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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第六十話:宿老妥和

第六十話:宿老妥和


 甲斐の国、躑躅ヶ崎館の眼下に広がる城下町は、春の深まりと共にかつてないほどの活気に満ち溢れていた。

 三方ヶ原における歴史的な大勝の報は瞬く間に領内外を駆け巡り、甲斐や信濃の民、そして末端の足軽たちは、偉大なる大将の武威が天下に轟いたと信じて疑わなかった。関所が撤廃され、純度を統一した新たな武田金が流通し始めたことで、上方や堺、さらには敵国であるはずの尾張や三河からも、利益を嗅ぎつけた商人たちが甲府へと押し寄せている。

 だが、その熱狂と繁栄の喧騒から完全に隔絶された躑躅ヶ崎館の奥深くでは、真田源太左衛門尉昌幸と出浦盛清の指揮の下、徹底した情報の封鎖が敷かれていた。


 病床の主君を案じて拝謁を求める家臣や国人衆はすべて追い返され、御簾の奥には昌幸が用意した精巧な影武者が座し、かすかな咳払いと頷きだけで大将の健在を演じ続けている。そして、すべての政務と軍令は、陣代たる武田勝頼の筆によって、病床からの絶対的な下知として国中へ通達されていた。


 灯火が最小限に絞られた執務の座敷で、勝頼は昌幸から差し出された宿老たちの動静を記した報告書に、冷ややかに目を落としていた。

「……昌景殿は練兵場にて常備兵の調練を監督し、信春殿は自領にて検地のやり直しと新たな税の取り立てを指揮し、昌豊殿は上野の防備と物資の備蓄に奔走している。皆、わしの命じた不慣れな理の政に、一寸の違背もなく従っておるようだな」


 勝頼の声は、行灯の火を微塵も揺らすことなく静かに響いた。

 昌幸は、勝頼の影が壁に巨大な龍となって揺らめくのを眺めながら、その口元に皮肉な笑みを浮かべた。

「はっ。なれど、彼らの瞳に宿る火は、かつての戦場で一番槍を争った猛々しきそれとは全くの別物にございます。三方ヶ原で己の命の炎を燃やし、出し切った熱が、今はすっかり冷え切った灰となり、無理やりに理の型へと押し込められているような有様。……勝頼様、彼らの意識は、真に陣代様の敷かれた理の時代へと生まれ変わったとお考えでございますか」


 勝頼は、手にしていた報告の木簡を、卓の上へ音を立てて放った。

「……いや。人はそう容易く、己が数十年の人生を懸けて磨き上げてきた美学や価値観を根底から捨てることなどできぬよ」


 勝頼の脳裏には、三方ヶ原の戦場で、血を吐くような苦痛に耐えながら軍配を振るった父・信玄の凄絶な姿が焼き付いている。

 出陣の決意の時からすべて計算し尽くしていたことではあったが、信玄が己の命の残滓を燃やしてまで強行したあの西上は、天下へ武威を示す軍事行動であると同時に、武田という古い家の中に溜まっていた膿を焼き尽くすために必要な大舞台であった。


 山県昌景や馬場信春といった宿老たちは、主君との情愛、土地の安堵、そして何より個人の武勇こそが戦のすべてだと信じて疑わぬ、古き武家社会の結晶のような男たちであった。彼らにとって、勝頼が進めようとする銭による経済の支配や、兵を土地から切り離す軍制の規格化は、自らの武士としての存在意義を真っ向から否定するものでしかなかったのである。


「昌幸よ。彼らが、今わしの改革に従っているのは、わしの理を心底から理解したからではない。彼らは、現実の前にただ妥協したのだ」

 勝頼は、窓の外の漆黒の闇を冷徹な視線で見つめた。

「西上の行軍で餓死の寸前まで追い詰められ、三方ヶ原の勝利が自分たちの武勇だけではなく、わしがあらかじめ敷いておいた兵站の仕組みの救済があって初めて成り立ったという事実を、彼らは骨の髄まで沁みる屈辱と共に認めてしまった。その上で、己の命と引き換えに舞台を用意してくれた父上の最後の遺命という決して逆らえぬ呪縛を被せられた。……彼らは、現状としては、この仕組みに従うことが、自分たちの愛した武田という家を存続させる唯一の道なのだと、自ら折り合いをつけたに過ぎぬ」


 それは、意識改革という名の輝かしい進歩などではない。自らの美学がもうこの先の時代には通用しないという事実を突きつけられ、魂の一部を自ら切り捨てて、国を回すための機能に徹するという、老将たちの悲壮な歩み寄りであった。


