緩め、勝頼の歩調にピタリと合わせた。


「若殿。先ほどの軍議での御言葉、実に見事な大風呂敷にございましたな」


 昌幸の囁きには、嘲笑の響きはなかった。代わりにあるのは、獲物の血の匂いを嗅ぎつけた獣のごとき、底光りする好奇心だ。

「されど……あのような言葉、神頼みの虚勢で吐けるものではございませぬ。若殿の御眼には、城を預かる将の『欲』から、下っ端の雑兵が抱く『怯え』に至るまで、ことごとくを透かし見ているような……得体の知れぬ静けさが宿っておられました」


 勝頼は足を止め、昌幸を横目で見やった。

 二十代半ばの、まだ瑞々しさの残る横顔。だが、その瞳の奥には、のちに「表裏比興の者」と恐れられた底知れぬ智謀の片鱗が、どろりとした闇となって渦巻いている。

 勝頼の胸中に、かつての己の半身とも言うべき軍師・陳宮の面影が重なり合った。机の上で静かに墨を擦りながら、人の心の脆さを、まるで算術の如く解き明かしてみせたあの痩身の謀臣。昌幸が放つ空気は、単なる戦国の武士というよりは、はるか中原の地で覇王たちを陰から操った策士のそれに通じていた。


「昌幸よ。そなた、わしの言葉を神仏のたわごととは思わぬのか」

「滅相もございませぬ。まやかしにしては、あまりにも筋道が通りすぎている。……もし若殿が本気で三月と仰るなら、その裏には、我ら凡夫にはとうてい見えぬ恐ろしい絡繰りが、既に張り巡らされているのではないか。そう考えただけで、この昌幸、背筋が震える思いにございまする」


 昌幸は不敵に笑った。まだ具体的な策は何も動いていない。だが、この男だけは、勝頼が放った「三月」という区切りに、確固たる勝算があることを本能で嗅ぎ取っていたのだ。


「『利を見れば義を忘れ、死を恐れて義を捨てる』。昌幸、それこそが人の偽らざる本性だ。……三月あれば、城など落とすまでもない。内側から『崩れる』のを待つだけで良いのだ」


 勝頼が口にした大陸の故事の一節。その響きに、昌幸の背中を言いようのない戦慄が駆け抜けた。

 日の本の武家社会が重んじる名誉や義理という建前のさらに下、生き物としての根源的な行動の理を、冷徹に、そして確信を持って突きつける言葉。それは、これまで昌幸が己の中で密かに温めてきた陰の兵法を、より巨大で完成された一つの教えとして突きつけられた衝撃であった。


「……面白い。実にもって、面白いお方だ!」


 昌幸は歓喜に声を震わせ、深く、深く頭を垂れた。その動作は、形だけの主従の礼などではない。己の遥か頭上を行く底知れぬ叡智に対する、抗いがたい心服の始まりであった。

 去りゆく勝頼の背中に、昌幸は幻視していた。

 偉大なる父・信玄という猛虎の影すらも容易く飲み込んでしまうほどの、天を衝く巨大な龍の姿を。その龍は、荒々しい炎ではなく、万物を冷徹に縛り付ける氷のごとき法を纏っていた。

 勝頼によって、武田の荒々しき武の時代が終わりを告げ、冷徹なる英知がこの国を覆い尽くそうとする。その歴史の分水嶺における、勝頼の半身となるべき男がここに誕生したのである。


 勝頼は、自室へと続く回廊を一人歩きながら、自らの掌をじっと見つめた。

 これからの行動の手駒として、昌幸という、またとない者を身近に見出したことで、これから動かすべき盤面の支度が都合良く整った。

 明日から、為すべきことは山とある。流言飛語の毒を敵地に撒き散らし、兵糧と銭の流れを堰き止め、城壁の分厚さではなく人の心の「脆さ」を徹底的に突く裏工作を仕掛けねばならぬ。

 しかしそんな策略を練ると同時に、勝頼の胸の奥には、拭いきれぬ冷たい孤独が忍び寄っていた。

 救いたいと願う者たちには畏れられ、己の真意を理解する者とは天目山の真実を告げられぬままに、陰で結びつくほかない。かつて帝としての歩みの果てにあると知った孤独の極地が、ここで自分を包み込もうとしている。


 (しかし、それが滅びゆく武田を救う唯一の道であるならば――わしは、喜んで孤独な鬼となろう)


 勝頼は自室の襖を開け、静まり返った闇の中へと足を踏み入れた。

 三度目の人生、その底知れぬ因果との対峙が、今まさに始まろうとしていた。

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