第五十一話:絶望布石
第五十一話:絶望布石
三方ヶ原の赤土を舐め尽くした赤い津波の咆哮は、夜の暗い帳が下りるにつれて、不気味なまでの深い静寂へと溶け込んでいた。
徳川家康は、冷え切った冬の夜風に肺を切り裂かれそうになりながら、ただ無我夢中で愛馬の腹を蹴り続けていた。背後には、己を逃がすために盾となり、散っていった誇り高き三河武士たちの骸が幾重にも山を成しているだろう。股肱の臣たちが、自らの命を投げ打って血路を開こうと死闘を繰り広げている様が、家康の瞼の裏に鮮烈な痛みとして焼き付いていた。
(……死ねなんだ。わしはただ無様に背を向けて逃げ惑うことしかできなんだのか)
乾ききった喉の奥から、鉄の血の匂いが混じった嘔吐感がせり上がってくる。だが、敗北の激しい屈辱以上に、今の家康の全身を冷たく縛り付けていたのは、背後から本来聞こえてくるはずの凄まじい追撃の蹄の音が、今は一切聞こえないという、背筋の凍るような異常な静寂であった。
これほどの大勝を収めた軍勢であれば、我先にと敗軍の背中を追い、首級という手柄を貪るために怒涛の勢いで押し寄せてくるのが常である。武田の宿老たちも、これまでは間違いなくそうであった。現に、家康が戦場を離脱する直前まで、山県昌景や馬場信春らの軍勢は血に飢えた獣のように三河勢を追い回していたのだ。
だが、この夜の闇は、家康が長年生き抜いてきた戦国の世の道理とは、明らかに異質な気配に支配されていた。
家康は、追撃を恐れて主要な街道を避け、あらかじめ服部半蔵ら伊賀の者たちが策定していた隠密の退路へと滑り込んだ。そこは、熟練の猟師や忍びですら夜間に足を踏み入れるのを躊躇うほどに険しく入り組んだ獣道であり、追撃されたとしても逃げ切れるほどの三河や遠江の地理に精通した徳川の将兵だけが共有する、最後の命綱であった。
(ここを抜ければ、浜松城の西の裏門へと辿り着ける。……それにしても、織田はどうしたのだ。なぜ信長の援軍は、我らが崩れるその時まで動かなかったのだ)
家康の心臓を、織田信長への拭いがたい黒い疑念が音を立てて食い破ろうとしていた。信長は自分たちを助ける気など、最初からなかったのではないか。強力な武田の軍勢を少しでも削り、その底力を測るために、三河武士の命をあえて捨て石として使い潰したのではないか。その鋭い疑念は、戦場で負った刀傷よりもはるかに深く、家康の信長に対するこれまでの同盟の義を急速に腐らせていった。
そして。
獣道の出口、冬の冷たい月光がわずかに差し込む狭隘な谷間に差し掛かったその瞬間である。家康の愛馬が突如として前足を浮かせ、狂ったように激しくいななき、その場で完全に立ち竦んだ。
家康の瞳が、理解の及ばない驚愕に大きく見開かれた。
そこには、松明一本すら掲げず、暗闇に完全に同化した鉄の壁が、音もなく立ち塞がっていたのだ。
武田勝頼が直率する別働隊の一千。彼らは一寸の乱れもない分厚い槍衾を形成し、家康の唯一の逃げ道を完全に塞いでいたのである。彼らは勝利の歓声を上げることも、大将の首を獲ろうと怒号を上げることもなく、ただ呼吸すら揃えられた無機質な殺意の切っ先を、逃げ場を失った家康へと静かに突きつけていた。
(なぜだ……。なぜ、我らしか知らぬはずのこの秘められた道を、奴らはあらかじめ知っているのだ)
家康は震える手で腰の太刀を引き抜こうとした。だが、前方から音もなく放たれる圧倒的な死の重圧に当てられ、指一本動かすことができなかった。赤備えの激しい突撃とは全く違う、感情を持たぬ冷酷な意思そのものに呑み込まれたような、底知れぬ恐怖。
やがて、その無言の兵たちの列が、海が割れるように静かに、そして滑らかに左右へと開いた。
青白い月光を背負い、黒毛の駿馬に跨がって悠然と姿を現したのは、若き後継者、武田勝頼であった。
勝頼の昏い瞳と視線が交差した瞬間、家康は己の命の重みが、夜霧のように音もなく霧散していく感覚を覚えた。それは、先刻まで戦場を支配していた武田信玄の、あの猛虎のような熱き威圧感ではない。万象をただ理知的に処理し、個人の生と死すらも国を回すための消費として計上するような、絶対零度の冷気を纏った覇気であった。
