第五十七話:旧弊浄化
第五十七話:旧弊浄化
夜明けの淡い光が、甲斐の躑躅ヶ崎館の屋根を白く染め始めていた。
だが、その冷たい朝陽が差し込む館内を支配しているのは、新しい一日の訪れを喜ぶ気配ではなく、肌を刺すような極限の緊張感と、底なしの喪失感であった。
昨夜、武田信玄の寝所に呼ばれ、最後の大命を受けた四人の宿老たち――山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、高坂昌信は、誰一人として自室に戻ることなく、寝所へと続く回廊に端座したまま夜を明かしていた。
彼らの目の前には、勝頼が独自に編成し、冷徹な調練を施した直轄隊の足軽たちが、一寸の乱れもない分厚い槍衾を築いて微動だにせず立ち塞がっている。かつての武田家が持っていた、主従が膝を突き合わせて語り合うような家族的な温かさは、そこには微塵も残されていなかった。
「……退け。そこを退かぬか」
張り詰めた沈黙を切り裂いたのは、赤備えを率いる猛将、山県昌景のひどく掠れた声であった。
「昨夜、御館様から直々に御遺命を賜った。だが、夜半を過ぎてから奥の物音が完全に絶えておる。……御館様は、もしや……。頼む、もう一度、最後に一目なりとも、御館様のお顔を拝見させてくれ」
血に塗れた修羅場を幾度もくぐり抜けてきた老将が、泥に頭を擦りつけるようにして、感情を持たぬ足軽たちに懇願していた。その後ろでは、馬場信春や内藤昌豊も、悲痛な面持ちで固く唇を噛み締めている。彼らにとって、信玄は単なる主君ではなく、己の人生のすべてを懸けた絶対的な太陽であった。その光が今まさに完全に失われたという事実を、彼らの魂が激しく拒絶していたのである。
だが、直轄隊の兵たちは、名だたる宿老の血を吐くような懇願に対しても表情一つ変えない。彼らの耳には、主である勝頼の命じた絶対的な軍律しか入っていなかった。
その時、重厚な寝所の襖が、音もなく静かに開かれた。
行灯の微かな煙の匂いと共に、広間へと姿を現したのは、若き陣代、武田四郎勝頼であった。
宿老たちの視線が、弾かれたように一斉に勝頼へと突き刺さる。だが、勝頼の深く昏い瞳に宿っているのは、肉親を失った悲哀でも、重責を背負った若者の焦燥でもなく、万象を上空から見下ろすような、果てしなく透徹した静寂だけであった。
「昌景殿、騒ぎが過ぎる」
勝頼の声は、凍りついた冬の湖面のように冷たく、広間の空気を一瞬で凍てつかせた。
「父上は今、三方ヶ原の激闘と長旅の疲れを癒やすべく、静養に入られた。……これより何人たりとも、あの部屋へ入ることは許さぬ」
「静養、だと……」
昌景が、畳を激しく叩いて顔を上げた。その両目からは、せき止められていた大粒の涙がとめどなく溢れ落ちていた。
「我らをごまかせると思うな。御館様の命の炎が消え去ったことなど、武田の古参ならば肌で分かる。御館様が身罷られたというのに、陣代様はなぜ、そのような嘘を申されるのだ」
昌景の悲痛な叫びは、武将としての怒りへと変わっていく。
「若殿。いや、陣代様。我らは昨夜の御遺命に従い、今後、陣代様の下知に背くつもりは毛頭ござらぬ。だが、これだけは教えてくだされ。我らは三方ヶ原で徳川家康を完膚なきまでに叩き潰したのだ。あのまま西へ上がるのは御館様の長年の悲願だったはず。それを止めさせ、軍を甲府へ引き戻した。……陣代様にとって、あの西上は、失敗だったと申されるか」
悲痛な問いかけが、広間を重く圧し潰す。
馬場や内藤もまた、勝頼からの答えを求めてその顔を食い入るように見つめていた。彼らは、自分たちが死力を尽くしたあの戦場が、いったい何のためのものであったのか、その意味を証明してほしかったのだ。
だが、勝頼は一段高い上座から、泥臭い武士の美学に必死に縋ろうとする老将たちを、一片の同情も交えずに冷酷に見下ろした。
