第五十話:帝王畏怖
第五十話:帝王畏怖
三方ヶ原の乾いた台地には、血なまぐさい風とともに、勝利を祝う武田軍の重厚な法螺貝の音が響き渡っていた。
徳川家康の馬印を打ち砕き、這々の体で浜松城へと敗走する敵軍の追撃から戻った武田の宿老たちは、本陣においてかつてない昂揚の中にいた。山県昌景や馬場信春の周囲では、泥と血にまみれた兵たちが地鳴りのような勝ち鬨を上げ、戦場特有のむせ返るような熱気が冬の夜気を力強く押し返している。
彼らの瞳には、自分たちが信奉してきた武勇が依然として天下無双であるという確信が、熱を帯びて宿っていた。
「見たか、三河武士の脆さを。我ら赤備えがひとたび牙を剥けば、束になって逃げ惑うただの兎よ」
山県昌景が、首実検のために並べられた敵将の兜を眺めながら豪快に笑った。
「それにしても呆れたのは織田の援軍よな。三千もの兵を送り込んでおきながら、我らが徳川の陣を食い破るや否や、一兵も交えずに早々に尾張へと逃げ去りおった。信長とやらも、甲斐の虎の前では形無しよ」
馬場信春もまた、武具の泥を払いながら深く頷いた。彼らの目には、佐久間信盛ら織田の軍勢は、武田のすさまじい猛攻に肝を潰し、同盟者を見捨てて一目散に退却したものと完全に映っていたのである。
だが、その狂熱の中心、幾重にも張られた陣幕の奥に座す武田信玄の瞳に宿っていたものは、大将としての勝利の喜びではなかった。
信玄は、床几に座したまま、口元を覆う布に吐き出された赤黒い血をじっと見つめていた。その時、陣幕が静かに開き、透波の出浦盛清が音もなく現れて深く平伏した。
「……申し上げます。別働隊の勝頼様、北の森にて織田の増援、佐久間信盛ら三千の軍勢と激突。これを完膚なきまでに撃破し、敵は一切の統制を失って散り散りになり敗走いたしました」
盛清がもたらしたその短い一報が、本陣を支配していた祝祭の空気を、一瞬にして冷や水のように凍りつかせた。
山県昌景が、敵の血に濡れた兜を置こうとしていた手をぴたりと止めて問い返した。
「……織田の増援、だと。何を馬鹿なことを申すか。奴らは戦う前から恐れをなして逃げ去ったはずではないか」
盛清は表情一つ変えずに答えた。
「逃げたのではございませぬ。佐久間隊は完全に森に伏し、我らが家康を追って陣形を前へと長く伸ばしたその隙を突く構えであった模様。されど、勝頼様はそれをあらかじめ見越し、敵が動くよりも先に、森の暗闇の中で一千の兵をもって完全に背後から包囲殲滅したとのことにございます」
老練な馬場信春の顔から、さーっと血の気が引いていく。
彼らは今の今まで、自分たちが家康の追撃に血道を上げている最中に、無防備となった自軍の背後を狙う三千もの伏兵が、すぐそばの森の奥深くに潜んでいたことに全く気づいていなかったのである。もし勝頼の別働隊がいなければ、武田の本隊は勝利の狂熱の最中に背後から痛撃を受け、陣形はずたずたに引き裂かれていたかもしれない。
山県昌景の刀を握る拳が、理解不能なものへの名状しがたき恐怖で小刻みに震えた。
自分たちが命を懸けて三河武士を蹂躙し、武士の意地を天下に証明したと思っていたその外側で、勝頼は自分たちが気づかなかった危機を、たった一千の兵を使い、まるで路傍の石でも蹴りのけるように事も無げに処理していたのだ。
宿老たちが誇った武勇と一撃必殺の陣形は、勝頼がの中では、敵の目をこちらへ釘付けにするための、単なる囮に過ぎなかったのではないか、とさえ思えてきたのだ。
(……若殿は、我らが見ているこの血生臭い戦場とは別の、もっと高く、もっと非情な場所から、この天下の地勢を眺めておられるとしか思えん)
山県や馬場がこれまで数十年かけて命懸けで積み上げてきた軍略の常識が、勝頼の新たなる理の前にあっては、大きな格差であることを残酷に突きつけられていた。
信玄は、口元を拭った白い布をそっと握りしめた。自らの命の刻限が間もなく尽きようとしている現実は、この大勝を以てしても上書きすることはできない。
だが、その肉体の痛み以上に信玄の魂を激しく震わせたのは、実の息子である勝頼に対する、底知れぬ畏怖であった。