勝頼は馬上から、家康の魂の底にへばりつく絶望を静かに観察していた。
今の勝頼にとって、ここで疲れ果てた家康の首を刎ねることは、赤子の手を捻るよりも容易いことであった。宿老たちの熱狂を待たずとも、この一千の兵に命じれば、一瞬にして徳川の命脈を絶つことができる。だが、彼が脳内に描いているはるか先の天下の絵図面は、家康の死は武田にとって致命的な悪手であることを冷酷に告げていた。
(……今、この場でこの男を殺し、徳川の家を完全に滅ぼせば、間違いなく織田信長は主を失った三河と遠江の地を直接自らの支配下に置こうと大軍を動かしてくるだろう。そうなればどうなるか)
勝頼の思考は、感情の一切を排除して先の先までを正確に弾き出している。
信玄の命の刻限は、もう長くはもたない。どれほど華々しく勝利しようとも、大将が病に斃れれば、全軍は必ず甲斐へと退かねばならなくなる。さらには、兵糧の算段からしても、現状では遠江や三河の敵地深くに長期間大軍を駐留させ続けることは不可能に近い。
もし家康を殺してしまえば、死にゆく巨星を抱え、さらに三年という長い喪に服して国を固く閉ざすことになるであろう武田の無防備な西の国境が、あの底知れぬ野心を持つ信長に直接晒されることになるのだ。それは、これから旧体制の解体と新たな法治国家の建設という大手術を控えている武田にとって、防ぎようのない破滅を意味していた。
ならば、この徳川家康という敗軍の将を、どう生かして使うべきか。
勝頼の出した解は、極めて冷酷かつ合理的なものであった。この男を死の淵まで追い詰め、その魂に拭いがたい不信と恐怖という名の太い杭を打ち込んだ上で、あえて生かして三河遠江へ放り戻す。それによって、徳川を武田の西側を守る強固な防波堤とし、さらには織田信長に向けた時限の火種として再編して利用するのだ。
「家康よ。……退路を断たれ、泥にまみれた獅子の目は、存外に濁っているな」
勝頼の低く、静寂を切り裂くような重い声が、狭い谷間に響き渡った。
家康は太刀の柄を握りしめたまま、その場に跪かんばかりの圧倒的な圧迫感に歯を食いしばって耐えていた。
「貴様は何者だ……。わしの思考を……わしの最後の逃げ道さえも、すべて読み切っていたというのか」
「わしは、武田信玄が子、勝頼である。そなたの逃走の歩みなど読み切るまでもない。怯えた鼠が必ず選ぶ、最も暗く安全な穴をあらかじめ塞いで待っていただけのことに過ぎぬ」
勝頼は、家康の瞳の奥底に巣食う疑念の影を見透かすように、ゆっくりと致命的な言葉を放った。
「……まず、そなたが最後の頼みの綱としていた織田の援軍は、先ほどわが手によって完全に壊滅させられた。信長はな、そなたを助ける気など端からなかったのだ。そなたを見殺しにして我ら武田の陣形が乱れるのを待ち、そなたの敗北後にあわよくば我が軍勢の背後を突こうと、卑怯にも森の奥に伏せていたのだよ。……家康よ。まだ死に場所を探す段階ではない。そなたには、まだこの日ノ本で果たすべき無様な役割が残っているのだ」
その言葉は、家康の心に決定的な絶望と、信長に対する修復不可能な強い憎悪を植え付けた。自分が必死に盾となって戦っている裏で、同盟者は自分を餌として使い捨てる気であったという冷酷な真実。それが、武田の若き後継者の口から揺るぎない事実として突きつけられたのだ。
勝頼の唇が、夜の闇の中で不敵に吊り上がった。
敵の首を狩って領地を奪うという、血生臭い古い戦国の論理ではない。敵をあえて生かし、最も都合の良い恐怖の駒へと造り替えて己の盾とする、絶対者の冷酷なる論理。
家康の瞳に、その場で命を奪われる恐怖以上に、底の知れぬ怪物に支配されていくことへの、実存的な深い絶望が宿った。
甲斐の虎が戦場で華々しく放った武威の裏側で、真の恐ろしき采配が、誰にも知られることなく、この暗い獣道で行われようとしていたのである。