「……昌景殿。そなたたちの言う成功とは何だ。信長を殺し、京の土を踏むことか。ならば、わが理を以て冷たい真実を教えてやろう。今回の西上は、軍事的な盤面においては三方ヶ原の勝利を以て見事に完遂された。だが、国の治めという大局から見れば、父上の寿命という絶対的な不備により、上洛など最初から計算に含まれてはいなかったのだ」
宿老たちの顔から、一気に血の気が引いていく。
「何を……仰るか。では、御館様は最初から京へ行けぬと分かっておられたというのか。ならば、なぜ我らを引き連れ、あのような過酷な西上を強行されたのだ。なぜ、我らに血を流させたのだ」
「浄化のためだ」
勝頼の無慈悲な声は、彼らの残された誇りすらも完全に切り裂いた。
「そなたたちは、わしがもたらした銭と法の新しき国造りに対し、武士の居場所を失うという強烈な恐怖を感じていた。その不満と鬱屈は、いずれ必ず武田を内側から腐らせる猛毒となったであろう。……父上は、自らが旧き時代の象徴として、そなたらの行き場のない執念も、古き武士の誇りも、その不満のすべてを引き受け、戦場という名の巨大な火葬炉へと飛び込まれたのだ。そなたらを戦場で完全に燃やし尽くし、わしがこれから築く法治の国の礎とするためにな」
「我らを……我らの誇りを燃焼し、新たな国の土台となるために、あえて病床の御館様は古き虎を演じ、そして身罷られたと申されるのか……」
老練な馬場信春が、床に両手をつき、震える声で呻いた。
自分たちが信玄のために命を懸けて天下に轟かせたあの無双の武威が、実は大将の命を代償にした壮大な大芝居の舞台装置に過ぎなかったという残酷な現実。武士としての存在意義を根底から否定された絶望が、彼らの魂を完全に打ち砕いた。
勝頼の脳裏には、一度目の人生での後悔が過ぎ去っていく。あの時、西上の失敗と父の死は家中の離散を招き、武田を滅亡へと追いやった。だが、今回は違う。信玄は、自らの死を勝利の絶頂に重ねることで宿老たちの自尊心を一度満たし、その上で彼らの古い武勇の時代を、自らと共に歴史の闇へと葬り去ったのだ。
「父上の戦は、三方ヶ原で美しく、そして完全に終わった。……これより始まるのは、わしの時間だ」
勝頼から放たれた覇気が、広間を完全に支配した。
山県や馬場は、目の前に立っている男が、もはやただの後継者ではなく、何か別の途方もない英知を背負った、人智を超えた上位の絶対者であることを本能の底から悟らされていた。彼らはもはや、反論する気力すらも根こそぎ奪われていた。
「これより三年のあいだ、ここにいるわしら以外には、内部においてすら父上の死を固く秘匿する。拝謁は一切許さぬ。父上の死を口にする者は、何人であっても即座に処断する。……昌幸、勝資」
「はっ」
暗がりから、真田昌幸と跡部勝資が音もなく進み出た。
「これより躑躅ヶ崎館を、そして我ら武田の国境を鉄壁の封鎖下に置け。諸国へは、武田信玄は病により甲府にて静養中であると触れ回れ。そして領内には、陣代であるわしの名において新たなる法度を敷き、銭と兵糧の巡りを完全に掌握せよ。一切の反発は許さぬ」
「御意に。……勝頼様の描かれる完璧な絵図面、この昌幸が草の者どもを動かし、天下の目をことごとく欺いてご覧に入れましょう」
昌幸は深く平伏しながらも、その口元には狂気じみた愉悦の笑みが刻まれていた。旧き時代の猛将たちが完全に牙を抜かれ、這いつくばって絶望しているこの光景こそが、彼の知略家としての血をこれ以上なく沸き立たせていたのだ。
「父上は、その役目を終えて静かに眠りについた。これよりはこのわしが、法と理を以てこの国を統治する」
勝頼の冷厳なる宣告に、宿老たちはただ言葉を失い、冷たい畳に額をすりつけて深く頭を垂れるしかなかった。
武勇と情で結ばれた信玄という巨大な太陽が完全に沈んだ。広間を這うようにして去っていく宿老たちの背中に、かつての誇り高き武威の時代の完全なる終わりと、一切の無駄を許さぬ冷徹な国の、凍てつくような冷たい月明かりが差し込み始めていた。




