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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第五十五話:落日凱旋

第五十五話:落日凱旋


 鼻を突くのは、重苦しい薬草の匂いと、もはや隠しようのない死の足音であった。

 三方ヶ原での大勝の熱狂が嘘のように、退き口の陣中に張られた信玄の寝所、その薄暗い天幕の中には、一つの時代が音を立てて崩れ落ちていくような、ひどく湿った静寂が沈殿していた。


 武田四郎勝頼は、父の顔をじっと見つめていた。行灯の火に照らされた信玄の貌は、かつての天下を睨んだ猛虎の威厳を辛うじて留めているものの、その肌は死を予感させる土気色に深く沈み、呼吸は一息ごとに激しい苦悶を孕んでいる。

(……死の影が、これほどまでに色濃く、生気を奪うものか)


 勝頼は、中原で数十年を生き抜いた際、宮廷に集めさせた数多の医術や練丹の知見を思い起こしていた。その高度な医学の物差しで計れば、今の信玄の肉体を蝕んでいる病の正体は明らかであった。肺の奥深くから血を吐かせ、五臓六腑を内側から食い破る悪性の病。日ノ本の医師たちが処方する気休めの薬湯や祈祷などでは到底進行を止められぬ、完全なる死の病である。


 勝頼の瞳に、一度目の人生での凄惨な記憶が色鮮やかに過る。

 あの時の西上作戦において、武田軍は三方ヶ原で勝利した後もさらに軍を進め、三河の野田城などを攻め落とした。だが、その過酷な冬の行軍と兵站の破綻が信玄の寿命を確実に削り取った。春を迎え、いよいよ命の危機に瀕した信玄は甲斐への撤退を余儀なくされ、その帰路、信濃の駒場の陣にて血を吐いて陣没したのである。


 偉大すぎる父の死は、武田家にとって致命的な亀裂の始まりであった。

 一度目の生での勝頼は、ただこの強大な父の背中に怯え、決して越えられぬ壁の高さと自らの器の小ささに絶望していた。家督を継ぎながらも、山県昌景や馬場信春といった古参の宿老たちからは真の当主として認められず、彼らを服従させるために無理な戦を重ねて武功を焦った。その結果が長篠の泥濘における壊滅であり、天目山での無残な一族滅亡という破滅への道であったのだ。


 だが、二度目の中原での生を経て、数多の英雄の死を玉座から冷徹に見届けてきた今の彼にとって、目前の父の死という光景は、歴史という時の流れが紡ぐ回避不能な確定事項に過ぎなかった。

 勝頼が今考えているのは、この回避できぬ絶対的な死を、いかにして新たな国造りのための最強の布石として利用し尽くすかであった。


 甲府へ向けた凱旋の進軍は続き、勝頼も自らの役目を果たすため、馬上にまたがり進み始めた。


 山県昌景や馬場信春ら宿老たちは、長雨による兵糧事情の悪化や将兵の蓄積された疲労も含めて、この地からの撤退自体には深く納得していた。何より、この三方ヶ原での圧倒的な大勝を持って、徳川を粉砕し、織田を恐れさせたことで、自分たちの武士の魂と武田の武威が今後も日ノ本で無双であり続けるものと固く信じたかったのである。

 長大な軍列には勇壮な法螺貝の音が響き渡り、故郷へ錦を飾る兵たちの勝ち鬨が春の空を幾度も震わせた。


 だが、その華やかで熱気に満ちた軍列の中央で、大将である信玄が乗るべき名馬には主の姿がなく、代わりに不自然なまでに深い御簾を幾重にも垂らした輿が据えられ、選りすぐりの近習たちによる厳重な警護に囲まれていた。


「若殿。御館様はいかがなされましたか。これほどの大勝の凱旋にございます。全軍の前に、少しでもそのお姿をお見せいただき、将兵の士気を高めねば、軍中に妙な噂が立ちかねませぬぞ」

 昌景の武士としての鋭い直感は、輿の奥から漂ってくる異様な気配をすでに嗅ぎ取っていた。大将が公の場に一切姿を見せぬことは、ただの病という言葉では片付けられぬ、極めて不吉な予兆であったのだ。


 勝頼は、手綱を持ったままゆっくりと首を巡らせ、その宿老の焦りを氷のような冷徹な視線で真っ直ぐに射抜いた。

「昌景殿。父上は今、先日の激闘からの深い疲れにより、輿の中で静養されておられる。勝利の熱狂にいたずらに浮かれ、大将の御身の疲れを案じることも忘れ、ただ己の武功を誇るために病身の父を引きずり出そうというのか。……過ぎた振る舞いである。下がるが良い」

 その声は、かつて一度目の人生で勝頼が見せていた、宿老に対する若さゆえの虚勢や反発などでは全くなかった。玉座で、数多の野心ある将兵を己の法と掟のみでひれ伏させてきた絶対者としての、逆らうことを一寸たりとも許さぬ凄まじい威圧感であった。