(四郎……。そなたは、いつの間にこれほどまでの恐るべき景色を掴んだのだ。わしが一生をかけて血と汗で築き上げたこの武田という家を、そなたは、全く別の生き物へと造り替えることが出来てしまうまでに)
信玄には、かつて見たはずの勝頼の、偉大な父の影に怯える頼りなげな背中はもうどこにも見出すことはできなかった。今、報告の向こう側に浮かび上がる彼の姿は、一切の感情を見せず、一千の兵を一つの機械のように機能させる、冷徹なる帝王のような横顔であった。
信玄は知っていた。織田の佐久間という男は退き戦に長け、極めて慎重で隙のない将であることを。その彼が、手も足も出ずに森の中で一方的に蹂躙されたという事実。それは戦が始まる前から、勝頼は、織田の伏兵の動きすらもすでに予測をし対処した結果としてあらかじめ確定させていたことを意味していた。
(わしがいなくなれば、この武田はどうなるのか。……いや、案ずる必要はないのだろう。四郎は、わしという過去の壁を、すでに遥か上空から飛び越えているのだからな。この日ノ本という狭い島国など優に通り越すような、果てしない永遠の法を敷くような気までしてくるものだ)
信玄の胸の内にあったのは、息子が立派に育ったという父親としての安堵だけではなかった。それは、自らが人生を捧げて磨き上げてきた武士の美学が、勝頼の持ち込んだ圧倒的な英知によって否定され、全く別のものへと生まれ変わって突き進んでいくだろうことへの、統治者としての嫉妬と憧憬であった。
そこへ、一千の別働隊を率いた勝頼が、陣幕を揺らして静かに帰還した。
夕闇の赤黒い残照を背負い、本陣へ足を踏み入れた若き主君の姿に、宿老たちは思わず息を呑み、無言のまま道を空けた。
三千の敵兵を一方的にすり潰す激戦を制したはずの彼の具足には、驚くべきことに返り血の一滴すら付着していない。息を弾ませることもなく、ただ事務的な報告を行うために歩み寄るその姿は、血気盛んに合戦から戻った武将というよりは、大規模な治水工事や検地を終えて戻った冷徹な官吏の如き威容を湛えていた。
「父上。我らの戦の外側を汚そうとする織田の鼠どもは、すべて拭い去りました。織田の増援の生き残りはあえて仕留めず、家康の敗走路へと追い込んであります。己の知恵が全く通じぬ化け物がいるという武田への恐怖を、奥底まで運ばせるために」
勝頼の言葉には、目障りな敵を討ち取った勝利への自負も、敵への憎しみも一切なかった。ただ、決められた機能を狂いなく果たしたことへの、淡々とした確認の響きがあるのみだ。
信玄は、激しくこみ上げる咳を強引に喉の奥へ抑え込み、息子を深く仰ぎ見た。
「……四郎。見事であった。だが……覚えておくのだ。人は……法や算術だけで動く道具ではない。感情という理不尽で厄介な火で動く生き物であることをきっと忘れるなよ。数理と掟だけで天下のすべてを縛ろうとすれば、いずれその圧力に耐えかね、国は内側から弾けよう」
勝頼は、父のその重い警告の言葉さえも、想定内の事象として受け流すかのように、静かに、しかし絶対的な冷気を持った一瞥を返した。
「父上が築き上げた武田の武威は、今日この三方ヶ原において、歴史上これ以上にない最高の輝きを放ちました。……そして、これより始まるのは、わしの時間です。わしは、二度とこの武田を滅ばせはしませぬ」
その氷のように澄み切った言葉は、信玄にとって最大の救いであり、同時に、終わりを告げる残酷な死刑宣告でもあった。
信玄は満足げに、しかし旧き時代の覇者としての果てしない孤独な寂寥を込めて、わずかに口角を上げた。自分の時代が、この完璧すぎる勝利という名の豪奢な棺に納められたことを、彼はついに静かに受け入れたのである。
「……昌幸。別働隊の一千を再び動かせ。休息は不要だ。家康が逃げ込むはずの城への隘路を完全に監視せよ。父上が叩き出した勝利を、我らが決定的なものとしてさらに引き上げるぞ」
勝頼は、過酷な闇の戦いを終えたばかりの兵たちに休息を許さなかった。一千の軍勢は、勝利の酒に酔いしれる本隊の宿老たちを尻目に、再び夜の闇の深奥へと無言のまま消えていった。
信玄は、遠ざかる息子の旗印を見つめながら、自らが見ることのできないであろう泰平の国の夢を、その若き息子の背中に託したのである。




