第五十二話:猜疑無力
第五十二話:猜疑無力
月明かりすらも届かぬ深い谷底の隘路を、逃げ場のない沈黙が氷のように重く支配していた。
徳川家康は、前方で黒毛の駿馬に跨がり、微動だにせずこちらを見下ろす武田四郎勝頼の姿を、まるで悪夢の幻影を拒絶するかのような瞳で見つめていた。その背後に音もなく控える一千の別働隊は、不気味なほど完全に静まり返っている。
(……これが、武田の真の武だというのか。いや、違う。こんな血の通わぬ無機質な軍陣は、わしの知る武士の戦ではない)
家康の脳裏を支配しているのは、敵の圧倒的な武力による暴力的な威圧感ではない。自分という存在が、冷たい天秤にかけられ、その命の価値を冷酷に計量されているという、かつて経験したことのない実存的な恐怖であった。
そこへ、勝頼の背後の暗闇から、音もなく一人の男が進み出てきた。真田昌幸である。その手には、泥と血に汚れ、無惨に引き裂かれた一本の旗指物が無造作に握られていた。
織田の木瓜紋。佐久間信盛ら三千の援軍が掲げていた旗の成れの果てであった。
「勝頼様、連れて参りました」
昌幸の合図と共に、武田の足軽たちが数人の捕虜を荒々しく引きずり出し、家康の目の前へと放り投げた。彼らは尾張や美濃の激戦で名を馳せたはずの織田の精鋭たちであったが、今は具足も剥ぎ取られ、ただ未知の恐怖と蹂躙に遭遇した者の、虚ろで怯え切った瞳を震わせていた。
「佐久間……殿の……」
家康の唇が、絶望に浅く震えた。
自分がこの死地から脱するために必要とした、信長からの命綱。それが、全く戦うことすらせずに撤退を始め、そして、家康の目の届かぬ深い森の中で、この若き武将の手によって完全に殲滅されていたという残酷な事実。家康が最後に縋ろうとした細い蜘蛛の糸は、自ら家康の手を離れ、その上で勝頼によって指先で静かに握り潰されていたのだ。
「家康よ。この者たちの怯えきった目をよく見るがいい。……そなたが己の命と三河武士の誇りを賭して信じた同盟軍の、無様な成れの果てだ」
勝頼の低く静かな声は、一切の感情を排した冷たい響きを伴っていた。彼は馬上から、泥にまみれて震える織田の捕虜たちを見下ろし、極めて冷淡に宣告を下した。
「そなたらは、生きて尾張の織田の元へ帰れ」
その信じがたい言葉に、織田の兵たちはもちろんのこと、絶望の底にいた家康すらも思わず耳を疑った。武田の苛烈な追討を知る者にとって、敵を、それも同盟の要となる信長の精鋭をわざわざ生かして逃がすなど、戦国の常識では決してあり得ぬ所作であった。
「な……なぜ、彼らを逃がすのだ。ここで息の根を止めねば、いずれ必ずや陣を立て直し、再び武田に牙を剥くぞ」
家康の絞り出すような問いに対し、勝頼はわずかに口の端を吊り上げた。それは敵に対する慈悲などではなく、致死の猛毒を仕込んだ罠を森に放つ猟師の凄惨な笑みであった。
「ここで殺せば、ただ名もなき泥まみれの骸となるに過ぎぬ。だが生かして帰せば、この無様に怯えた者たちは底知れぬ恐怖という名の決して消えぬ種を、確実に織田の陣中へと持ち帰ってくれる。信長に伝えよ。三方ヶ原で家康がいかに無様に這いつくばって泥を啜り、織田の武威が我が武田の前にいかに無価値に磨り潰されたかをな。……信長が夢にも見たことのない新たなる武田の理の恐ろしさを、あの魔王の枕元までしっかりと運ぶのだ」
勝頼が軽く軍扇を振ると、一千の武田兵たちが音もなく左右に分かれ、獲物を逃がすように冷たい一本の道を空けた。織田の残党たちは、信じがたい安堵と、この化け物から一刻も早く離れたいという恐怖が入り混じった無様な姿で、幾度も転びながら夜の闇へと逃げ去っていった。家康は、その惨めな同盟者の背中を見送りながら、自らの内にあった武士としての自尊心が、一枚、また一枚と冷酷に剥ぎ取られていく感覚に襲われていた。
「家康。……信長がなぜ、佐久間を森の奥に伏せたのか、その真意をもう一度、そなたの骨の髄まで教えてやろう」
勝頼の暗い瞳が、家康の魂の深奥を真っ直ぐに射抜いた。
