表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
59/146

第五十九話:亡霊統治

第五十九話:亡霊統治


 甲斐の躑躅ヶ崎館、その最も奥深くにある密室には、線香の香りが重く漂い、夜の静寂が泥のように沈殿していた。

 武田信玄がこの世を去ってから、すでに数日が経過している。だが、館の外部には鉄壁の封鎖が敷かれ、偉大なる甲斐の虎の死は、一握りの側近と宿老たち以外には完全に伏せられていた。


 その密室に、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、高坂昌信の四人の宿老が呼ばれていた。

 彼らが重い足取りで部屋に入ると、上座には陣代たる武田四郎勝頼が静かに端座していた。そして勝頼の隣の御簾の奥には、薄暗い行灯の光に照らされて、見慣れた巨躯の男が座している。


「……御館、様」

 山県昌景が思わず息を呑み、その場に平伏しかけた。

 御簾の向こうに座る男の体躯、削げ落ちた頬骨の形、そして顎を覆う髭の生え具合に至るまで、生前の信玄に生き写しであったのだ。だが、よく見ればその瞳には天下を睨んだ猛虎の眼光はなく、ただ主から命じられた役割をこなすだけの虚ろな色が宿っている。

 それは、真田源太左衛門尉昌幸が万が一のために数年前から見出し、密かに飼い慣らしていた影武者であった。


「昌景殿。これは父上の亡霊ではない。ただの人形だ」

 勝頼の冷え切った声が、宿老たちを我に返らせた。

「これより三年のあいだ、この男を御簾の奥に座らせる。遠目からの検閲や、織田や徳川が放った草の者への目眩ましには十分であろう。公式の場では、父上は三方ヶ原の激闘の疲れにより奥座敷にて静養中であり、陣代であるわしがその名代として下知を下すと、家中と他国に触れ回り続けるのだ」


 四人の宿老は、深く頭を垂れた。

 主君の死を偽り、影武者を拝まねばならないという事実は、忠義を重んじる彼らの誇りを激しく削り取った。だが、勝頼の言う通り、今ここで信玄の死が天下に露見すれば、織田や上杉が雪崩を打って甲斐へ押し寄せてくる可能性は極めて高い。武田の家を守るためには、この大いなる欺瞞を共犯者として受け入れるほかなかった。


「……承知いたしました。我ら四人、この偽りを墓場まで持っていく誓いを、今一度ここに立てましょう」

 馬場信春が代表して口上を述べる。外部に対しては、武田は依然として最強の虎が支配する無敵の軍事大国を演じ続ける。その点において、勝頼と宿老たちの利害は完全に一致していた。


 しかし、宿老たちが覚悟を決めたその直後、勝頼の口から発せられた言葉は、彼らの心に拭いきれぬ暗い疑念を呼び起こした。


「重畳。では、これより向こう三年のあいだに為すべき、我が国の大方針を申し渡す」

 勝頼は、手元にあった分厚い帳簿の束を扇子で指し示した。

「父上の快復を祈願し、領国を立て直すという名目のもと、領内の全村の検地を即座にやり直す。並行して、未だ各所でバラバラに使われている銭を廃し、重さと純度を統一した武田金へと完全に切り替える。さらに、兵を土地から切り離し、銭で雇って一年中戦える常備兵の軍団を本格的に創り上げる」


 勝頼は、静かに、しかし絶対的な重みを持って宣告した。

「……これら一切の新たな法度と掟はすべて、父上の病床からの厳命として国中へ通達せよ」


 その瞬間、山県昌景の顔が険しく歪み、伏せた顔の下で激しく奥歯を噛み締めた。

(貨幣の統一だと。常備の軍だと。……それは、陣代様が三方ヶ原へ出陣する前から再三にわたって説いていた、我ら武家の魂を根底から削り落とす新しき仕組みではないか)

 山県も馬場も、二俣城の無血開城や、長雨の泥濘における兵站の完璧な救済を見せつけられ、勝頼の理の圧倒的な正しさを一度は身をもって知らされている。一千の兵を用いて三千の織田の援軍をすり潰したという戦果の報告も受けていた。


