第一話:滅亡回帰
第一話:滅亡回帰
鼻を突くのは、杉の生木が焼ける特有の、脂臭い煙であった。
視界の端々では、かつて武田の栄華を支えた赤備えの具足が、無残に泥と血にまみれて転がっている。甲斐の名門、武田家が終焉を迎える地、天目山。この山中に追い詰められた武田四郎勝頼の胸中にあったのは、もはや当主としての矜持ですらなく、ただ守りきれなかった者たちへの、焼火を呑み込むような痛恨であった。
「……殿。最期まで、お供いたします」
傍らで静かに微笑むのは、正室・北条夫人であった。絶望の淵にあってなお、彼女の瞳は一点の曇りもなく勝頼を見つめ、自ら喉元に刃を当てた。その白き肌に鮮血が散った瞬間、勝頼の視界は真っ赤に染まった。隣では、息子の信勝が、震える手で父の衣を掴んでいたが、その掌も、みるみるうちに冷たくなっていく。
守りたかった。ただ、それだけを願って、この人生を必死に駆け抜けた。だが、結果は惨めな敗北であった。織田の鉄砲と徳川の執念の前に、わが魂とも言うべき武田の騎馬は粉砕された。かつての栄光は設楽原の泥濘に沈み、いまや己の手元に残ったのは、愛する者たちの骸と、冷たい鋼の感触だけであった。
勝頼は重い瞼をゆっくりと閉じ、自らも刃を喉元に当てた。
力を込める。鋭い痛みが走り、熱い衝撃が全身を駆け抜けた。
(……ああ、終わるのだな。源氏の嫡流として、父上が遺した大樹を、わが代で枯らしてしまった。取り返しのつかぬ大過を背負ったまま)
意識は、底知れぬ深い闇へと墜ちていった。
だが、その闇は永劫ではなかった。
ふと気づけば、勝頼の魂は、別の時と地に放り出されていた。広大な大陸、中原の動乱。そこで再び生を受けた彼は、武田勝頼としての記憶を抱えたまま、呂布という名の鬼神に仕え、やがて軍師・陳公台という知己を得た。屈辱の泥を舐め、数多の英雄や奸雄と刃を交え、ついには巨大な帝国の玉座へと上り詰めた。
和帝としての統治。幾万の民を安んじ、大陸に理という名の秩序を敷き、彼は一人の皇帝として、数十年の治世を全うした。白昼夢のような、長き、長き第二の生。その穏やかな死の際、勝頼の意識は再び、あの闇に包まれた。
「……若殿。若殿、いかがなされましたか」
唐突に、騒がしい声が鼓膜を叩いた。
死んだはずだ。天目山の炎はどこへ消えた。夫人の流した血の匂いはどうなった。勝頼がゆっくりと目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。鼻を突くのは天目山の焦げ臭さではない。使い古された畳と、鎧の革が擦れる脂臭い匂い。そして、評定の間に満ちる、男たちの野卑な熱気であった。
視界が明瞭になるにつれ、勝頼の心臓は、これまでにない激しさで脈打ち始めた。
(……ここは、どこだ。まさか、躑躅ヶ崎館か)
漆塗りの重厚な柱。床の間に掲げられた「風林火山」の旗印。
そして、上座に座す、あの男。病に侵されつつも、なお猛虎のような峻厳な覇気を放つ父、武田信玄がそこにいた。その隣に座る自分は、まだ二十代半ばの若者。武田四郎勝頼であった。
(戻った、というのか。あの、忌まわしい滅びの始まりの日に)
勝頼は、自分の掌をじっと見つめた。数千万の生殺与奪を司り、数多の詔勅を認めてきた、節くれだった老皇帝の手ではない。戦場を知り始めたばかりの、瑞々しくも、どこか頼りなげな武者の手だ。
周囲の議論は、白熱していた。山県昌景が小柄な体躯を乗り出し、大音声で力攻めを主張している。馬場信春は静かに、しかし重みのある言葉で兵糧攻めを説いている。
かつての勝頼であれば、この二人の巨星の意見に圧倒され、ただどちらの武が優れているかを判断することに必死であっただろう。だが、今の彼の中にある魂は、二十六歳の若造のものではなかった。大陸の頂から万象を見下ろし、幾万の運命を理法によって統治してきた皇帝の魂である。勝頼はその喧騒を、まるで遠い異国の児戯でも眺めるかのような、透徹した虚無を瞳に宿して見守っていた。
(昌景、お前の武は美しいが、あまりに脆い。戦場を個人の舞台と履き違えている。信春、そなたの知略はこの島国では最高峰だろうが、兵站を単なる持久戦の道具と考えている時点で、既に計算が足りぬ。……かつての知己・陳宮が広大な大陸に走らせた補給線の緻密さ、敵国そのものを経済の血液から腐らせていく不変の仕組み。そなたらの語る武勲や功名といった言葉は、わが理を乱す障りに過ぎぬ)
彼らは一つの城を獲るためにどれほどの血が流れるかを論じている。対して勝頼は、その城を獲った後にいかにして新たな理法を敷き、次なる千年の秩序を構築するか、その統治の数理を反射的に計算していた。
今の自分には、この状況が完全には飲み込めていない。なぜ戻されたのかという困惑が、肉体の奥で渦巻いている。だが、目の前で繰り広げられている「武」の議論が、かつての自分を滅ぼした「無知」の連鎖であることだけは、皮膚感覚で理解できた。
勝頼は無言のまま、末席に近い己の席で、静かに背筋を伸ばした。
二十六歳の肉体。だが、指一本を動かす作法さえも、もはや日本の武士のものではない。大陸の玉座で数多の詔勅を認め、一国の運命を墨跡に込めてきた皇帝の、洗練された重厚さが自然と滲み出していた。
彼から放たれる気配が、物理的な重圧を伴って広間に浸透し始める。周囲の塵が舞うことさえも、その「格の格差」の前に静止したかのような錯覚を、居並ぶ将たちは抱いた。
(信勝、わが子よ。お前を二度とあの炎の中には置かぬ。山県、馬場。お前たちの武が、無価値な時代へと変わり果てる前に、わしが新たな道を敷いてやろう。一度目の人生でわしを滅ぼしたすべての無知は、二度目の人生でわしを救い上げたすべての英知で上書きしてやる)
勝頼の瞳の奥に、深い、底知れぬ静寂が宿り始めた。それは若者が持つ燃えるような炎ではなく、すべてを見通し、管理しようとする、歴史の重みを宿した深淵の如き昏みであった。




