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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第五十三話:覇道呪縛

第五十三話:覇道呪縛


 深い雑木林が作り出す暗闇の中で、真田昌幸は、己の鼓動がかつてないほど激しく、不規則な拍動を繰り返しているのを感じていた。

 視界の先では、徳川家康の背中が、重い足取りで夜の帳の奥へと溶け込んでいく。

 その背中には、数刻前まで三河武士を率いて台地に陣を構えていた大将の覇気など微塵も残っていなかった。肩は落ち、足取りは覚束なく、まるで己の魂そのものをこの薄暗い獣道に置き去りにしてしまったかのごとき、生ける屍の有様であった。


 昌幸は馬上から、静かに太刀を鞘に収める武田勝頼の横顔を盗み見た。

 勝頼は家康を捕縛するでもなく、武田の軍門に降るという誓詞を書かせるでもなく、ただ冷徹な言葉の刃でその心を徹底的に壊し、生かして浜松へと帰したのである。


(……なんと恐ろしく、そして完璧な手口か)

 昌幸は、冷たい夜気を深く吸い込みながら、今しがた目の前で繰り広げられた精神の凌遅を反芻していた。

 戦国の世において、敵の総大将を追い詰めたならば、首を刎ねて領地を奪うか、あるいは人質を取って起請文を書かせ、己の傘下に組み込むのが絶対の常識である。だが、勝頼はそのいずれをも選ばなかった。

 家康は武田に降伏したわけではない。形の上では、依然として三河と遠江を治める独立した大名であり、織田信長の同盟者である。だが、その実態は完全に変質してしまっていた。


 勝頼が家康の心臓に打ち込んだのは、肉体を貫く物理的な刃ではない。唯一の頼みであった信長に捨て石として見捨てられていたという残酷な真実と、己の思考から逃げ道に至るまですべてが武田の掌の上にあったという、底知れぬ恐怖である。

 昌幸の明晰な頭脳は、勝頼が放ったその見えざる毒が、今後この日ノ本の盤面にいかなる影響をもたらすのかを、恐るべき正確さで読み解き始めていた。


(勝頼様は、家康に織田に対する修復不能な猜疑心を骨の髄まで植え付けられた。……浜松城へ逃げ帰った家康は、今後いかにして生きるのか)

 昌幸は己の内で問いを立て、そして自ら答えを導き出す。

 戦場で味方を見殺しにするような同盟者を、果たしてこれまで通りに信じることができるだろうか。いや、できぬ。家康の心には、織田からの使者が訪れるたび、援軍の報せを聞くたびに、また己を身代わりの捨て石にするつもりではないかという暗い疑念が必ず鎌首をもたげる。信長への不信は家康の判断を鈍らせ、両家の間には決して埋まることのない深い溝が穿たれる。


(それだけではない。勝頼様は家康に、武田に逆らえばいつでもその命を握り潰せるという絶対的な恐怖をも刻み込んだ。織田を信じられず、武田に抗う勇気も持てぬ家康は、結局どうなるか)

 その答えに辿り着いた瞬間、昌幸は背筋に氷柱を突き立てられたような感覚を覚えた。


 動けなくなるのだ。

 家康は浜松城に引きこもり、外敵の影に怯え、身内の裏切りを疑いながら、ただ己の保身のためだけに縮こまる優柔不断な男と化す。進むことも退くこともできず、大将としての重大な決断を下す気力すら奪われたまま、ただ暗い城の奥で息を潜めるしかなくなる。


(……なるほど。これこそが真の狙いか)

 昌幸の脳内で、散らばっていた点と点が恐ろしいほどの整合性を持って繋がっていく。

 御館様である武田信玄の命の刻限は、もう間もなく尽きようとしている。巨星が墜ちた後、勝頼の想定では、武田は国主の死を秘匿することとなり、三年のあいだ喪に服して領国を固く閉ざすこととなるだろうということだった。そのあいだに自らの国の仕組みを根底から造り替えるため、武田は外部の戦に対して完全に無防備となる。その三年間、西の国境をどう守るのか。それが最大の懸案となるはずであった。


 もし今ここで家康を討ち取っていれば、織田信長がその空白の地を埋めるべく、直接大軍を押し出してくるのは火を見るより明らかである。だが、家康を生かして戻すことで、三河と遠江には徳川という勢力が残り続ける。

