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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第六十二話:亡霊利用

第六十二話:亡霊利用


 甲斐の山々に、静かに春が巡ってきていた。

 武田信玄が身罷ってから、およそ一年。躑躅ヶ崎館の深奥、重厚な沈黙が支配する一室で、陣代たる武田四郎勝頼は独り、行灯の微かな光の下で膨大な木簡と書状の束に向き合っていた。


 表向き、武田の棟梁である信玄は三方ヶ原の激戦の疲れを癒やすために奥座敷に隠れ、その下知はすべて勝頼が「父の意思」として家中に伝えてきた。この一年、領内の検地のやり直し、重さと純度を揃えた武田金の発行、農繁期に関わらず兵を動かす常備軍の編成、そして外部に対する情報の徹底した封鎖。これら極めて高度な統治の手法は、信玄という巨大な権威の影に守られながら、劇的な成果を上げ始めていた。


「……実に見事なものだな、父上」

 勝頼は筆を置き、凝り固まった肩をゆっくりと回した。

 かつて一度目の人生での自分は、父の死を他国や家臣たちに隠しきれず、結果として家臣たちの不信を買い、武田という家は内側から音を立てて瓦解していった。だが、今の勝頼は、信玄の残した「三年の秘匿」という遺命を、単なる弱気な隠蔽や時間稼ぎとは捉えていない。それは、情と武力で繋がれた古き武田を解体し、血も涙もない法で縛られた新しき国を産み落とすための、絶対に欠かすことのできない「卵の殻」であった。


 山県昌景や馬場信春といった宿老たちは、勝頼の冷徹な理の政治に未だに強い違和感を抱いている。だが、あくまで「病床の主君の命」という建前を他国に信じ込ませるため、彼らは自らの武士としての美学を必死に押し殺し、己の忠義ゆえに実務に励んでいるのだ。彼らが武田を守ろうと真面目に働けば働くほど、その行動と繁栄の成果が、さらに「信玄は生きている」という幻影を真実味のあるものへと塗り替えていく。

 嘘が真実を強固に支え、真実が嘘をさらに盤石なものにする。この巧妙な矛盾の循環によって、現在の武田は日ノ本でも有数の安定した組織へと変貌を遂げていた。


 背後の襖が音もなく開き、真田源太左衛門尉昌幸が姿を現した。彼の暗い瞳には、この一年で勝頼と共に「新たな国づくり」を古き武田の土台から書き換えてきたことへの、知的な愉悦が深く沈んでいる。


「勝頼様。本日の国人衆らの拝謁の儀も、滞りなく終わりました。誰もが、御簾の奥から漂う濃密な香の匂いと、時折漏れる影武者の咳払いに、一片の疑いも抱いてはおりませぬ」

「昌幸。彼らが誰一人として疑わぬのは、影武者の貌や仕草が父上に似ているからではない。新たに敷いた法によって、彼らに確かな利と安定を与え続けているからだ。以前にも言ったが、自らがその体制から恩恵を受けているならば、その根源にある多少の不自然さなど、あえて見ようとはせぬものよ」


 勝頼は、机上に積まれた一枚の分厚い和紙を指先でなぞった。それは、信玄が定めた武田の国法「甲州法度之次第」を、勝頼が密かに加筆・修正した新たな掟書の草案であった。

「この一年、わしは諸役の免除を餌にして各所の商人や職人を甲府へと呼び集め、座の特権を廃して物の巡りを良くした。そして年貢を米ではなく、新たに鋳造した金貨で納めることを良しとした。国人衆にとっても、重い米俵を運ぶより、金で納めた方がはるかに荷が軽く、盗賊に狙われる手間も減る。彼らは今、己の知らぬ間に『土地の束縛』から切り離され、わしの握る『銭の理』の鎖に喜んで繋がれているのだ」


 これこそが、勝頼がはるか大陸の統治で学んだ帝王学の真髄であった。力で土地を奪い取るのではなく、経済の仕組みを塗り替えることで、領主や国人衆を武田の銭なしには生きていけない体へと造り替える。彼らがその豊かさに溺れた時、すでに武田の支配は決して覆らぬものとなるのである。


「見事な絡繰りにございます」

 昌幸は、勝頼の横顔に宿る、この一年で一段と深まった底知れぬ覇気に思わず息を呑んだ。

「……残り二年の間に、勝頼様はさらなる変革を断行されるおつもりですか」

「左様だ。信玄という個人の大将の威光に縋る武田を終わらせ、武田という法と機構そのものを完成させる。極論を言えば、わしがいなくとも、一分の狂いもなく国が回るようにする。それがわしの望む真の国だ。昌幸、そのためには、これまでの宿老たちが顔を揃える軍議の場とは別に、わしの理を正確に理解し、実務のみを専門に担う者たちを束ねる新たな役所が必要になるだろう」


 勝頼の冷徹な頭脳には、家柄やこれまでの武功、血筋といったものを一切無視し、ただ算術と法を共有できる跡部勝資のような若手精鋭たちによる、全く新しい統治中枢の構想が明確に描き出されていた。


「……承知いたしました。では、亡き御館様の名は、勝頼様が望む国が完全に孵化するその日まで、とことん使い倒してご覧に入れまする。織田の忍びや間者への流言飛語も、さらに巧妙に張り巡らせておきましょう」

 昌幸は深く平伏した。彼は、勝頼が父の死を慈悲なき戦略の道具として冷酷に扱いながらも、その実、誰よりも信玄の残した時間を大切に、そして最も深い敬意を持って運用していることに、震えるような心服を覚えていた。


 深夜。

 勝頼は昌幸だけを伴い、躑躅ヶ崎館の裏手に位置する、人目を忍んだ小さな木立の中の祠を訪れた。

 そこには、一年前に家臣の目を盗んで密かに荼毘に付された信玄の真の遺骨が、誰の参拝も受けることなく静かに眠っている。

 勝頼は、冷たい夜露に濡れた父の墓標の前に立ち、腰の太刀の柄を確かな力で握りしめた。


(父上。……わしは、この三度目の人生を、血の通った一人の人間としてではなく、この国を回すための冷徹な機能としてのみ生きることに決めております。個人の情を捨て、冷たい理だけを信じる……。それこそが、わしが辿り着いた、この武田を一度目の生のような無残な滅亡から守り、いずれ家督を継ぐ我が子、信勝を確実に救うための、最も確実な道であります)


 勝頼の深く昏い瞳には、かつて一度目の人生で天目山の炎に向かった際の、あの惨めな絶望と湿った涙は微塵もなかった。そこにあるのは、自らの身を削って国の動力とし、愛する者たちを歴史の理不尽な暴力から守り続けるという、孤独な絶対者としての揺るぎない決意だけであった。

 遺言の三年まで、まだ二年の猶予を残している。だが、勝頼の中では既に、武田信玄という巨大な過去の影は、新しき文明の国を産み落とすための役割を、十二分に完遂しようとしていた。


 夜明け前の刺すような冷気が、躑躅ヶ崎館の黒い石垣をうっすらと白く照らし始める。

 これよりは、勝頼自らが絶対の法の化身として政務を司る、より苛烈で合理的な時代の幕が、静かに、しかし確実に開けようとしていた。

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