第四十八話:無明包囲
第四十八話:無明包囲
三方ヶ原の北端に広がる深い森の奥底。平原から風に乗って微かに響いてくる武田本隊の凄まじい勝ち鬨の余韻すら、この鬱蒼とした暗闇の空間では、ひどく遠い出来事のように感じられた。
織田の将、佐久間信盛は、己の背後の闇の中からぬっと現れた若き将、武田四郎勝頼の無慈悲な宣告に言葉を失い、太刀を握る手ごと完全に凍りついていた。
「どういうことだ……。なぜ、松明一つ掲げておらぬ暗闇の中で、これほどの一大隊列を乱れもせずに組めるのだ」
佐久間の脳裏を、理解の及ばない事象に対する強烈な混乱が駆け巡る。
通常、夜の森を千もの人間が移動すれば、具足が擦れる音、木の枝を踏み折る音、そして何より、一寸先も見えぬ闇への恐怖から生じる兵たちの呼吸の乱れが、隠しようのない不協和音となって必ず漏れ出るものである。障害物だらけの地形で軍を動かせば、いかに精鋭であろうとも統制を失い、個々の判断で足元を探る脆い集団へと退化する。それが、日ノ本の戦における絶対の常識であった。
しかし、目の前に立ちはだかる一千の武田兵は、誰一人として陣形を乱すことなく、分厚い槍衾を冷酷なまでに整然と構えている。
背後で馬を静止させている真田昌幸は、この圧倒的な優位を作り出した勝頼の背中を、畏怖と狂喜の入り混じった眼差しで見つめていた。
森へ突入する前、勝頼は兵たちに一切の私語を禁じ、ただ跡部右衛門尉勝資が鳴らす陣太鼓の一定の拍子にのみ、己の鼓動と歩幅を合わせるよう厳命したのである。
かつて甲府の練兵場で、山県や馬場ら宿老たちが何の役にも立たぬと嘲笑したあの単調な行進教練。その真価が、この深い闇の中で恐るべき実を結んでいた。
兵士一人ひとりが、暗闇の中で「目で見て動く」という個人の意思を完全に捨て去っている。彼らは視界に頼らず、両隣の者の肩の気配と、耳に届く太鼓の拍子だけを頼りに、歩幅を一定に保つことで木々や起伏を乗り越えていた。個の恐怖や迷いは、徹底した組織行動によって強制的に忘れ去られ、ただ前進して巨大な壁となるという機能だけが純化されていたのである。
さらに昌幸を戦慄させたのは、勝頼の恐るべき陣取りの妙であった。
この入り組んだ森の中で、勝頼は迷うことなく佐久間が潜む座標を正確に割り出した。それは忍びの直感や野生の勘などではない。
「左方の風の抜け方が変わった。歩幅を三寸縮め、槍の密度を上げよ」
森を進む最中、勝頼は微かな風の動きや大地の傾斜、そして兵士一人ひとりの歩数から逆算される座標の管理によって、頭の中に完璧な森の地図を描き出し、進路を微調整し続けていたのだ。かつて中原で数多の夜戦を経験し、果てしない平原を幾万の軍で動かした記憶が、この極限の精度を可能にしていた。
昌幸は、かつて出浦盛清ら忍びに叩き込まれた暗闇の歩き方を思い出した。それは五感を極限まで研ぎ澄ませ、個人の卓越した技で危機を回避する術であった。しかし勝頼が行っているのは、その不確かな個人の技を完全に排除し、数理という絶対的な定数で軍全体を一つの生き物として制御する行為であった。
「……勝頼様。もはや、我らの知るこれまでの合戦ではありませぬな、これは」
暗闇を進む最中、昌幸が思わず漏らした囁きに対し、勝頼は一度も視線を外さず、ただ短く応えた。
「ああ。父上の戦いを外側から汚そうとする不純物を、一気に拭い去るだけの掃除に過ぎぬ」
その掃除のための完璧な包囲網が、今、織田の三千の精鋭たちを完全に飲み込んでいた。
