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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第五十八話:龍影陣代

第五十八話:龍影陣代


 武田信玄の寝所から四人の宿老たちが重い足取りで退出した後、躑躅ヶ崎館の最深部には、耳に痛いほどの深い静寂が戻っていた。

 武田勝頼は上座に独り端座し、冷え切った空気の中にまだかすかに漂う古い武将たちの絶望と、旧き時代の終わりの残照を静かに見つめていた。山県昌景や馬場信春ら、武田の屋台骨を支えてきた四人の宿老たちは、先ほど病床の信玄から直接、死の秘匿と勝頼への絶対服従を命じられ、血を吐くような忠義と共にそれを誓って下がっていった。


(父上……。これで、過去の栄光を知る強情な者たちは、すべてわしの支配下へと完全に収まりました。これよりは、わしの理でこの武田を動かします)

 勝頼はゆっくりと立ち上がり、冷たい床板を踏みしめながら、再び信玄の寝所へと歩み寄った。


 重厚な襖を開けると、むせ返るような濃密な薬草と香の匂いが鼻を突いた。

 行灯の火が夜風に微かに揺れるたびに、分厚い布団に横たわる信玄の貌に深い影を落としている。そこには、すでに一切の生気を失い、完全に冷え切った父の骸があった。

 数刻前、四人の宿老に陣代としての勝頼に従えという最後の大命を下し、勝頼からの遥かなる大陸の帝王としての告白を聞き届けたのち、天下を震え上がらせた甲斐の猛虎はその壮絶な生涯を静かに閉じたのであった。


 勝頼は枕元に座し、もはや動くことのない父の冷たい手を静かに両手で握りしめた。

(……死の影とは、これほどまでにすべてを奪い去るものか)

 一度目の人生において、この冷たくなった手を見た時の底知れぬ絶望と恐怖を、勝頼は今でも忘れてはいない。偉大な大黒柱を失い、どうしてよいか分からず、ただ宿老たちの視線に怯えて涙を流すしかなかったあの日の己。しかし、中原の玉座で数千万の命を率いてきた今の勝頼に、そのような脆弱な感傷は一欠片も存在しなかった。


「父上。これからあなたを、わしが国を創り上げるための生きた盾として、一寸の無駄もなく使わせていただきます。どうか安らかに、眠りにつかれてくだされ」

 勝頼は、声に出して低く呟いた。

 それは、大将としての重責と孤独を完全に理解できた先代の覇者への、彼なりの最大の敬意であり、最後の供養であった。


「……昌幸。入れ」

 勝頼の低く通る声に応じ、真田源太左衛門尉昌幸が現れた。昌幸は布団の上の骸を一瞥し、すべてを察して声も出さずに深く頭を垂れた。

「御館様のご尊骸……誠に、恐れ多きことにございます」

「昌幸。これより、わが理の第一工程をただちに開始する。まず、父上の死を、これより三年間、完全に秘匿せよ」


 昌幸の背筋に、冬の夜気よりも鋭い戦慄が走った。

 以前からの話の通り、勝頼は、偉大なる父が絶命したその刹那から、その亡骸すらも国を動かすための政治的な装置として冷酷に運用し始めたのである。

「直ぐに影武者を立てよ。そなたが以前から万が一のために密かに手配していた替え玉を、この館の深奥へ据えるのだ。織田らの忍びの目に対し、父上は今なお生き、奥の座敷で陣代であるわしを操っているという、強烈な幻影を構築せよ」


「御意に……。なれど勝頼様。御館様の御最期に立ち会い、死を伏せるよう直に命じられた山県殿ら四人の宿老はともかく、その他の家臣や国人衆たちはどうなさるおつもりでございましょうか。彼らに拝謁を禁じ続けるだけでは、いずれごまかしきれぬ疑念が渦巻き、家中から綻びが出ましょう」

 昌幸の懸念はもっともであった。四天王と呼ばれた宿老たちは信玄の遺命という重い鎖で縛り上げたが、武田家を構成する無数の将兵すべてを言葉だけで騙し通すことは不可能に近い。


