第五十六話:帝王告白
第五十六話:帝王告白
甲斐の躑躅ヶ崎館、その最も奥深くにある厳重に閉ざされた寝所。
夜の帳が鉛のように重くのしかかる中、部屋にはむせ返るような濃密な薬草の香りと、もはや隠しきれぬ血の生臭さが澱みのように立ち込めていた。
武田信玄の枕元には、武田家を長年根底から支え続けてきた四人の重臣が深く平伏していた。赤備えを率いる山県昌景、不死身の鬼美濃と称される馬場信春、副将格の内藤昌豊、そして海津城から急ぎ駆けつけた逃げ弾正こと高坂昌信である。
彼らのすぐ横には、微動だにせず冷え切った眼差しの勝頼が端座している。
信玄の顔色は死人のごとき土気色に沈み、呼吸はひどく浅く、息を吸うたびに肺の奥から不気味な水音が鳴っていた。それでも、己の命の残滓をすべて振り絞るようにして、信玄は這い寄る死の淵から上体をわずかに起こし、四人の宿老を猛虎の如き鋭い眼光できっと睨み据えた。
「昌景、信春、昌豊、昌信……。よくぞ集まった。もはや、わしの命の刻限は今日この夜を越えることはない」
山県昌景が、床に額をこすりつけながら堪えきれずに嗚咽を漏らした。
「御館様、そのような弱気なことを仰せにならないでくだされ。我ら武田は、三方ヶ原にて天下にその無双の武威を轟かせたばかりにございます。どうかご養生なされ、再び我らを率いて京の都へ……」
「黙れ」
信玄の低く重い一喝が、昌景の悲痛な懇願を容赦なく遮った。
「感傷に浸る暇などない。わしが死んだ後の武田の行く末について、最後の大命を下す。心して聞け」
四人の猛将が一斉に息を呑み、涙に濡れた顔を上げる。
「わしが身罷った後、その死を三年のあいだ固く秘匿せよ。領国を固く閉ざし、いかなる敵の挑発にも乗らず、ひたすらに内側を固めるのだ。そして……武田の家督は、四郎の嫡男である信勝に継がせるものとする」
その言葉に、宿老たちの間にわずかな動揺が走った。勝頼に直接家督を譲るのではないという事実に、彼らは互いの視線を一瞬だけ交錯させた。
「しかし、信勝はまだ幼い。信勝が十六となり元服するまでの間、四郎勝頼を陣代として武田の全権を完全に委ねることとする。そなたら四人は、四郎をこのわし自身であると思い、その下知に一寸の違背もなく従え。もし四郎の定めた掟に背き、古き意地を通そうとする者があれば、それは武田という家そのものに対する反逆とみなす。……よいな」
大将からの最後の厳命であった。
「は、ははっ。御館様の御遺命、我ら四人、命に代えましても決して違背つかまつりませぬ」
涙にむせびながら、四天王は深く平伏し、血を吐くような忠義を大将の御前に誓った。信玄は満足げに小さく頷き、彼らを下がらせた。
襖が静かに閉じられ、部屋には信玄と勝頼の二人だけが残された。
勝頼は、冷え切った瞳の奥に確かな満足の光を宿していた。
(……これこそが、わしが父上を過酷な撤退路の中で強引に生かし、甲斐の土を踏むまでその命を無理やりに繋ぎ止めた最大の理由である)
勝頼の脳内には、冷徹な計算式が成立していた。もし信玄が遠江や信濃の道中で息絶え、その後に勝頼が自らの力で強引に当主の座を奪い取れば、古参の宿老たちは必ず内心で反発し、武田家はいずれ致命的な火種を抱えることになる。だが、信玄が生きているうちに、その口から直接「陣代として従え」と命じさせれば、彼らが最も重んじる武士の忠義そのものが、彼ら自身を縛り付ける決して切れない絶対の鎖となるのだ。
家督を信勝に継がせ、勝頼はあくまでその後見である陣代に留まるという形をとることで、譜代の家臣たちの自尊心を絶妙に保たせつつ、実質的な全権を勝頼が完全に握る。これもまた、計算し尽くした盤面の処理に他ならなかった。
「……四郎よ。これで、そなたの望む通りの絵図面が完全に出来上がったな」
信玄は、苦しげな息の下で、わずかに口の端を吊り上げた。
「はっ。父上、見事な大将としての采配、誠に痛み入ります。これで宿老たちは、父上への忠義という名の牢獄に自ら進んで入り込み、わしの理に逆らうことは決して行うことはないでしょう。向こう三年間、わしは誰の邪魔も入らぬ中で、この国を根底から完全に造り替えることができまする」
信玄は、自らの血に染まった手をゆっくりと持ち上げ、勝頼の方へと伸ばした。勝頼はその冷たい手をしっかりと握りしめた。
「四郎……。そなたは、三方ヶ原で織田の伏兵を事もなげにすり潰し、憎き家康を殺さずにあえて放った。そして今、わしの死すら利用して家臣の心を絡め取った。……そなたの瞳には、我らが命を懸けてきた武士の戦が、ひどくちっぽけな泥遊びにしか見えておらぬようだな」
信玄の眼光が、最期の命の炎を振り絞るように勝頼の深奥を覗き込もうとした。
「そなたは……一体、何者なのだ。武田の血を引く武者という次元ではない。はるか天空からこの日ノ本を見下ろすような、底知れぬ凄みがある。冥土の土産に、そなたの口から真の正体を聞かせてはくれぬか」