佐久間信盛は、数においてはこちらが三倍も有利であるにもかかわらず、全く身動きが取れないという理不尽な状況に陥り、冷や汗を流していた。
勝頼は、佐久間の軍勢をわざと森の木々が密生し、最も身動きの取りにくいすり鉢状の窪地へと追い込むように背後を取っていたのである。織田の三千は、その数の多さゆえに木々に阻まれて横に陣形を広げることもできず、互いの体が邪魔をして満足に槍を振るう空間すら持てなかった。密集しすぎた兵たちは、暗闇の中で見えざる敵の圧迫感に怯え、後ずさろうとして味方同士でぶつかり合い、隊列はすでにぐちゃぐちゃに崩れ去っていた。
「退くな。怯むな。敵は少数に過ぎぬ。こちらは三千だ」
佐久間は己の恐怖を振り払うように絶叫し、必死に陣形を立て直そうとした。
彼は自らが信長の教えを受けた、最新の合理的な軍略の体現者であるという強い自負を持っている。武田の騎馬軍団など、長槍と鉄砲を組織的に用いれば容易に崩せるはずであった。だが、目の前にいるのは騎馬ではない。自分たちよりも遥かに機械的で、血の通っていない歩兵の無機質な壁であった。
自分たちが仕掛けたはずの罠が、さらに遥か高みから見下ろされ、あらかじめ完全に計算し尽くされた上で、退路ごと包囲されている。その事実が、佐久間の合理性を根底から破壊し、パニックへと追い込んでいく。
「ええい、こうなれば力押しよ。鉄砲衆、前に出ろ。構えよ」
佐久間の怒号を受け、織田の兵たちが互いを押し退けるようにして、どうにか鉄砲隊を最前列へと押し出した。
連日の長雨で火縄が湿り、不発が多いことは分かっている。だが、轟音と閃光を放つ鉄砲を撃ちかければ、いかに不気味な軍勢であろうとも必ず怯み、そこに陣形の隙が生まれるはずだ。佐久間はそのわずかな綻びを突いて、この薄気味悪い森から一気に脱出する腹積もりであった。
暗闇の中で、織田の鉄砲衆が必死に火縄の火種を吹き、銃口を武田の陣へと向ける。
その様子を、勝頼は馬上からまるで止まった風景でも眺めるかのように、一切の感情を交えずに見つめていた。
「……無駄な足掻きを」
勝頼は軽く右手を挙げ、跡部へと無言の合図を送った。
どん、と陣太鼓が一度だけ重く鳴り響く。
それを合図に、じりじりと前進を続けていた武田の一千の兵が、一寸の乱れもなく、その場にぴたりと静止した。
ざっ、という衣擦れの音が森に響いた後、完全な静寂が落ちる。
真田昌幸は、なぜこの瞬間に前進を止めたのか、その恐るべき意図に気づき、思わず息を呑んだ。
(……なんと。敵の鉄砲の射程を完全に測り切り、弾が絶対に届かぬ境界線を見極めて、あえてそこに軍を停止させたのか)
暗闇の森の中では、正確な距離感など掴めるはずがない。だが、勝頼の頭脳に描かれた数理の地図は、織田の兵が持つ火縄銃の威力と、森の木々が弾道を遮る確率を弾き出し、最も安全で、かつ敵に最大限の恐怖を与える絶妙な間合いを完全に掌握していたのである。
織田の兵たちは、目の前で不気味に立ち止まり、微動だにしない武田の槍衾に向けて、震える手で銃座を固めた。暗闇と恐怖で距離感が狂っている彼らは、もはや狙いを定める余裕などなく、ただ目の前の圧力から逃れたい一心で引き金に指をかけていた。
勝頼は、冷え切った瞳で佐久間の焦燥を射抜きながら、これから始まる一方的な殺戮の幕開けを静かに待っていた。
次なる瞬間、織田の放つ無力な火花が、歴史の転換点となる凄惨な舞台の合図となることを、ただ一人確信しながら。