 数日後、深い夜の帳が下りた頃、馬場美濃守信春が単身、勝頼の執務の座敷を訪れた。

 不死身の鬼美濃と恐れられ、数え切れぬほどの敵の血を吸ってきた老将の顔には、三方ヶ原で見せたような凄まじい気迫や殺気の欠片もなく、ただ穏やかで、どこか深い諦観を孕んだ静寂が漂っていた。

 馬場は勝頼の前に平伏すると、懐から一枚の真新しい金貨を取り出し、手の中で愛おしげに、そしてひどく寂しげに転がした。


「……勝頼様。この武田金という銭の重み、そして領内の村々を検地して回る算盤の響きに、私のような老いぼれもようやく慣れてまいりました」

 馬場の太く節くれだった手は、槍を握るために形作られたものであり、小さな金貨や細い筆を握るにはあまりにも不似合いであった。

「我ら譜代の老臣は、御館様の御威光と情の熱だけで動く、古き生き物にございます。槍を振るって敵の陣を食い破ることこそが戦であり、それ以外の後方の算段などは下働きの者の仕事だと、高を括っておりました。なれど……勝頼様が敷かれたこの理の掟が、確実に民の飢えを救い、他国の富を吸い上げ、この武田を外敵から守っているという事実は、もはや誰の目にも否定できませぬ。……我らは本当に、戦の真の恐ろしさというものを、何も分かってはおりませなんだ」


 馬場は深く頭を垂れたまま、枯れた声で言葉を紡ぐ。

「我らはもはや、勝頼様がこれから大空へと飛ばす巨大な龍の背にへばりついた、古く乾いた鱗に過ぎませぬ。いつ剥がれ落ちてもおかしくない無用の長物かもしれませぬが、それでも……御館様が残されたこの武田の家がこれからも続くための礎となるのならば、この命が尽きるまで、泥に塗れて算盤を弾く泥作りに徹してご覧に入れましょう」


 その言葉には、かつての武田の宿老としての鋭い牙は見えなかった。ただ、そこにあるのは、新しき文明に対する最低限の理解と、己の時代の終焉を受け入れた、老将の静かなる敗北宣言であった。


「……大儀である、信春殿。そなたのその働きこそが、この国を不落の城とする最高の武勲であると、わしが保証しよう。存分に励め」

 勝頼は、一切の同情を交えぬ冷たい声でそれだけを返した。

「はっ……。ありがたき幸せに存じまする」

 馬場は静かに一礼し、座敷を退出していった。


 老将の背中を見送りながら、勝頼は自らの内にある覇王としての果てしない孤独が、また一段と深く、暗い淵へと沈んでいくのを感じていた。

 宿老たちの意識は、完全には変わっていない。彼らの魂の奥底には、依然としてかつての猛虎が熱く吠える日を夢見る情念が燻っている。だが、その厄介な夢を現実の統治の枠組みの中に強引に封じ込め、彼らの持つ強烈な責任感と忠義心を利用して使いこなすこと。それが、はるか中原の玉座を経験した勝頼が導き出した、今この時において成すべき統治の最適解であった。


 国を動かすために、家臣の心からの理解や熱烈な共感など必要はない。冷徹な利害と、決して逃れられぬ仕組みさえあれば、人はおのずと自らを納得させ、決められた軌道の上を歩き続けるものなのだ。


 改革に伴う不協和音は、この先も完全には消えないだろう。しかし、それはもはや武田という組織を内側から破壊するような致命的な騒音ではなく、巨大な絡繰りが動く際に必ず生じるであろう、ごくわずかな摩擦音へと変わっていた。


 勝頼は再び、卓上に広げられた日ノ本の巨大な白地図へと冷たい視線を戻した。


「昌幸。宿老たちのその妥協と意地を、そのまま国を沈めぬための重石として利用せよ。これよりは内を固めると同時に、外敵の目を欺くための情報の発信を、さらに巧妙で強固なものとする。織田に、父上の巨大な幻影を常に見せ続けよ」


「御意に。三年のあいだ、畿内の魔王が、手出し一つできずに疑心暗鬼の沼で喘ぐことになりましょう」

 背後の暗がりから、昌幸の不敵な笑みを含んだ囁きが響いた。


 偉大なる父の死の上に築かれた、猶予の三年。

 その最初の一年が、旧弊の残酷な浄化と、古い武士たちとの不完全な妥協を伴いながら、いよいよ本格的な幕を開けていた。

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