第六十一話:魔王焦燥
第六十一話:魔王焦燥
甲斐の山々に囲まれた躑躅ヶ崎館は、今や日ノ本のどこよりも静かで、そしてどこよりも苛烈な国の造り替えが進行する巨大な溶炉と化していた。
三方ヶ原での歴史的な大勝から月日が流れたが、武田信玄が重い病によって奥座敷で静養しているという分厚い欺瞞は、いまだに一分の隙もなく維持されていた。この大いなる嘘を強固に支えているのは、勝頼が放った草の者たちによる徹底した情報統制の網だけではない。山県昌景や馬場信春といった宿老たちが、自らの武士としての誇りを抑え込み、勝頼が敷いた理の体制の一部として機能し始めたことが、この沈黙を盤石なものにしていたのである。
駿河と遠江の国境付近、かつては国人衆の小競り合いが絶えなかった地では、赤備えの猛将である山県昌景が、兵を土地から切り離す常備軍の運用を冷徹に監督していた。
昌景は、勝頼から授けられた複雑な兵站の割当表を手に、泥にまみれて陣地を構築する足軽たちの動きを鋭い眼光で追っている。彼にとって、兵を銭で雇い、土地の誇りではなく武田という国への奉公として一律に管理することは、先祖代々受け継いできた武家の美学に真っ向から反する苦渋の選択であった。
しかし、一度その法度の実務に入ってしまえば、彼が本来持っている稀代の猛将としての組織統率力が、かえってこの改革を力強く加速させる推進力となったのである。
(……陣代様の仰る通りだ。土地に縛られぬゆえに農繁期でも兵が逃げず、潤沢な兵糧によって決して飢えることがない。銭の力で常に一定の規律を保ち続ける。この途方もない安心感と軍の強固さは、かつての情による統率では決して得られぬものかもしれん)
昌景の指揮の下、国境の物流の淀みは一掃され、村々はかつてない安定を得ていた。織田や徳川の間諜が入り込もうにも、村人一人ひとりが「武田の法」と「武田の金」という絶対的な恩恵でがんじがらめに縛られており、見知らぬ余所者がいれば即座に密告する仕組みが出来上がっていた。
宿老たちが持つ名将としての実力と徹底した責任感が、勝頼の理想とする感情を持たぬ官僚国家の雛形を、皮肉にも現実のものとしていたのである。この一寸の隙もない統治こそが、外部に対する最大の防壁となっていた。
一方、尾張の清洲城。
織田信長は、眼前に積み上がった、一文字も有益な情報が記されていない沈黙の報告書の山を、燃え盛るような凄まじい眼光で睨みつけていた。
「……草の者が、ただの一人も戻らぬだと」
信長の声は、怒りよりもむしろ、冷え切った冬の湖底のように不気味に凪いでいた。彼の前には、羽柴秀吉と明智光秀が深く平伏し、背筋を這い上がる冷たい戦慄を必死に抑え込んでいる。
「はっ。甲斐や信濃へ幾重にも送り込んだ忍びの精鋭ども、国境の境目を越えた瞬間にことごとく消息を絶ちまする。捕らえられたのか、寝返ったのか、それすらも分かりませぬ。武田の領内は、まるで一切の音が吸い込まれる巨大な泥沼に包まれたかのように、人の気配も噂も、何一つとして漏れてこぬのです」
秀吉の悲痛な報告に、信長は手元の扇子を、みしみしと音を立てて握りしめた。信長にとって、銭の力でいち早く敵の動向を知ることこそが、天下布武を推し進めるための絶対的な手段であった。その命綱となる情報の流れが、武田という目に見えない巨大な壁の前では、完全に遮断されているのだ。
さらに信長の精神をひどく追い詰めたのは、三方ヶ原から這々の体で命からがら逃げ帰ってきた佐久間信盛の、狂気じみた証言であった。
「殿……あれは武士などではありませぬ。松明一つない真の闇夜の中で、音もなく歩調を揃え、こちらの思考をすべて読み切ったかのような間合いで、ただ我らを障害物として処理するように屠ったのです。信玄入道が生きているとか死んでいるとか、そのような次元の戦ではござらぬ。武田の奥底には、我らの知る戦の常識を遥かに超えた、血の通わぬ化け物が蠢いておりまする」
