第四十九話:効率殺戮
第四十九話:効率殺戮
深い雑木林の奥底に、紫紺の夜闇が重く澱んでいる。
木々に囲まれたすり鉢状の窪地に追い込まれた織田の三千の兵たちは、見えざる敵への恐怖と極度の緊張により、もはや正常な判断力を完全に失っていた。
「撃てッ。闇雲でも構わぬ、放てッ。奴らを一歩も近寄らせるな」
佐久間信盛の裏返ったような絶叫が響く。それを合図に、最前列へ押し出された織田の鉄砲衆が、震える指で次々と火縄銃の引き金を引いた。
轟音とともに、森の暗闇に不規則な閃光が幾筋も走る。湿った夜の空気を切り裂いて硝煙の白白い煙が立ち込め、むせ返るような硫黄の匂いが漂った。
しかし、その直後に訪れたのは、敵兵が倒れる呻き声でも、陣形が崩れる音でもなかった。
ぱきり、からり、と乾いた音が森の木々に虚しく響き渡るだけである。
放たれた鉛玉の多くは、連日の長雨と森の湿気で火薬が湿っていたために銃身から勢いよく飛び出すことすらできず、あるいは放たれたものも、勝頼の軍勢に届くはるか手前で失速し、虚しく濡れた落ち葉の上へと落下していった。
勝頼は、火縄銃の有効な間合いと、森の木々が弾道を遮る確率を計算し、弾丸が絶対に届かない境界線の外側に自軍を停止させていたのである。
「……無駄な火花が散っているな。昌幸、あれが織田信長の誇る新しき戦の限界だ」
勝頼は、硝煙の向こうで右往左往する織田兵たちの無様な姿を見下ろしていた。
「どれほど新しき武具を揃えようとも、それを使う者が恐怖に飲まれ、距離も測れずに闇雲に引き金を引くようでは、ただの張子に等しい。……掃除を始めるぞ」
勝頼が静かに右手を振り下ろした。
どん、どん、どん。
跡部勝資の打つ陣太鼓が、再び重い律動を刻み始める。これまで静止していた一千の別働隊が、一斉に長槍を水平に寝かせた。
それは、日ノ本の武士が見慣れた戦の光景ではなかった。名乗りを上げ、己の武功を誇示して一番槍を争う猛者たちの姿はない。ただ、左右の歩幅を完全に揃え、隣の兵と肩が触れ合うほどに密着したまま、一千本の槍が一つの巨大な刃の壁となって、無機質な殺意と共に前進を開始したのである。
「突き崩せッ。武田の田舎侍どもを、この森の肥やしにしてやれッ」
弾を込め直す暇もない織田の兵たちが、捨て身の覚悟で刀や槍を振り回し、迫りくる武田の軍列へと斬りかかった。彼らとて尾張や美濃の激戦を生き抜いてきた精鋭であり、個々の武勇において一騎当千の猛者も数多く含まれていた。
しかし、彼らが直面したのは、これまでの戦場での経験が一切通用しない、人の血が通っていない組織の暴力であった。
織田の兵が一人、勇猛果敢に雄叫びを上げて武田の槍の隙間に飛び込もうとする。しかし、彼が一人の敵兵に刃を振り下ろそうとしたその瞬間に、隣の兵が機械的な正確さでその脇腹を槍で突き、さらに後方の列から別の槍が無言で伸びてきて喉元を正確に貫く。
武田の兵たちは、決して一対一の勝負に応じることはない。常に三人、四人が連携し、近付く敵を流れ作業のように淡々と処理していく。そこには武士の情けも、個人の誇りも存在しなかった。ただ、中原の広大な平原で磨き上げられてきた効率的な殺戮の論理だけが、この森を完全に支配していた。
「な、なんだこいつらは……。化け物か、人ではないのかッ」
佐久間信盛は、自軍の三千という優位が、わずか半刻足らずのうちに無残に削り取られていく様を目の当たりにし、歯の根が合わなくなるほどの悪寒に襲われた。
目の前の軍勢は、顔に味方の返り血や敵の生温かい血肉を浴びても、表情一つ変えずに歩みを進めてくる。万が一、織田兵の決死の反撃によって武田の兵が一人倒れたとしても、その背後にいる者が、倒れた味方の骸を一瞥もせずに踏み越え、即座にその穴を埋めて陣形を維持するのだ。
それは、織田信長が銭の力で築こうとしている兵農分離の軍を、さらに数段上の次元で完成させた、冷酷なまでに美しい死の機構であった。
佐久間が誇っていた最新の軍略や合理性など、勝頼の敷いた絶対的な理の前では、いささかの意味も持たなかった。窪地に追い込まれ、密集して身動きが取れなくなった織田の兵たちは、逃げ場を失い、次々と無言の槍衾の餌食となっていく。
「退け。退けえッ。こんな狂った連中とまともに戦えるか。死に絶えるぞ」
佐久間はついに戦意を完全に喪失し、己の馬の首を強引に返した。主将が背を向けて逃げ出したことで、織田の兵たちは完全に統制を失い、武器を投げ捨てて我先にと暗い森の奥へと逃げ惑い始めた。だが、泥濘に足を取られ、暗闇で木々にぶつかりながら逃げる彼らの背中に、容赦のない無機質な槍が次々と突き立てられていく。
勝頼は、馬上でその一方的な蹂躙の風景を、まばたき一つせずに見下ろしていた。
彼の瞳には、敵への憎しみも、圧倒的な勝利への昂揚も一切浮かんでいない。ただ、自分の算段通りに不要な不純物が盤上から排除されていく過程を、冷徹に見届けているだけであった。
「……昌幸」
勝頼の静かな声が、血の匂いがむせ返るように充満する森に響いた。
「はっ」
「追撃はここまでだ。深追いは無用。佐久間本人は、わざと生かして尾張へと逃がしてやれ」
昌幸は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに主君の意図を察して深く頷いた。
「御意に。家康の忍びの時と同様、信長にも、己の知恵が全く通じぬ化け物が武田にいるという底知れぬ恐怖を持ち帰らせるのですね」
「左様。単なる武力で叩き潰すだけでは、奴の野望は完全に折れぬ。まずは、信長の心に、理の恐怖という決して癒えぬ毒を骨の髄まで植え付けるのだ」
勝頼が軽く手を挙げると、太鼓の音がぴたりと止まり、一千の兵が即座に槍を引き、石像のようにその場に静止した。
その圧倒的な統制力と、血の海の中で一切の熱を持たぬ軍団の姿に、昌幸は背筋を粟立たせながらも、狂おしいほどの歓喜を覚えずにはいられなかった。
そして、昌幸は、敗走していく織田軍の足音が遠ざかるのを聞きながら、胸の中で快哉を叫んだ。
同じ頃、三方ヶ原の平原では、いまだ武田本隊による徳川軍への凄まじい追撃が続き、熱狂の勝ち鬨が天を焦がさんばかりに上がっている。
だが、この北の深い森の奥底で、誰の目にも触れることなく行われた一方的な蹂躙劇こそが、真の意味での歴史的な殺戮であった。
「……さあ、これで目障りな織田の鼠の始末は終わった」
勝頼は、馬首をゆっくりと浜松城の方角へと向けた。