「例えば、穴山信君殿や小山田信茂殿といった親族衆や重臣たちにございます。彼らをあえてこの最期の場から遠ざけたことは、いずれ強い不満と疑念を生みましょう」


 その問いに、勝頼の瞳が氷のように冷え切った。

 一度目の生において、織田の軍勢が迫る中、勝頼を見限り、徳川や織田へ通じて寝返った者たち。天目山の死地へと自らを追い詰めた決定的な裏切り者。

 勝頼には、彼らを重臣として使っていく、という選択肢は最初から存在しなかった。武田を救うにあたり、彼らは救済するに値しない、いずれ必ず国を腐らせる不純物に過ぎないのだ。


「昌幸よ。奴らは御一門衆として特権に甘んじ、常に己の利でしか動かぬ輩だ。宿老たちとは次元が全く違う。わしが敷く理と法の国において、彼らの居場所など最初から用意してはおらぬ。彼らを御前へ呼ばなかったのは、武田の中枢から物理的に切り離し、徐々に力を削ぎ落とすための最初の一手よ」


 勝頼は信玄の枕元にあった血に染まった軍配を手に取り、それを手の中で冷ややかに弄んだ。

「そして、綻びなどは、わしが圧倒的な結果で埋め立てる。わしが新しく敷く法度や経済の成果を、すべて父上の病床からの下知として公表してゆくのだ。死を知らぬその他の家臣や国人衆は、目の前の武田がかつてなく富み、軍が強固になっていく様を見れば、それが偉大なる父上の采配であると信じたいという、己の甘い願望に自ら囚われていくはずだ。人は、己の信じたい真実のためならば、目の前の不自然などいくらでも理由をつけて無視するものなのだ」


 勝頼の言葉には、人間の心理と業の深さを完全に計算し尽くした、恐るべき洞察が宿っていた。

「そして、死を知るあの四人の宿老には、自らの手でその幻影を守らせる。己が誓った忠義の重さで、彼ら自身に他の者たちを騙す共犯者の役割を担わせ、がんじがらめに縛り上げるのだ。彼らは武士の意地ゆえに、自ら進んで泥を被り、穴山や小山田らの不満を抑え込み、わしの創る理の一部として機能するであろう」


 昌幸は、勝頼の横顔に宿る人智を超えた覇気に、底知れぬ法悦と狂気的な歓喜を感じた。

 勝頼は、信玄という巨大な権威を、ただ国を保つために、骨の髄までしゃぶり尽くすように使い倒そうとしているのだ。忠義に篤い宿老たちすらも完璧な自らの駒へと作り変え、不要な邪魔者は冷徹に遠ざけ、外側へと追いやる。

「……承知いたしました。これより躑躅ヶ崎館を、鉄壁の封鎖下へと置きます。この真田昌幸、命を賭して、御館様の沈黙を守り抜いてご覧に入れまする」


 昌幸が深い一礼とともに消えると、勝頼は一人、信玄の亡骸の前に座し続けた。

 館の外では、春の訪れを激しく拒むかのような冬の嵐が吹き荒れ、屋根を激しく叩く冷たい雨音が、一つの古い時代の断末魔のように重く響き渡っていた。


(父上。わしが選んだこの覇道は、死した血肉の親すらも冷酷に駒として扱う、非情極まりない修羅の道かもしれませぬ。しかし、わし一人がこの暗く冷たい月明かりの下で手を汚すことで、必ず信勝の代には、武田の民の誰もが温かな太陽の下で笑える国を完成させまする)


 勝頼は、静かに立ち上がった。

 亡き父への最後の決別を終えたその背中には、戦国の世を争う一介の大名としての未練など一片もない。

 勝頼が執務室に戻り、これからの三年間の内政と軍制の巨大な設計図を机上に広げたその時、躑躅ヶ崎館の石垣を底から震わせるほどの凄まじい落雷が鳴り響いた。

 それは、天からの祝福か、あるいは情を重んじた武士の時代を終わらせる怪物への呪いか、今はまだ分からなかった。

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