佐久間の恐怖に引き攣った言葉は、信長が長年かけて築き上げてきた革新という名の強烈な自負を、根底から激しく揺さぶった。
自分こそがこの日ノ本で最も新しい戦をしていると確信していた。しかし、三方ヶ原の深い森の中で佐久間隊を一方的に蹂躙した武田の軍勢は、その信長の思想をさらに高次から冷酷に見下ろしているように感じられたのだ。
「三河の家康はどうしておるのだ。あやつもまた、武田のこの不自然な沈黙を疑わぬのか」
信長の問いに、光秀が重苦しく口を開いた。
「徳川殿は……浜松城に深く引きこもったまま、我が方からの使者や打診をことごとく拒絶しております。何やら、家中のどこかに武田に通じる裏切り者がいると深く疑い、独自の防衛網の再編に異常なまでに没頭している様子。武田に対する警戒よりも、身内への強い猜疑心が、徳川という軍を完全に麻痺させておりまする」
信長は、苛立ちに満ちた自嘲気味な笑いを漏らした。
武田が家康の心に植え付けた不信は、徳川を機能不全に陥らせ、同時に同盟者である信長の手足をも完全に縛り上げていた。信長ほどの男には痛いほどに分かっていた。家康が信長を疑っているのではない。家康が、自分自身の家臣団と、己の判断そのものを信じられなくなっているのだ。敵の大将の心をそのように仕向け、完全に壊してしまう何者かが、あの沈黙する武田の深奥に確かに座している。
信長の脳裏に、かつて桶狭間で今川義元を討ち取った時に感じたような、天命を掴む瞬間の熱い昂揚感はない。そこにあるのは、精緻に組み上げられた時計の歯車が、一分の狂いもなくじわじわと自分の首を絞めに来ているような、回避不能な破滅への冷たい予感であった。
(信玄入道の仕業ではない。あの老いた虎に、人の心をこれほどまでに操り、完璧な情報統制を強いることが出来るはずがない。あやつはもっと熱く、武士の情にこだわる泥臭い男であったはずだ。誰だ……陣代は四郎勝頼と言ったか。あの若造が、一体どこからこの天下を見下ろしておるのだ)
一方、甲府の躑躅ヶ崎館。
勝頼は、真田昌幸から届けられた織田領内の動揺を記した報告書に、冷ややかに目を落としていた。
「……信長は、こちらの全容を全く把握できず、身動きの取れぬ家康にも大層苛立っているようだな。説明のつかぬこの深い沈黙に対し、奴はそのうち宗教、あるいは朝廷の権威など、不合理な力を使って強引にこちらを揺さぶろうとするだろう。……しかし、それで良い」
勝頼は、深夜の館を吹き抜ける冷たい春の風を静かに吸い込んだ。
信玄という巨大な権威の幻影をこのまま使い倒し、山県や馬場といった宿老たちの武勇と責任感を、さらに強固な管理者として完璧に機能させることが出来れば、武田は一介の戦国大名の枠を完全に越え、一つの巨大な法治国家へと昇華されていくだろう。
このまま順当に月日が経てば、いずれ信長がどれほど莫大な黄金を積み、天下布武の呪いを叫ぼうとも、勝頼が敷いた情報力と経済力の壁を破ることは絶対にできなくなる。
宿老たちが己の忠義ゆえに必死に仕事をしたことで生まれたこの盤石な静寂こそが、勝頼にとって計算通りの最大の成果となっていた。
勝頼は一人、信玄の遺した軍配を指先で静かなぞった。
(父上。武田は新たな鋼へと鍛え直され続けております。尾張の魔王は今、自分の足元の土台が音もなく崩れ去っていく足音を、暗闇の中で怯えながら聴いているはずです)
冷たい月明かりが、若き陣代の横顔を青白く照らし出す。
外部には一切の隙を見せぬ徹底した沈黙と恐怖を。内部には一切の無駄を排した絶対の理法を。
武田勝頼が仕掛ける三年の秘匿は、ただ時間を稼ぐための防衛の策ではない。それは、織田信長の精神を少しずつ狂気へと追い詰めてゆく、最も冷酷で洗練された死の攻撃となっていたのである。