 ただしそれは、かつてのような勇猛な三河武士の集団ではない。信長を疑い、連携を拒み、武田の幻影に怯えて身動きが取れなくなった、完全なる死に体の防波堤である。


 勝頼は、一兵も置くことなく、ただ家康の心に猜疑心という名の楔を打ち込むだけで、武田の西側に三年間は絶対に破られることのない見えざる城壁を築き上げたのだ。

 家康は己の意思で国を守っているつもりだろうが、その実、武田が内部から国を解体し、強固な国へと作り変えるための時間を稼ぐための、ただの巨大な盾として使役されることになる。


「勝頼様……」

 昌幸の口から、無意識のうちに深い感嘆の吐息が漏れた。

「これで家康は、向こう三年のあいだ、いかなる決断も下せぬ亡霊となりましょう。織田からの催促には曖昧に答え、我ら武田の動向にただただ怯えるのみ。自らの手で国を動かしていると錯覚したまま、その実、完全に武田の都合の良い石として使われ続ける……。なんという残酷で、見事な手立てにございますか」


 勝頼は馬の首を静かに巡らせ、暗闇に溶け込むような低い声で応じた。

「昌幸。人は鉄の牢獄よりも、己の心の中に築いた疑心暗鬼の牢獄にこそ、最も深く囚われるものだ。家康は決して降伏などしていない。己の誇りを守るため、あくまで独立した大名として踏みとどまったと思い込んでいる。だが、その実態のない誇りこそが、奴の身を縛る一番太い鎖となるのだ」


 勝頼の瞳には、かつてはるか中原の広大な大陸を支配した絶対者としての、冷え切った理の光が宿っていた。

「奴は疑い続けるだろう。信長を疑い、家臣を疑い、最後には己自身の判断すら疑うようになる。猜疑心は人の思考を奪い、時間を腐らせる。家康がその暗い沼の中でもがき苦しんでいる間に、わしはこの国を完全に造り替える」


 昌幸は、勝頼の語る未来の絵図面に、強烈な目眩にも似た陶酔を感じていた。

 武将同士の野戦での力比べなどというちっぽけなものではない。敵の心そのものを操作し、時の流れすらも己の都合の良いように設計する。

 もし、家康がその優柔不断な状態のまま数年を過ごし、やがて信長の強引な圧力によって無理やり戦場へと引きずり出されたならばどうなるか。己の確かな意思を持たず、ただ恐怖と疑念に急き立てられて出てきた軍勢など、もはや軍ですらない。いずれ必ず訪れるであろう決戦の地において、家康は己の不決断と不信の連鎖によって、惨めな自滅の道を辿ることになるだろう。


(勝頼様は、家康の命を今日奪わずとも、数年先にあるべき死の形を、すでにこの瞬間に完全に確定させてしまったのだ……)


 昌幸は、自らの知略が、いかに小賢しい手先の技に過ぎなかったかを痛感していた。

 この男の横顔を、これほどまでに間近で眺め、その恐るべき思考の片鱗に触れることができる光栄。昌幸の胸の奥底で狂熱が燃え上がり、静かな夜の闇の中で不敵な笑みとなって唇に深く刻まれた。


「……御館様が今日、三方ヶ原の台地で叩き出された華々しい大勝すらも、勝頼様がこの絶対的な呪縛を完成させるための、大いなる前段に過ぎなかったということですな」

 昌幸は、馬上から深々と頭を下げた。


「父上は、古き武士としての最後の炎を見事に燃やし尽くしてくださった。だが、我らの本当の戦はここからだ、昌幸」

 勝頼は手綱を引き、静かに歩みを進め始めた。

「西上はここまでだ。これで甲斐へ戻ることになるぞ。父上が己の命を賭して残してくださる三年の空白を、一寸の無駄もなく使い切るために」


 凍てつく月明かりの下、一人の天下人候補の魂が完全に骨抜きにされた。

 遠くで響くかすかな勝ち鬨の余韻は、古き時代の終わりを悼む葬送の調べであり、同時に、冷徹なる理の時代の幕開けを告げる静かなる号令であった。

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