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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第五十四話:巨星遺命

第五十四話:巨星遺命


 三方ヶ原の死地から逃げ延びた徳川家康が、浜松城の門をくぐった時、すでに東の空は白み始めていた。

 その姿は、三河と遠江を束ねる大将の威厳など微塵も残らぬほどに無惨なものであった。兜はとうに打ち捨てられ、乱れた髪には泥がこびりつき、具足には身内の血がべったりと張り付いている。数万の敵を前に盾となって散っていった夏目吉信ら忠臣たちの命と引き換えに、這々の体で逃げ帰ってきたのだ。


「殿。よくぞご無事で戻られました」

 城の留守居を任されていた酒井忠次や石川数正ら譜代の重臣たちが、安堵の涙を浮かべて駆け寄ってきた。

 だが、家康は馬から転げ落ちるように降りると、差し伸べられた酒井の手を、まるで汚らわしいものに触れられたかのように激しく振り払った。


「……触るな」

 ひび割れた声に、重臣たちは息を呑んで立ちすくんだ。

 家康の目は血走って落ち窪み、底知れぬ恐怖と疑心に濁りきっていた。出迎えた古参の家臣たちの顔を一人一人舐めるように見回すその視線には、かつての主従の熱い信頼など一片も残っていない。


(……この中に、武田に通じている者がいるのではないか)

 家康の脳裏に、暗闇の中で武田勝頼が囁いた冷酷な言葉が、決して剥がれぬ呪いのように張り付いている。

 自分の退路がすべて読まれていたこと。信長からの援軍が戦う前から徳川を見捨てて森に隠れ、その後、闇の中で完全に殲滅されていたこと。武田の若き大将は、徳川の陣中を隅々まで把握し、家康の心を玩んでいた。ならば、この浜松城の奥深くにも、すでに武田の耳目が入り込んでいるに違いない。今、忠義顔をして自分を取り囲んでいるこの譜代の者たちの中に、自分の首を勝頼に差し出して保身を図ろうとしている裏切り者がいるのだ。


「殿、いかがなされましたか。お怪我は」

 石川数正が一歩近づこうとした瞬間、家康は狂ったように後ずさり、腰の太刀の柄に手をかけた。

「近寄るなと言っておる。誰も、わしのそばに近づくな」

 家康は誰の助けも借りず、ふらつく足取りで城の奥深くへと歩み去っていった。残された重臣たちは、変わり果てた主君の姿に絶望的な顔を見合わせるしかなかった。


 勝頼が放った猛毒は、家康の魂の髄まで完全に食い破っていた。

 同盟者である織田信長を信じられず、長年苦楽を共にした三河の譜代すら信じられない。もはや家康は、城の奥の暗い部屋に引きこもり、いつ背中から刺されるかと己の影に怯え続けるだけの男となった。

 勝頼の思惑通り、徳川家康は武将としての決断力を完全に根こそぎ奪われ、遠江の国境は向こう数年のあいだ、いかなる動きも見せぬ死に体の防波堤となったのである。


 同じ頃、三方ヶ原の台地には、朝日に照らされた武田の本陣が広がっていた。

 陣中には、敵の血にまみれた具足を揺らし、美酒をあおった宿老たちが、次の戦場に向かわんとの意気込みで軍馬の点検を始めている。

「見たか、三河の青二才の逃げっぷりを。我ら赤備えの突撃の前には、ひとたまりもなかったわ」

 勝頼からの兵糧の補給により息を吹き返すとともに、泥濘での停滞の雪辱に燃えていた山県昌景が言い放ち、馬場信春や内藤昌豊らも力強く頷き合っている。

 彼らにとって、この三方ヶ原での大勝は、勝頼の理を認めざるを得ない自分たちが、純粋な武勇においては依然として天下無双であることを証明した戦であった。背後において、勝頼が遥かに高い視点から織田の伏兵を見抜き、一千の別働隊で圧倒的な殺戮を演じて再び本隊の窮地を救ったのだとしても。彼らは、自分たちが戦場で死力と血を尽くして勝利を掴まねば、勝頼のあの無血の采配も生きなかったのだと、武士の誇りをかけて自らに言い聞かせるしかなかったのである。


 その喧騒から離れた場所で、勝頼は馬上から冷ややかに宿老たちの姿を見下ろしていた。

 傍らに控える真田昌幸もまた、複雑な眼差しでその光景を眺めている。

「……勝頼様。彼らは見事に武田の武威を天下に示しました。これで御館様の悲願も果たされたと、信じて疑わぬ様子にございます」

 昌幸の言葉に、勝頼は微かに口の端を吊り上げた。

「哀れにみえるかもしれんが、その働きは認めてやれ。確かに彼らは三方ヶ原という限られた戦場だけで見れば、自分が歴史の主役であると信じるに足る戦果を挙げたのだ。今彼らが上げている歓喜は、古き武士の時代が終焉を迎えるための、実に豪奢な葬送の調べとなるだろう」


