第ニ話:帝国視座
第ニ話:帝国視座
勝頼の瞳に宿った深淵なる昏みは、熱気に満ちた評定の間において、異質なほどに冷え切った凪の空間を形成しつつあった。
かつての勝頼であれば、居並ぶ猛将たちが発する軍議の熱を吸い込むだけで、己の血もまた激しく沸き立っていたはずだ。しかし今の彼を包んでいるのは、皮膚を粟立たせるような、あまりにも透徹した観察眼であった。
遠江の城一つを巡り、甲斐の誇る重臣たちが顔を赤くして策を戦わせている。その情景は、記憶の底に焼き付いた天目山の焦熱よりも鮮明な現実でありながら、勝頼にはどこか遠い異国の夢幻でも眺めているような奇妙な解離感を伴っていた。
「――力攻めこそ武田の真骨頂! 我が赤備えに命じていただければ、半日も待たずして城門をこじ開けてみせましょうぞ!」
耳を劈くような咆哮。山県昌景が、その小柄な体躯からは想像もつかぬ大音声で具体的な戦術を叫んだ。
昌景の瞳は、一点の曇りもない武人特有の純粋な闘志に燃え盛っている。かつて武田の象徴として他国から恐れられた「赤備え」を率いるこの男は、正面からの突撃こそが敵の胆を完全にひしゃげさせ、最短で勝利を掴み取る唯一の絶対解であると信じて疑わない。
勝頼は、その熱量を静かな瞬きとともに受け止め、内面でひそかに嘆息した。
その勇猛さは、個人の武としては至高だ。しかし、勝頼の脳裏には、かつて中原の荒野で鮮烈な軌跡を残した「最強」の残像がまざまざと甦っていた。
嘶く赤兎馬に跨がり、方天画戟を風車のごとく振るって数多の兵を塵芥のように散らした鬼神――呂布。個の武勇において天下無双を誇り、誰もがその姿に震え上がったあの男でさえも、一歩引いて俯瞰すれば、組織という名の巨大な歯車に絡め取られ、無残に磨り潰されて消え去った。
昌景が誇りとともに説く強襲戦法は、万の兵が機械のように連動し、一糸乱れぬ壁となって広大な平原を進撃する大陸の戦列を見知った皇帝の目からすれば、統制の限界点を超えた危うい暴走の延長線上に過ぎない。英雄個人の技量に依存する軍は、その英雄が倒れた瞬間に瓦解する。勝頼は和帝としての治世において、そのような脆い軍隊を幾度も盤上から盤外へと弾き出してきたのだ。
「山県殿、逸るなと言っておる。城攻めは兵の損耗がことのほか激しい。ここは兵糧攻めに持ち込み、敵が内から疲弊したところを確実に叩くのが上策かと」
昌景の火のような勢いを制するように、馬場信春が冷水を注ぐような重みのある声を響かせた。
老練な信春は兵の命を慈しみ、長期的な視点を持って戦を運用しようとしている。かつての若き勝頼であれば、これこそが智将の深謀であると感嘆し、己の未熟を恥じていただろう。
だが、今の彼の中には、幾多の生殺与奪を数式のように冷徹に処理してきた統治者の演算機が備わっている。局地的な兵糧攻めなど、広大な中原を制覇した知恵からすれば、あまりに視野が狭かった。
勝頼の記憶の底から、かつての軍師・陳宮の鋭い眼光が甦る。彼が大陸の地図上に縦横無尽に走らせた補給線は、単なる食糧輸送の道ではなかった。数ヶ月の包囲といった目先の戦術ではなく、数年、数十年先まで国力を維持し、敵国そのものを経済の血液から腐らせていく――すなわち「国家」という巨大な装置を利用した構造的な解体作業である。
目の前の宿老たちが命を賭して語る「武勲」や「一番乗り」といった輝かしい言葉の数々は、天下の理を敷くための壮大な方程式を組み立てる上では、耳障りな雑音でしかなかった。
彼らは一つの城をいかにして獲るか、その過程の流血を論じている。対して勝頼は、城を獲った後にどのような法を敷き、次なる秩序へと繋ぐ礎石とするかをすでに幾手も先まで計算し終えているのだ。
この無知なる戦国の地に、自らの智謀と理をいかにして接木するか。
もはや隠しきれなくなった勝頼の覇気が、物理的な重圧を伴って完全に評定の間に浸透していた。二十六歳という瑞々しい肉体を纏いながらも、その奥底から放たれるのは、無数の詔勅を書き上げ、一国の運命を筆先に込めてきた絶対者の洗練された威圧感である。
にわかに、広間の空気が変質した。
白熱していた議論の声が、見えない重力に逆らえなくなったかのように少しずつ小さくなり、重臣たちが一人、また一人と不自然な沈黙の中に沈んでいく。武を誇る彼らの本能が、最前列の末席で黙り込む若き世子の異様さを、正体不明の畏怖として察知したのだ。
昌景が言葉を切って訝しげに眉をひそめ、信春が探るような、それでいて底知れぬ恐怖を孕んだ視線を向ける。その背後では、若き真田昌幸だけが、勝頼の横顔にこれまで見たこともない異質な知性の輝きを見出し、ごくりと唾を飲み込んでいた。
その張り詰めた沈黙の中央で、上座に座す男――武田信玄が、ゆっくりと目を見開いた。
病に侵され、すでにその肉体は死の影を帯びつつあるというのに、なお猛虎のような峻厳な覇気を放つ、偉大なる父。その信玄の鋭い眼光が、息子の瞳の奥に広がる深淵を射抜こうと光った。
信玄の直感が告げていた。目の前に座る「四郎」は、確かに我が子である。だが、その魂の器を満たしているものは、自分の知る武田の若武者だけでなく、何か、遥か古の龍が若者の皮を被って再臨したかのような、測りがたい巨大な何者かが共存しているのだ。
(四郎……。そなた、一体何を見ておるのだ)
信玄の喉元まで出かかった問いは、勝頼が放つ冷厳なる静寂の重圧によって、一度、意識の底へと押し戻された。しかし、甲斐の虎もまた、ただ押し黙るような男ではない。重苦しい空気を切り裂くように、万雷のごとき響きをもって口を開いた。
「勝頼。そなた、先ほどから一言も発さぬが、何か思うところがあるか。申してみよ」
信玄の言葉を合図に、全家臣の視線が、雷鳴に打たれたように勝頼へと一斉に集中した。
古参の将たちの目には、この若造が何を語るかという侮りや好奇、そして先ほど感じた正体不明の威圧感への警戒が入り混じっている。
勝頼は、そんな百戦錬磨の将たちの視線をそよ風のように受け流し、ゆっくりと立ち上がった。
その動作一つをとっても、もはや日本の武士の無骨なそれではない。一国の主としての威厳すら軽く凌駕する重厚さが宿っていた。
中世の野卑な武が支配するこの場所に、今、大陸の叡智を背負った一人の覇王が、その声を響かせようとしていた。




