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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第三話:龍眼開眼

第三話:龍眼開眼


 評定の間は、すでに一針が畳に落ちる音さえ響き渡りそうなほどの、絶海のごとき静寂に呑み込まれていた。

 先刻まで遠江の攻略方針を巡り、青筋を立てて火花を散らしていた重臣たちは皆、自らの舌が石に変わったかのように硬直している。彼らの視線が逃れようもなく吸い寄せられている先には、末席からゆっくりと、だが確かな重みを伴って身を起こした武田四郎勝頼の、底知れぬ変貌があった。


 勝頼はただ、腰を浮かせ、静かに背筋を伸ばしたに過ぎない。

 しかしその何気ない挙動一つに宿る「重圧」が、青年が発する荒削りな闘気の次元を完全に逸脱していた。それは数多の英雄豪傑を玉座の下に平伏させ、広大な中原に生きる数千万の民の命運を指先一つで動かしてきた「皇帝」特有の、揺るぎない静謐である。

 格子の隙間から差し込む陽光が、宙を舞う微小な塵を白く浮かび上がらせている。その光の粒子すらも、勝頼の周囲だけはピタリと動きを止め、空間そのものが凍りついているのではないかという錯覚を、歴戦の将たちに抱かせた。


(……何だ、これは。この若殿から立ち昇る気配は、一体何だというのだ)

 山県昌景は、気づけば己の腰にある太刀の柄を、白むほど強く握りしめていた。修羅の如き死線を幾度も越えてきた彼の武人としての嗅覚が、目の前の若者を「理解の及ばない未知の強者」として強烈に警告を発していたのである。

 それは単なる手合わせの勝敗を危惧するような、浅薄な恐怖ではない。足元の深淵を不用意に覗き込んだ際、暗闇の底から正体不明の巨大な眼にじっと見つめ返されているような、生命の根源に突き刺さる「格の圧倒的な差異」であった。昌景の強張った額を、一筋の冷たい汗が滑り落ちる。今までおそらく次期当主になるであろう若者に向けていた若さゆえの侮りや危うさへの懸念は、勝頼の瞳に宿る万物を凍らせるような光の前に、もはや微塵も残っていなかった。


 その傍らで、馬場信春は勝頼の「所作」そのものに戦慄を覚えていた。

 立ち上がる際に膝へ添える手の角度、重心の移動、周囲へ配る視線の運び。そのすべてが、日の本の武家社会が長年培ってきた作法や様式を遥か高みから見下ろすような、極限まで無駄を削ぎ落とした「洗練という名の暴力」を帯びていたのだ。

(これまで私が見知っていた若殿と、中身がそっくり入れ替わったとしか思えぬ。これほどにまで完成された威風……一朝一夕の狂気などで身につくものではない。もしや、人ならざる妖かしの類か)

 信春の明晰な頭脳が、目の前の異常事態に対して腑に落ちる道理を求めて激しく彷徨う。しかし、勝頼から放たれる気配には、人知を超えた妖気めいた不気味さは一切ない。ただひたすらに理路整然と構築された、一個の巨大な「ことわり」の重厚さだけがそこにあった。


 広間の最奥。上座に座す武田信玄は、沈黙という名の威圧をまとった息子を、微動だにせず見つめ返していた。

 己の肉体を蝕む病魔を自覚し、静かに死の足音を聞き取っている甲斐の虎は、眼前の「龍」が放ち始めた真の輝きを、誰よりも正確に測り取っていた。

 信玄は知己の底で理解している。人の上に立ち、群れを率いる者には二つの道が存在することを。一つは、己の並外れた威光と武力で荒ぶる者たちを強引に牽引する「覇者」の道。もう一つは、強固な秩序を敷き、緻密な法制によって万象を管理する「君主」の道である。

 信玄自身の歩みは、間違いなく前者であった。しかし今、勝頼の全身から立ち昇っているのは、その両極を内包した上で、さらに高い階梯で統合を果たした「帝王」の完成形ではないのか。


(四郎……。そなた、いつの間にそこまでの高みへ至ったのだ)

 信玄の猛禽のような眼差しが、勝頼の瞳の奥にある深淵を射抜こうと試みる。

 かつては偉大すぎる父の影に怯え、なんとか認められようと焦燥を抱えていた息子の姿は、そこにはない。今の勝頼の眼差しには、先達への敬意こそあれど、父に縋りつくような甘えや、己を認めさせようとする執着は一寸たりとも存在していなかった。むしろ、間もなく世を去る老いた父から、武田の未来という重荷を奪い取ろうとする、非情なまでの救済の意志が静かに燃えていた。


 勝頼は、父の探るような視線を正面から平然と受け止めた。

 彼の脳裏には、中原を統べる和帝として歩んだ、長きにわたる数十年の記憶が、色鮮やかな景色として奔流のように流れている。

 呂布の軍勢が戦場を無慈悲に蹂躙した際に舞い上がった、あの血生臭い土煙。軍師・陳宮が卓上で冷徹に国家の兵站を組み上げた際に漂っていた、静かな墨の匂い。その一つひとつが、今の勝頼を形作る確固たる血潮であり、骨格であった。

 この極東の島国で、ちっぽけな領土の削り合いに命を懸けている目の前の武将たちが、いかに愛おしく、そして同時にいかに未熟であるか。勝頼の内なる理の秤は、彼らを有能な手駒として再定義し、無駄死にさせずに圧倒的な勝利を収めるための緻密な布石を、すでに弾き出しはじめていた。


(父上。あなたが築き上げたこの武田という家を、私が一度完全にに解体し、外敵が二度と手出しできぬ強大な国へと造り替えてみせましょう)


 勝頼がゆっくりと口を開こうとしたその瞬間、広間の空気が肌をびりびりと震わせるほどの重みを増したことを、居並ぶ将たちは皮膚の粟立ちとともに悟った。

 これから彼らが耳にするのは、経験の浅い若き世子の迷いがちな意見などではない。何か途方もない知見を以て武田の伝統を完全に塗り替えようとする、若き後継者の冷徹な宣戦布告である。


 信玄は、その異常な気配の膨張を察知しながらも、あえて先刻の問いを重ねた。

「勝頼。そなた、何か思うところがあるなら申せと言ったはずだ。このわしの前で、沈黙は答えにはならぬぞ」

 声の調子こそ穏やかであったが、その底には、息子の底知れぬ化けの皮を無理矢理にでも剥ぎ取ろうとする、猛虎の鋭い牙が隠されていた。


 父の言動に対し、勝頼はわずかに口の端を上げた。

 それは決して父を軽んじるような不遜な笑みではなく、盤上のすべての駒を完全に掌握し終えた者だけが見せる、絶対的な確信の証であった。

 そして、勝頼の喉の奥から静かに紡ぎ出された第一声。

 それは、評定の間に居並ぶすべての男たちの常識と戦の定石を、根底から破壊する致命的な一撃となった。

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