本来であれば、この己の魂の秘密は誰にも明かすことなく、永遠に墓場まで持っていくべきものと思っていた。だが、目の前で命の火を燃やし尽くそうとしているこの男は、一度目の生において自分を絶望させた決して越えられぬ巨大な壁であり、二度目の中原の治世においても常に比較の指標として魂に刻み込まれてきた男であった。父という存在の決算として、勝頼にはどうしても語っておかねばならない事実があった。
「しっかりと聞いて欲しい、父上。わしは……すでに二度、死を経験しております」
勝頼の声は、夜の静寂を完全に凍てつかせるほどに凪ぎ切っていた。
「一度目の人生では、父上が身罷られた後、わしがこの武田の家督を継ぎました。だが、わしは偉大すぎる父上の影に怯え、宿老たちを心から心服させることができず、武功を焦りました。その結果、織田の放つ数千の鉄砲の前に軍は壊滅し、家臣には次々と背かれ、最後は天目山の山中において、愛する妻や子と共に果てたのです。わしは、武田を滅ぼした暗愚な大将でございました」
信玄の瞳が、理解の及ばない驚愕に大きく見開かれた。
狂人の哀れな妄言として切り捨てるには、勝頼が放つ覇気があまりにも重厚で、その口から語られる滅びの情景があまりにも具体的で血生臭かった。
「だが、わしの魂は暗い冥府には沈まなんだ。気づけばわしは、日ノ本ではない遥か中原、広大な大陸の動乱の世に放り出されておりました。そこでわしは……己の武力だけを頼みとする恐るべき鬼神に従いました。だが、個人の武勇だけでは広大な天下は決して治められぬという残酷な真実を、敗北の血を啜って骨の髄まで学んだのです」
勝頼の口調が、静かに、しかし凄まじい熱量を帯びていく。
「しかし、類まれなる知己を得、数多の奸雄や英雄たちと知略の刃を交え、ついには巨大な帝国の玉座へと辿り着きました。民を安んじ、天下を数字と法によって縛り上げた数十年に及ぶ統治。わしの今の血と肉に流れているのは、情や武勇だけではなく、その広大な大陸を平らげた天子としての記憶と理法にございます」
勝頼は、一気に語り尽くした。
兵を土地から切り離す常備軍の構想、重さと純度を統一した武田金の鋳造、情報と銭の巡りを支配して敵を内側から腐らせる手立て。それらすべてが、思いつきなどではなく、一度目の生の敗北の要因をもとに、二度目の生において、実際に何万という血を流し、数多の国を滅ぼした末に辿り着いた帝王学の産物であることを。
信玄は、息子の口から語られるあまりに壮絶で、しかしこれまでのすべての不気味なほどの正しさを証明するその正体を、全身の震えと共に咀嚼していた。
もしこれが嘘ならば、ここ数か月の勝頼の人間離れした豹変は説明がつかない。だが、もし真実であるならば。目前に座し、自分の手を握っているこの男は、自分を超えたどころか、この日ノ本のいかなる天下人も決して到達することのできない、神仏の如き高みに立つ絶対者であったのだ。
「……は、はは……。左様で、あったか……。龍の再臨、か」
信玄は、かすれた喉を鳴らし、乾いた笑い声を漏らした。
「我が息子は……この信玄がついぞその目に焼き付けることの叶わなんだ、遥かなる天子の極致にすでに辿り着いていたというわけか。……ならば、もはや何も案ずることはない。わしが築いた武田は……わしの手を離れ、そなたの手によって不滅の帝国へと生まれ変わるのだな」
信玄の土気色の顔から、最期まで消えることのなかった宿老たちの行く末を案じる大将としての憂いが、朝霧が晴れるように消え去った。
自らが血と汗で築き上げた情と武威の武田が、勝頼の持ち込んだ圧倒的な理の帝国に飲み込まれていく歴史の必然を、信玄は一人の男として最大の承認を以て受け入れたのである。
「四郎……。そなたに、わしの遺したすべての重荷を託す。……あの宿老どもを、そなたの法で存分に使い倒すがよい。それが、この老いぼれが……この国の新たなる覇王に捧げる、最後にして最大の奉公よ」
勝頼は、父のその重すぎる言葉を、帝王としての威厳を以て深く受け止めた。
「御意。……父上の御名は、わしが創り出す国の最強の盾として、三年の間、現世に確かに留めてご覧に入れます」
父と子の間に長年存在していた越えられぬ壁が完全に消滅し、同じ天下を統べる者としての究極の共鳴が生まれた瞬間であった。
勝頼の深く昏い瞳には、肉親との別れを悲しむ湿った感傷などは一片もなかった。そこにあるのは、自らの正体と業を信玄に完全に明かしたことで、過去の己の惨めな死の記憶を完全に肯定し、この島国のすべてを新たな理で統治せんとする、絶対的な帝王の決意だけであった。
やがて、信玄の手からゆっくりと力が抜け、その腕が静かに畳の上へと落ちた。
夜明け前の刺すような冷気が、障子の隙間から回廊を吹き抜けていく。
旧き甲斐の虎の時代は、今、この密室の対話を以て完全に終焉を迎えた。そして、冷徹なる龍が支配する真の武田帝国の産声が、圧倒的な静寂の中で確かに上がったのである。




