第四話:三月神託
第四話:三月神託
評定の間に満ちた沈黙は、もはや単なる静寂ではなかった。それは、身じろぎ一つせぬ武田勝頼の全身から放たれる、肌を圧するような息苦しい威圧感であった。
先刻まで遠江の城攻めを巡り、猛虎のごとく吠え猛っていた山県昌景も、老練な策を講じていた馬場信春も、その場に縫い止められたように口を閉ざしている。彼らの視線は、静かに立ち上がり、見下ろしてくる若き世子の姿に釘付けとなっていた。
「父上。その城を攻めるのは、無駄にございます」
勝頼の第一声は、凛として、しかし情念の火を一切感じさせない、冷え切った響きであった。
広間が、空気をすっかり吸い取られたかのような空白を経て、にわかに激しく波打った。かつての勝頼であれば、居並ぶ宿老たちの軍議を真っ向から否定することなどありえなかった。常に先陣を競い、偉大な父・信玄の期待に応えようと、誰よりも熱くがむしゃらに槍を振るってきたはずの男が、今、武田の軍略を冷徹に「無駄だ」と断じたのである。
「……何だと」
山県昌景が、地の底から這い上がるような声を漏らした。その小柄な体躯が武人としての矜持と怒りで震え、拳が畳を強く叩く。先刻感じた得体の知れぬ恐怖を、歴戦の将としての意地で強引にねじ伏せたのだ。
「若殿! 今、何と仰いましたか! 武田の赤備えが先陣を切り、敵の胆を完全にひしゃげさせれば、城など半日も保たぬと言っておるのです! それを無駄とは……。まさか、戦を前にして、怖気づかれたのではあるまいな!」
昌景の激昂は、戦国武士としての正当な反発であった。彼らにとって、戦とは命を懸けた最大の自己証明であり、城を力でねじ伏せることこそが「武」の極致に他ならない。
だが、勝頼は昌景の鋭い視線を真正面から平然と受け止めた。その瞳にあるのは、かつての若武者が持っていた功名への焦りや宿老への対抗心ではない。数万の軍勢を盤上の駒として動かしてきた皇帝の、万物を凍てつかせるような「理」だけであった。
「昌景。そなたの武勇は認めよう。だが、そなたが語っているのは『戦』ではなく、ただの『命の浪費』だ。城壁を砕き、門をこじ開けるために、我が精鋭の血をどれほど流すつもりか。その先に待つのが勝利だとしても、それはあまりに稚拙で、割に合わぬ無益な戯れにすぎぬ」
勝頼は言葉を切り、上座に座す信玄を真っ直ぐに見据えた。
「武を以て城を砕くは下策。理を以て敵の意志を砕くことこそが上策にございます。中原の古き兵法にもありましょう。『戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり』と」
中原――ただ孫子の言を引き合いに出したに過ぎないはずが、その言葉の響きに込められた実体を伴う異様な説得力に、信玄の眉が微かに動いた。書物の知識をなぞる若者の空虚な声ではない。はるか広大な大陸の風を、実際にその肌で感じてきた者の途方もない重みがあった。
勝頼の脳裏には、大陸の皇帝として歩んだ数十年の治世が、鮮明な景色として流れている。
軍師・陳宮が卓上で冷徹に組み上げた、敵の領地を窒息させ、内側から腐らせる兵站術。一滴の血も流さず、ただ糧食の供給と人の往来を断ち切るだけで、数万の敵を飢えた獣に変えて降伏させた、あの凄惨なる理法。
目の前で熱を帯びて語るこの島国の武士たちは、勝頼の目にはあまりに「情」で戦いすぎているように映った。
「三月待てば、その城は戦わずして我らのものになりましょう。そして、その先の遠江一帯までもが、武田の下に平伏します」
勝頼が下した神託のような予言に、評定の間は再び凍りついた。
三月待てば、無血で落ちる。それは、武の誉れを重んじるこれまでの武田の常識では、到底受け入れがたい妄言に等しかった。
「若殿、寝言も休み休みに言われよ!」
内藤昌豊が、冷ややかな声を上げて遮った。
「徳川の守将は頑強で知られる男。降伏など、万に一つもございますまい。三月も時をかければ、織田の援軍が押し寄せ、我らは背後を突かれることになりましょうぞ」
勝頼は昌豊の危惧に対し、微かに口の端を上げてみせた。
「昌豊。援軍が来るのは、そこに救う価値がある時だけだ。信長は理で動く男。もし、その城が内側から腐り落ち、救うための労力が実利を上回れば、奴は平然と家康を見捨てよう。わしは、城内の『心』を買い取る手立てがあると判断しておるのだ。……父上、三月の刻限、この勝頼にお預けくだされば、一兵も損なうことなく結果をお見せいたしましょう」
その声には、一切の揺らぎがなかった。虚勢でもなければ、若さゆえの過信でもない。すでに結末を見透かした者の響きであった。
信玄は、黙したまま息子を見つめ返していた。その瞳の奥で、猛虎の探るような光と、龍の静寂が激しく交錯する。
信玄の直感は激しく警鐘を鳴らしていた。目の前にいるのは、確かに自らの血を分けた息子だ。だが、その魂が背負っているのは、自分が一生をかけて築き上げた武田の威信など軽く呑み込んでしまう、壮大なる「文明」の気配であった。
(四郎よ……。どうしたというのだ。そなたは、一体どこの高みから、この天下の行方を見下ろしておるのだ)
信玄の喉元まで出かかった問いは、勝頼が放つ揺るぎない静寂によって、今一度、意識の底へと押し戻された。
信玄は、ゆっくりと手にしていた軍配を膝に置いた。
「……よかろう。三月だ。勝頼、そなたの言う方法で、その城を落としてみせよ。三月経って結果が出ねば、そなたの首、諏訪明神に捧げる覚悟で臨むがよい」
「御意」
勝頼は短く答え、静かに腰を下ろした。
その一連の動作に漂う、微塵の隙もない堂々たる貫禄。もはや誰も、彼を経験不足の若輩と侮ることはできなかった。
家中がその発言に対する不信と嘲笑、そして拭いきれぬ不安に揺れる中、勝頼は、すでに三月後の勝利を「覆らぬ定石」として処理し終えていた。
かつて天目山で無惨に滅び、中原で皇帝となった男。
その三度目の人生における、歴史の上書き。その最初の一手が、今、誰にも真意を理解されぬまま、確かな響きをもって盤上に打ち下ろされたのである。