「先ほども言った通り、奴は、そなたを救う気など最初から毛頭なかったのだ。三河の獅子が武田の虎と死に物狂いで噛み合い、あわよくば互いに深く傷ついて共倒れになる瞬間を、高みの見物で待っていただけなのだ。そして、そなたが虎に敗れ、こうして惨めに散った場合には、奴は物陰に隠れ、少しでも武田の行動を足止めするだけの役割しかなかったのだ。場合によっては、その後に同盟者の弔い合戦と称して堂々と大軍を率いて武田を駆逐し、この豊かな三河と遠江の地を、恩着せがましく己の懐に収めるつもりであったのだろう。……今、そなたの胸の内に渦巻いているその身を切るような不信の痛みこそが、信長が冷徹に描いた絵図面の答えなのだ」
家康の拳が、もはや抜くことの叶わぬ太刀の柄の上で、白く強張った。
勝頼の言葉は、家康が心の奥底に必死に封じ込めていた信長への不信を、逃れようのない絶対的な真実として結晶化させた。強大な信長という太陽を信じ、その影として泥を被りながら生きることを選んだ誇り高き三河武士の忠義が、信長にとってはただの都合の良い肉壁としてしか計上されていなかったという、あまりにも惨めな屈辱。
勝頼は、その家康の激しい葛藤をはるか上空から俯瞰していた。
(……本来であれば、今ここでこの獅子の首を刎ね、憂いを断つのが戦国大名としての最善かもしれぬ。だが、この後の日ノ本の推移がそれを許さぬのだ)
父・信玄の病状はすでに極限に達しており、この歴史的な大勝を以てしても巨星の墜落という天命を回避することはできない。絶対的な大将を失う不安定な武田軍にとって、今、浜松を完全に占領し、長引く統治と織田との最前線の泥沼に足を踏み入れることは、自滅に等しい。一度、甲斐へ全軍を無事に退かせ、時間を稼ぎ、武田の組織を理想の国へと昇華させるための、三年の喪という名の絶対的な時間が必要なのだ。
(今、家康を殺さぬことが、西の国境に力の空白を生じさせない唯一の道。織田信長に入り込む余地は一寸たりとも与えぬ。……いかに、この傷ついた獅子を、我が防波堤として浜松に縛り付けるかだ)
家康の命を奪うのではなく、その心に拭いがたい不信と恐怖を植え付けること。
信長への深い疑心暗鬼を抱えた家康は、もはや織田と手放しで結びつくことはできない。かといって、底知れぬ恐怖を刻み込まれた武田に対して、自ら攻め入る勇気も持てない。
どちらを向いても地獄という絶望の中で、家康はただ己の保身に悩み、決断を下せない優柔不断な状態へと陥る。三河と遠江という西の国境で、家康が動けぬまま怯えて日々を過ごすその三年間こそが、勝頼が国を完全に作り変えるための絶対の盾となるのである。
「家康。そなたに選択肢を与えよう。……ここで武士として腹を切り、愛する三河を信長の餌食として無様に差し出すか。あるいは、生き恥を晒し、泥を啜ってでも城へ戻るかだ」
勝頼はゆっくりと馬上から腰の太刀を引き抜き、その鋭い切っ先を、家康の喉元へと静かに添えた。
金属の冷たさが、家康の首筋を伝って全身の血を完全に凍らせる。
「わしはそなたの首は獲らぬつもりだ。生かして浜松へ帰してやろう。だが、城へ戻ったとて、そなたに何ができる。もはや信長を信じることもできず、わしに抗う気力もなく、ただ暗い城の奥で、いつ裏切られるかと己の影に怯え続けるのだ。せいぜい悩み苦しみ、何もできぬまま、震えておれ」
それは、家康という武将の魂を根底からへし折り、決断力を完全に奪い去る、恐るべき呪いの言葉であった。
家康の瞳から、武将としての光が完全に消え失せた。
三河の獅子と呼ばれ、天下に並び立つことを夢見た男の心は、この瞬間、勝頼の前に完全に屈服させられたのである。
「……殺せ」
家康のひび割れた喉から絞り出されたのは、懇願にも似た悲痛な声であった。だが、己で腹を切る気力すら、もはや今の彼には残されていなかった。
「命は預けておく。その絶望の中で、己の無力さを噛み締めて生きるが良い」
勝頼は満足げに太刀を引き、静かに駒を返した。
道が開けられ、家康は亡霊のように虚ろな足取りで、浜松城へと続く闇の中へ消えていった。
見た目上の歴史は変えることなく、一人の英雄の心を徹底的に破壊し、三年のあいだ何もできぬ案山子へと造り替える。そして、やがて訪れるであろう設楽原の戦いにおいて、家康はこの疑心暗鬼に呑まれたまま、出陣することなるだろう。
その非情なる未来の道筋が、今、三方ヶ原の暗い闇の中で誰にも知られることなく完全に固定されたのである。




