第四十七話:伏兵傲慢
第四十七話:伏兵傲慢
三方ヶ原の北端、幾重にも重なる鬱蒼とした雑木林の奥底には、冬の冷たい湿り気を帯びた重苦しい沈黙が、底なしの泥のように深く淀んでいた。
頭上を覆う葉群の隙間からは、傾きかけた冬の夕陽が血のような赤い光を落としているが、森の地表の暗がりまでは届かない。
織田の将、佐久間信盛は、太刀の柄に手をかけたまま微動だにせず、木々の隙間から広大な平原の動向をじっと窺っていた。彼の背後には、主君である織田信長から預けられた三千の精鋭が、息を潜めて冷たい土の上に蹲っている。彼らは皆、尾張や美濃の血生臭い激戦を幾度も潜り抜けてきた熟練の兵たちであり、その呼吸音さえも風に揺れる森のざわめきに完全に溶け込ませる術を心得ていた。
「……家康殿も、存外に脆いものよな」
佐久間は、凄まじい土煙を上げて浜松城へと敗走していく徳川軍の残像を、冷ややかな、そして完全に見下すような眼差しで見送っていた。
開戦直後、武田の猛攻を前に徳川の陣が瓦解の兆しを見せたと同時に、佐久間は早々に軍を後退させ、この森の中に兵を潜ませていた。退き戦に長けた彼にとって、徳川家康という男は、同盟者とはいえ、武田信玄という旧き時代の強大な覇者を疲弊させるための、単なる使い捨ての肉の壁に過ぎなかった。
信長から授けられた密命は至極明確である。無用な損耗は避けよ。徳川が地の利を生かして武田を押し返せばそのまま共に攻め滅ぼし、もし敗れそうならば決して深入りせず、武田の本隊が勝利の狂熱に浮かされて陣形を乱した瞬間、その無防備な脇腹をこの森から一気に食いちぎる。徳川がどうなろうとも、武田の主力に痛撃を見舞い、武田を撹乱させながら尾張へと帰還する。それが、自分たちに与えられた真の役割であった。
佐久間の心中には、他者を完全に見下した揺るぎない傲慢さが太く根を張っていた。
彼は、自らが信長の推し進める、最新の戦を体現しているという強烈な自負に酔いしれていた。己の力と手柄のみを頼みとする古い戦はとうに終わった。銭で鉄砲を買い集め、無駄な血を流さずに勝つ。それこそがこれからの日ノ本を統べる道理である。武田のような、地縁と血縁、そして個人の武勇のみに縛られた古い騎馬軍団など、緻密に組織化された兵の前には、ただの巨大な標的でしかない。
(信玄、山県、馬場……。貴様らがどれほど個の槍働きを誇ろうとも、我が主君の考える新しい戦の前には無力よ。時代の潮流を読み違え、古い情にすがる者どもに、ふさわしい凄惨な敗北を与えてくれるわ)
佐久間は、信長が常々語っていた「合理」という言葉を脳内で反芻していた。力には力を、速さには速さを正面からぶつけるのではない。敵の思考の裏をかき、外側から致命的な不備を突く。その教えを今、この三方ヶ原の地で完璧に実践しているという確信が、彼の唇に不敵な笑みを深く刻み込ませていた。
平原からは、武田軍の天を衝くようなすさまじい勝ち鬨が、地鳴りのように響いてくる。
家康を浜松城まで一気に追い落とそうと、武田の本隊がそれまで美しく保っていた魚鱗の陣を崩し、無秩序な追撃路へと雪崩れ込んでいく様が、枝葉の隙間から透けて見えた。
猛将たちが我先にと功名を競い合い、互いの背中を追い越そうとするがゆえに、完璧であったはずの陣形が長く間延びし、無防備な側面が大きく晒されている。それこそが、佐久間が暗がりの中で待ち続けていた隙であった。
「予定通り、時は満ちた。者ども、武器を取れ。武田の老いぼれた虎の皮を、生きたまま剥ぎ取ってくれるわ」
佐久間が低く下知を飛ばした。織田の兵たちが一斉に腰を浮かし、獲物を狙う野獣のような殺気を研ぎ澄ませる。
しかし。
まさに彼らが森の暗がりから平原へと飛び出そうと足を踏み込んだ、その刹那であった。
どん、どん、どん、どん。
森のさらに奥深く、自分たちが完全に安全だと信じて背を向けていた方向から、聞いたこともない奇妙な音が響いてきた。
それは武士の戦場に鳴り響く、勇壮な法螺貝の音ではない。あるいは、突撃の士気を鼓舞する激しい陣太鼓の音でもない。ただ一定の重い律動を刻み、大地の底を這うように伝わってくる、ひどく無機質で冷え切った音であった。
「……何だ、今の妙な音は」
佐久間が怪訝に眉をひそめ、背後の漆黒の暗闇を振り返った。
音は、不気味なほど正確な間隔を保ちながら、刻一刻と、しかし確実にこちらへ向かって近づいてくる。それに合わせて、複数の人間が足並みを完全に揃えて行進する、重く、規則正しい地響きが森の湿った空気を震わせ始めた。
「物見。背後に何奴かおるのか。なぜ報せが来ぬ」
佐久間の苛立った怒声に、森の深奥へと放っていたはずの偵察兵からの返答はない。
代わりに深い闇の中からぬっと現れたのは、松明の明かり一つ掲げず、完全な静寂を纏って歩み寄ってくる、巨大な人の壁であった。
佐久間の瞳が、理解の及ばない驚愕に大きく見開かれた。
森の霧の向こうから、一糸乱れぬ分厚い槍衾を形成した軍勢が、太鼓の音に合わせて機械的な正確さで前進してくる。
この陽の落ちかけた薄暗く足場の悪い森の中で、なぜ彼らは木々の根に足をとられることもなく、これほどまでに整然と進んでこられるのか。彼らは個々の名を名乗ることも、一番槍の武勲を求めて叫ぶこともしなかった。ただ、自分たち織田の兵を、目の前に転がる邪魔な障害物と見定めたかのように、感情の一切こもらない無機質な殺意の切っ先を、音もなく突きつけてくるのだ。
佐久間の背筋を、かつての激戦の数々でも経験したことのない、形容しがたい冷たい感覚が駆け抜けた。
自分たちが信長の教えの下に仕掛けたはずの罠が、さらに遥か高みから見下ろされ、あらかじめ完全に計算し尽くされた上で、逃げ道ごと背後から包囲されて飲み込まれようとしているのだ。
「なぜだ……。なぜ、我らの背後に敵兵がおるのだ。なぜ、この松明もない深い暗闇で、これほど整然と隊列を組んで動いているのだッ」
己の信じていた合理が足元から崩れ去る恐怖から出た佐久間の絶叫は、規則正しく響く太鼓の音にあっけなくかき消された。
闇の中から現れた一千の軍勢の先頭には、すべてを計算し尽くした絶対者としての冷え切った瞳を薄暗がりの中で光らせる、一人の若き将の姿があった。
「佐久間信盛。そなたの常識など通用しない。わしの描く理の前では、ただの小賢しい泥遊びに過ぎぬわ」
武田四郎勝頼。
彼が率いる、感情を殺し尽くした新たなる武田の軍陣が、織田の傲慢を容赦なく粉砕するための幕を今、静かに上げたのである。