 それから、幾日かの時が過ぎた。

 三方ヶ原での歴史的な大勝ののち、武田の全軍は西への進軍を突如として停止した。家康が浜松城に引きこもって動けなくなったことを見届けた信玄は、病状の悪化を表向きの理由とせず、勝利の勢いを保ったまま悠然と軍を返すことを決定し、遠江から北上して信濃を抜ける、甲斐への帰還の途についたのである。


 信濃国、伊那郡駒場の陣。

 甲斐への帰路の途中、ついに信玄の命の刻限は限界を迎えようとしていた。

 陣幕の最深部には、むせ返るような濃密な薬草の匂いと、生臭い血の匂いが混ざり合って淀んでいる。

 勝頼が静かに幕舎に入ると、そこには床几から降り、分厚い布団の上に身を横たえる信玄の姿があった。顔色は土のように黒ずみ、息を吸うたびに肺の奥で不気味な音が鳴っている。だが、薄く開かれたその双眸だけは、天下を睨み据えた甲斐の虎としての凄絶な光をいまだ失ってはいなかった。


「……四郎か」

 信玄の声はかすれ、途切れ途切れであった。

「はっ。父上、お加減はいかがにございますか」

 勝頼は枕元に座し、父の血の気のない手を見つめた。


「わしの命は、甲斐の土を踏むまでもたぬかもしれん。……それより四郎、家康のことを教えてくれ。あやつを討たず、生かして帰したと聞いたが」

 信玄の問いに対し、勝頼は感情を交えぬ淡々とした声で答えた。

「家康の心には、織田への不信と身内への疑心暗鬼という猛毒を植え付けて放ちました。もはや奴は、織田も身内も信じられませぬ。我が武田の西を塞ぐ、見えざる強固な壁として、必ずや数年は機能いたします。織田の援軍も森の中で粉砕し、武田への底知れぬ恐怖を尾張へ持ち帰らせておりますゆえ、西側は案じ召されるな」


 勝頼の報告を聞き、信玄の削げ落ちた頬がわずかに緩んだ。

「そうか……。見事だ、四郎。そこまで見越してあの男を生かしたか。ならば、わしが三方ヶ原で振るった最後の軍配も、無駄にはならなかったということだな」

 信玄は、自らの血に染まった手をゆっくりと持ち上げ、勝頼の方へと伸ばした。勝頼はその手を両手で包み込むようにして握った。父の掌は、すでに生きている者の熱を失いつつあった。


「四郎よ。……山県も、馬場も、三方ヶ原でよく戦った。あいつらは、そなたの底知れぬ力を認めつつも、武士としての本懐を遂げたと満足しておるはずだ。これで、そなたの新しい国造りの邪魔になるような、古き者のただの強すぎる意地は、あの遠江の土と共に完全に燃え尽きたであろう」

 信玄の言葉には、長く苦楽を共にした家臣たちへの深い愛情と、同時に大将としての冷酷な覚悟が入り混じっていた。


「父上……すべては、あなたの描かれた通りになりましてございます」

 勝頼の瞳に、初めて一筋の熱い色が走った。それは、自らの孤独な覇道を完全に理解し、己の命を投げ打ってその大舞台を整えてくれた偉大なる先達への、心の底からの敬愛であった。


 信玄は呼吸を荒くしながら、最後の力を振り絞るように勝頼の手を握り返した。

「四郎。わしが死んだ後、どうするかはすでに分かっておるな」

「はっ。父上の死を、三年のあいだ固く秘匿いたします。その三年の間、武田は一切の戦を避け、領国を閉ざします。家康は動けず、織田も父上が生きているという影に怯え、うかつには手を出してこられぬはずです」


 信玄は小さく頷いた。

「その三年の空白を使い、そなたの言う強固な理の国へと、この武田を完全に造り替えよ。法と掟で民を統べる真の国へとな。……それが、わしからそなたへの、最後の大命だ」


「承知仕りました。この勝頼、父上が残してくださる三年の歳月を一寸の無駄もなく使い切り、日ノ本ではいまだかつて見たことのない、盤石なる国を必ずや産み落としてご覧に入れます」

 勝頼の力強い誓いを聞き、信玄の眼からすーっと力が抜けていった。

 猛虎の目に宿っていた天下への激しい執念が、すべてをやり遂げた安らかな満足の色へと変わっていく。


「頼んだぞ、四郎。……そなたの見る新しい世の景色、わしも少しだけ、見てみたかったわ」

 戦国の世を駆け抜け、一代で武田の最大版図を築き上げた男は、こうして飽くなき未来への渇望を後継者に託したのであった。


 勝頼は、父の手を静かに布団の中へ戻し、深く、深く頭を下げた。

 こうして武勇と情で結ばれた古き良き、猛虎率いる武田の時代が静かに終わりを告げたのであった。

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