 だが、それらをすべて信玄の命として断行するという勝頼の手法には、激しい怒りと反発を禁じ得なかった。

 信玄は武勇と情で家臣を束ねる大将であった。兵を土地から引き剥がし、銭と数字だけで国を回すような冷徹な統治は、信玄の理念とは対極にあるものだ。

(陣代様は、死した御館様の威光を、己の異質で非情な国造りのための都合の良い道具として使い倒そうとしておられるのだ)


「……陣代様。恐れながら申し上げまする」

 山県昌景が、耐えきれずに顔を上げた。

「御館様の死を伏せ、国を守るための偽りには我らも命を懸けて従います。されど、陣代様の考えられた新たなる法を、御館様の御意思と偽って国中に布告するのは、あまりに過ぎた振る舞いではございませぬか。そのようなことをなされば、御館様が一代で築かれた武田の誇りが……」


「誇りだと」

 勝頼の冷え切った声が、昌景の言葉を氷のように断ち切った。

「昌景殿。父上は駒場の陣にて、息を引き取る直前、そなたら四人を呼び寄せて何と命じられたか。陣代であるわしを父上自身であると思い、その下知に一寸の違背もなく従えと仰られたはずだ。違うか」


 昌景は息を呑み、言葉に詰まった。

「わしの決定は、すなわち父上の決定である。わしの定めた掟に背き、己の古き意地を通そうとすることは、そなたらが忠義を誓った父上に対する明確な反逆に他ならぬ。……それともそなたらは、御館様の最期の御遺命に背くと言うのか」


 完璧な論理であった。

 勝頼は、宿老たちの不満を力でねじ伏せたのではない。彼らが最も重んじる武士の忠義という名の大義名分を利用し、決して逃れられぬ理の鎖で縛り上げたのだ。

 信玄の影武者を背後に置き、信玄の言葉を盾にすることで、宿老たちは勝頼の政策に反論する口実を完全に奪われてしまった。もしここで勝頼に逆らえば、それは彼らが最も恐れる不忠の汚名を自ら被ることになる。


「……滅っそうも、ございませぬ」

 山県昌景は、血の滲むような悔しさを押し殺し、深く畳に額をすりつけた。隣の馬場信春も、ただ無言で目を閉じ、耐え忍ぶしかなかった。

 彼らは武士の意地ゆえに、自ら進んで、自分たちの居場所を奪うであろう勝頼の新しい国造りの一部として機能するしか道は残されていなかったのである。


 その光景を、勝頼の後方の暗がりから静かに見つめていた真田昌幸は、己の背筋に冷たい戦慄と、狂おしいほどの歓喜が駆け上がるのを感じていた。

(なんと見事な、そして残酷な手口か。陣代様は、宿老たちを処断するどころか、彼らの持つ忠誠心すらも、国を造り替えるための便利な道具として余すところなく利用し尽くしておられる)


 昌幸の目には、勝頼が単なる戦国の武将などではなく、はるか高い天空から人間の業や心理を冷徹に操る、神仏の如き絶対者に見えた。

 武力で敵を倒すのは容易い。だが、不満を持つ身内を、一切の血を流さずに自らの意思で従属させることほど難しいことはない。勝頼は、信玄という巨大な権威を利用し、宿老たちの心を一切の逃げ場のない牢獄に閉じ込めたのである。

 この男の横顔をこれほど近くで眺め、その冷酷な頭脳の片鱗に触れることができる光栄。昌幸は、己がこの途方もない怪物に仕え、新たな歴史の創造に加担できることに深い陶酔を感じていた。


「これより三年間、父上の命に従って、我が武田は内にこもり、徹底して基礎を固める。……昌幸、勝資。この場にいる皆の協力のもとに、領内の検地と銭の巡りの掌握、そして常備兵の徴用を一刻も早く進めよ。反対する者があれば、ここにいる武田が誇る四名将の威光を以て容赦なく踏み潰せ」

「はっ」

 昌幸は深く平伏しながらも、その口元には狂気じみた笑みが刻まれていた。


 勝頼は、うなだれる宿老たちを一瞥することもなく、静かに立ち上がった。

 夜明けの冷気が、躑躅ヶ崎館の回廊を吹き抜けていく。

 外部に対しては一切の隙を見せぬ鉄壁の沈黙を装いながら、若き陣代が仕掛けた三年の亡霊統治は、ついにその過酷で冷酷な一歩を、歴史の上に確かに刻み始めたのである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