 数多の死線を潜り抜け、鬼と恐れられた昌景でさえ、勝頼から放たれたその言葉の重圧に思わず息を呑み、反論の言葉を完全に失って引き下がるしかなかった。若き後継者の瞳の奥には、すべてを見透かし、そして処理しようとする冷酷な怪物が潜んでいるように思えたのである。


 凱旋の進軍が遠江を抜け、岩肌の露出した険しい峠道に入ろうとしたその時であった。

 不意に、軍列の中央を進んでいた信玄の輿の中から、空気を引き裂くような激しい喘鳴と、内臓の奥底から何かが強引にせり上がってくるような、ひどく異様な音が響き渡った。


「ごほぉッ……がはぁッ……」

 苦痛に塗れたくぐもったうめき声と共に、輿の御簾の隙間から、どす黒い鮮血が畳の上に激しく滴り落ち、地面の土を赤く染めたのである。

 輿のすぐ近くを行軍していた足軽や、周囲を固めていた馬場信春らの歩みが、雷に打たれたようにぴたりと止まった。隠しきれぬ血の生臭さが風に乗って広がっていく。


「御館、様……?」

 全軍に、凍りつくような戦慄が波となって走った。自分たちの神と崇め、天下無双と信じて疑わなかった男が、輿の中で無惨に血を吐いて崩れ落ちているという現実を前に、宿老たちは信じられぬものを見るような虚ろな瞳で立ち尽くした。無敵の武田軍の足取りが完全に止まり、恐慌の波が瞬く間に広がろうとする。


 その絶望的な混乱と動揺を、勝頼の裂帛の怒号が切り裂いた。

「うろたえるな。昌景殿、信春殿、即座に周囲の兵を遠ざけよ。今の光景を口にする者は、たとえ将であってもこのわしがその場で斬る。これは父上の大将としての試練だと思え」


 勝頼は即座に馬から飛び降り、誰よりも早く輿へと駆け寄った。

 血に濡れた御簾を強引に捲り上げた瞬間、目に飛び込んできたのは、おびただしい量の鮮血を吐き出し、苦しさのあまり自らの喉を両手で激しく掻きむしりながら痙攣している信玄の凄絶な姿であった。

 肌は完全に土気色に変色し、目は虚ろに白目を剥いている。日ノ本を震え上がらせた甲斐の虎の威厳はそこにはなく、ただ病魔に食い破られようとしている一人の老いた男の姿があった。


(……死の影とは、これほどまでに色濃く、人の生気を容赦なく奪うものか)

 勝頼は、一瞬だけかつての記憶の底にあった「絶望」を思い出した。だが、今の彼の心は氷のように凪ぎ切っていた。悲哀や感傷に浸っている暇はない。ここで信玄が命を落とすのは良くない。命を落としたことが知れ渡れば、西上作戦の勝利など一瞬で吹き飛び、武田は混乱に陥って崩壊する。


 勝頼は一切の躊躇を見せることなく、自らの陣羽織が赤黒く汚れ、生臭い血の匂いにまみれることすら厭わず、血反吐を吐きながらもだえる父を力強く抱きかかえ、輿の中から強引に引きずり出した。

 そして誰の助けも借りず、意識の混濁した信玄を自らの愛馬の鞍の上へと無理やり乗せ、その背後からしっかりと抱きかかえるようにして自らも手綱を握った。

 その一連の動作のあまりの冷酷さと手際の良さに、周囲の宿老たちは息をするのも忘れ、声をかけることすらできなかった。武士としての情動や主君への配慮など完全に切り捨て、ただ事態の収拾という一点のみに特化したその対応は、彼らに有無を言わさぬ絶対の服従を強いるものであった。


「真田昌幸。これより先は、わが直轄隊の一千のみで父上を護衛し、全速で甲府へ向かう。本隊は昌景殿らが指揮を執り、後から追いつけ。他の者は一切我らに近づくことを禁ずる。……全軍、立ち止まることは許さぬ」


 勝頼の血に濡れた手が軍扇を振り下ろし、陣太鼓の音が冷酷に鳴り響いた。

 勝頼は、意識を失いぐったりと自らの胸に寄りかかる父の身体を支えながら、馬の腹を蹴った。

(父上、ここで死なれては困る。まだ語るべきこともある。わしの国造りのため、せめて甲府の土を踏むまでは、その命を繋ぎ止めてもらうぞ)


 血まみれの手で手綱を握り直した勝頼の深く昏い瞳には、宿老たちの焦燥も、目先の天下取りの幻影も微塵も映ってはいない。そこに見据えられていたのは、さらに遠く、冷たく澄み切った、圧倒的な地平の景色であった。

 勝頼の乗る黒駒は、一千の別働隊を引き連れ、夜の闇が迫る信濃の山道を甲府へ向けて全速力で駆け抜けていった。

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